善と悪の囚われ人
↑前回のつづき。善悪を考えるシリーズの5回目。
つまり他人を傷つけること、傷つけようとすることが悪だと僕は捉えている。過失と故意。法律っぽく言うとこうなるが、先述したように法に裁かれる人物と僕の悪人像は一致していない。それはそれでいい。
法が裁かないのなら、俺がこの手で……ッ!
みたいな正義感もない。悪人のいない世界は理想だが、そのために何かしようとは思わない。誰かが何とかしてくれたらいいなとは思うが、誰も動かなくてもべつに構わない。
人は善悪で動くべきではないと思う。
いや、善悪で動いてはいけないとまで言っていいだろう。should not ではない。must not である。
善とか悪とか言い出すと目的が曖昧になるのだ。
僕の善人ムーブも悪人の基準も元を正すと「他人が悲しむ姿を見たくない」を拠り所としている。その目的のために行動した結果が善人みたいな振る舞いであり、その目的を妨げるものが悪であると認識している。
たしかに悪を滅することで目的に近づくことはできる。しかし、そこに囚われると他の手段に目がいかなくなってしまう。
僕の場合は人との付き合いを避けることで心の平穏を得られた。もう近くに悲しむ人はいないし、故意あるいは過失で悪を為す人もいない。
↓次回につづく