宇宙船地球号の嫌なところ
↑前回のつづき
文脈によって解釈は多少変わるようだが、要は「同じ船に乗っている者同士で仲良くやりましょう」ということらしい。理屈としては何も間違っていない。
ただ、素直に「うん、そうだね!」という気持ちになれないのは正論の圧を感じるからだ。どんなに正しくても強要されるなら抵抗したい。しかし、逃げ場はない。
「嫌なら降りろ」と言われているように感じる。このセリフの後には「出来るもんならな」が続く。ニヤニヤとゲスな笑みを浮かべてそう(妄想)。
SDGsにも同じような嫌悪感がある。持続可能な開発目標とはつまり目先の利益を捨てて長期的な幸福を目指すこと。刹那主義の人や国にとってこれほど美味しい話はない。周りが漁獲制限する中で乱獲できれば濡れ手に粟である。
当然そんな抜け駆けは許されない。全員が同じゴールを目指してこそ意味がある。とくに罰則はなくとも無言の圧がある。SDGsの理念に異論はないが、強制参加を当たり前のように求める態度に心がざわつく。
自由が脅かされている。以前の記事(正しい道からは見えないもの)でも書いたように人は間違えるから正しさに価値が生まれるのだ。
そもそも刹那的に生きることが間違っているとは限らない。
↓つづく