見出し画像

#5 死を意識して、生が覚める


祖母が死んだ日

茶人であり、商売人の祖父を支えた祖母は今年息を引き取った。
僕にとって、初めての肉親の死。
早朝に父親から連絡があり、訃報を知った。

祖母は10年近く、病に罹り大学病院と介護施設を渡り歩いていた。受験やら新型コロナやらで会う機会がなく、まともに会話した最後のことはよく覚えていない。亡くなった施設では、すでに言葉を交わすことも目を合わせることもままならない状態であった。幼い頃はお店番を一緒に手伝ったり、休みの日に近くの駄菓子屋さんに連れて行ってもらったりしたものだ。

人間の姿形を緩やかに、それでいて一瞬に豹変させてしまう「老い」に言葉を失っていた自分がいた。怖かった。「老い」と「死」の存在を拒んでいた。

拒否していた存在が、目の前にある恐怖。
祖母の亡骸に出会い、たった数時間前には心臓が動き呼吸をしていた確かな事実と、もう二度と元には戻らないという事実を丸ごと押しつけられた。ただただ嗚咽して涙した。祖母の死それ以上に、人生の短さ、老い、時と変化の早さ、大学の授業では習うことがない、現実的で体験的な哲学を刃と化して喉元へ突きつけられる感覚。
「おまえは、死をどう感じ、どう生きるか」というように。


人生を抱えきって死ぬ

自分を忘却してしまって死ぬのだけは嫌だ。そんな風に終わる人生なんぞ、結局虚無そのものではないか。忘却は嫌だ。何もかも覚えたまま、それを抱えきって死にたい。

石原慎太郎『「私」という男の生涯』

石原慎太郎の自伝の一説。
自分すらも忘れるような死に方は嫌だと、自伝の中で繰り返されている。
齢二十ほどの小僧にとって死など遠く感じるが、一文一文の言葉選びと表現方法は何か引き込まれるものがある。

祖母は、誰を想い、何を抱えていったのだろう。
孫の僕との思い出は、少しでも入っているだろうか。

僕は、誰を想い、何を抱えて、死ぬのだろう。

祖母の死を経験して、学んだことは、目の前のことを精一杯生きること。味がしなくなるまで噛みしめて、楽しんで、涙して、死ぬ間際に振り返る思い出をつくること。失敗しても良い、時には大成功があるとテイストが変わってなお良い。
何者でもないことを悔やみ、人生の意味を悩み、仕事に狂い、恋に溺れながら、笑っていたい。

>>>次回へ続く

いいなと思ったら応援しよう!