ティミショアラ(ルーマニア)観光
2024年5月27日から30日までティミショアラに滞在しました。去年のシビウとブラショフに続きルーマニアは3回目。広い意味でのトランシルバニアにはティミショアラも数えられるようなのですが、シビウやブラショフとは全く違う街の様子でした。
【ティミショアラ空港】
シビウのとき同様、ドルトムント空港からWizz Airで飛びました。今年2024年からルーマニアはシェンゲン協定に加盟したのでパスポートコントロールもスタンプもナシ。去年のうちに回収しといてよかったぁ。空港はよくある地方の空港という感じで、特に目立ったものはなかったです。市街地へはバスで行けると公式サイトが言っていたのでいざバス停へ。
お分かりだろうか。空港バス路線がこんな過疎ダイヤだとは思ってませんでした、まったく。預入荷物を待つ時間を考えると、この便は定刻到着でもバス待ち1時間が確定するスケジュール。「街へ行くバスかい?ハッハッハッハ、1時間あるよ!ゆっくりしてな!」と陽気なおじちゃんに癒される始末。幸いいい天気だったので、そのへんの人とそのへんの木陰で一緒にバスを待ち、ワンコをモフらせてもらいました。
なおコーヒーを求めて空港内をうろついていたところ、出発客と間違われて職員さんに話しかけられるわルーマニア語分からないというとイタリア語で親切に案内されるわ、コーヒーの自販機はどれもいろんな意味でイマイチ機能してないわ。もうゆっくり行きなよというお達しですね。
【トロリーバス】
街を歩きながら「なんか違和感がある」と思ったら、犯人はコイツでした。トロリーバス。そういえばドイツじゃほとんどみかけないなあと。
ちなみにトロリーバスもトラムも、支払いはカードをピッ!するだけ。シビウもブラショフもブカレストもこの方式。ルーマニアでは主流なんですかね。小銭を取って置いたりアプリを入れたり券売機に行く必要がないのでとても助かります。なんか進んでるのかレトロなのかよくわからない国だなあと。
【広い!】
街を歩いて一番最初に思ったこと、それは……でかい!広い!シビウやブラショフのこじんまりミチッとした街を「ルーマニア」とか「トランシルバニア」として思い浮かべていたので面食らいましたね。
Piața Victoriei (勝利広場)はルーマニア革命で人が集まった場所の一つ。検索すると人々がこの広場を埋め尽くす写真が出てきますが、当時と今とで変わっていないならかなりの人出だっただろうと思います。本当に広い。人間との比率からサイズ感を掴んで欲しい。広い!
街並みの印象としては、ほぼブダペスト。ブカレストじゃなくてハンガリーのブダペスト。ハンガリーっぽい街並みとは聞いていたけど、マジでハンガリー。
【屋外民俗博物館】
現地の公共交通機関、現地ご飯に並ぶワシの三大好物・屋外民俗博物館。ティミショアラ郊外にもありました。Muzeul Satului Bănățeanで検索すると出てくると思います。
展示物は住宅が多く、移設元はバナト(Banat)地方のものがメインでした。バナト地方はティミショアラが位置するエリアで、ルーマニアだけではなくセルビアやハンガリーにもまたがっているそう。
ドイツ人の家やハンガリー人の家もあり、あートランシルバニアのイツメンねと見ていたら「セルビア人の家」が出現した。これは(広い意味での)トランシルバニアといってもティミショアラの特色っぽいですね。地図をよく見るとわかるのですが、セルビア国境がすぐそこです。
シビウのAstra博物館と比べて小さめなので、時間的にも体力的にもムリなく見て回れると思います。道もよく整備されているので歩きやすい!工房や道具、インフラ設備など技術面の展示に力を入れていて移設元もクルジ地方やブラショフが多いAstraに対し、バナト地方の住宅とインテリアを狙い撃ちできるのも長所ですね。
【ルーマニア革命】
ティミショアラといえばルーマニア革命です。チャウシェスク処刑にまで至ったあのルーマニア革命が始まったのがこのティミショアラなのです。ということで、革命記念博物館(Memorialul Revoluției)へ。
この博物館ではルーマニア革命以外にも第二次世界大戦後の共産化やその過程で「移送」された人々、亡命を試みる人々の声についても展示されています。最初ここから展示が始まるのですが、個々のエピソードがかなり心を揺さぶられます。駅で働く人が仕事中に「移送用車両が来る」と聞いて妻に子どもたちと一緒に隠れるよう言ったものの連行されてしまい同僚から妻が「移送用車両」に乗ったと聞いて駅へ駆けつけて「お別れだけは言えた」とか、オーストリアを目指して亡命を試みたもののハンガリー警察に捕まり「この目に自由を見せてくれ」と懇願する話、ティミショアラまで列車で移動した後警察による移動管理を避けるため列車から飛び降りて茂みに身を隠し手持ちの水とチョコレートで森や広大な大地を歩く話、などなど…。この後のルーマニア革命の展示でも「発砲されるデモ隊」の立場になるエリアもあるので、心の準備をしていきましょう。
ちなみにルーマニア革命の発端になった事件って知ってますか?チャウシェスクの失政と罪、国民の極貧生活はなかなか有名ですが、何がトリガーになったのかはあまり知られていないと思うんです。
実は「ハンガリー人の牧師さんへの強制退去命令に対する抗議活動」が発端。「え?」でしたよ、これ読んだ瞬間。要するにプロテスタントやハンガリー人というマイノリティ世界の事件だった。そして当初は「ろうそくを灯して牧師さんの家に前に立つ」という平和的な活動だったという。これにルーマニア人も含めたいろいろなバックグラウンドの人が参加し始めて、チャウシェスク打倒が叫ばれてデモ隊への発砲も起こり、ストライキを呼びかけて労働者を吸収しながら勢いを増し、最終的にはブカレストやシビウなどほかの都市でもチャウシェスク打倒運動が始まって処刑(しかも銃殺)にまで至るという。ちなみにこの間なんとたったの10日間。
てっきりチャウシェスクが無茶言って国民がキレたのを薄っすら想像してたので、かなり驚きでした(この牧師さんへの退去命令も、国民の理解を得られないチャウシェスクの命令といえばそうなのですが)。ちなみにこの牧師さん、まだ存命中です。彼も彼でハンガリーメディアの取材(番組自体はハンガリー国内でのみ放送されたものの国境地帯では電波掴めちゃってたようで、大スキャンダル状態だったらしいです)でチャウシェスクを批判しているので青天の霹靂ってわけではなかったでしょうけど、おそらく革命を起こそうとかチャウシェスクを処刑しようとまでは思っていなかったんじゃないかと。
牧師さんがハンガリーメディアでチャウシェスク批判をしていたこと、退去命令の件でハンガリー政府が彼の身柄の安全についてルーマニア政府にコンタクトしていたこと、当初の抗議活動がハンガリー人・ハンガリー系の人々によるものだったことを踏まえると「外国勢力がルーマニアの混乱と転覆を目論んでいる」といった趣旨のチャウシェスクの発言も荒唐無稽なものではなさそうに聞こえてくるという。
ちなみにチャウシェスクの裁判と処刑は法的な効力というか手続きの正当性という意味で弱いそう。革命側もこのことは認識していて即席裁判ではなくきっちり手順を踏みたかったものの、チャウシェスク奪還の動きがあり、そうなる前にやっちまおうということだったようです。
そういえば「チャウシェスク」って言いがちですが、意味するところは「チャウシェスク夫妻」よね。あそこはしっかり2人でやらかしてる。
【なんか地味にいろいろ高い】
去年行ったシビウとブラショフに比べてレストランとかお土産とか公共交通機関の料金とか色々地味に高かったです。今はヨーロッパ全体でインフレが進行していますしルーマニアは経済成長が続いてるのでそのせいなのかと思っていましたが、ブカレストより高かったです。ブカレストは都市としての規模が違うと思うので、人も観光客も多い分、薄利多売や価格競争がすすん
でいるのかもしれませんが。
【なぜかジロジロ見られる】
なぜかジロジロ見られました。アジア人少ないからというのが一番可能性が高そうですが、これはシビウやブラショフも同じだったので謎です。もしかしたら観光地化はティミショアラよりシビウやブラショフのほうが一歩先を行っているのかも。まあ悪意や敵意を感じるものではなかったので身の危険を感じたりはありませんでしたが、うん、心地よくはない。鈍感なワシが気づいたのだから、多分勘違いではなさそう。あとスーパーでサルマーレの缶詰を探していたら早々に怪しい人認定されて万引きGメンみたいな人につけられました。何探してるのかときかれ「サルマーレの缶詰」と答えたところ、「あー、ないや、それは見つからんわ」と容疑は晴れましたが……。
大学もあり都市としての規模も大きめでいわゆる「都会」な街だと思うのでちょっと驚きました。
【まとめ】
歴史や街歩きを求めるならシビウとブラショフをお勧めする(正確にいうと、ワシの趣味にハマるのはそっち)という感想ですが、両者とは全く別のルーマニアの姿を見れたこと、ルーマニア革命について学べてもっと勉強するきっかけを得たというのは大きな収穫だったと思います。ルーマニア革命、色々と詳しく見たいポイントが多いので、本買ったりして勉強したらそのうち記事にします。