見出し画像

やきもの探訪② in波佐見



夏の休暇を利用して肥前に行って参りました。




今回の旅の目的は嵯峨本『伊勢物語』(慶長十三年版)の挿絵作者であり、キリシタンである狩野一雲の故郷について学ぶため。

そして波佐見、伊万里……とやきものの聖地を訪ねるためである。

 

まずは目指すのは、わたしの中でふんわりしている波佐見焼。

近年、北欧デザインで人気な波佐見焼。しかしやきものの定義は難しい。

その土地の粘土や磁石を使ったものやその土地の窯で焼かれ生産されたものを指すことが多いが、社会の需要に合わせて意匠が変化していくやきものは一見しただけでは「〇〇焼」と断定するのは、少なくともわたしにとっては困難であった。


そんなときはミュージアムへ行くのが早い。全国に何千(万?)とある窯ではあるが、ある程度名前の知られているものは、その土地に行けば窯元の近くにミュージアムがあることが多い。

そこに行けば体系的にそのやきものについて知ることができるだけでなく、近隣で製品の購入や窯を見ることできる。

波佐見焼ほど名の知れたやきものなら、何かしらミュージアムがあるだろうと、安易に検索に引っかかった波佐見焼ミュージアムへ。


波佐見町歴史文化交流館
(波佐見焼ミュージアム)


波佐見焼ミュージアムというよりは、波佐見町の歴史を幅広く扱っており、波佐見町歴史文化交流館の名前の方がその姿にぴったりである。

但し、波佐見焼の展示にも備えた造りをしており、時期によっては展示もあるようだ。


靴を脱ぎ、入口を入ると波佐見焼に使用されるアカマツと三股の白い磁石でつくられた庭に迎えられる。

赤松白石庭(せきしょうはくせきてい)


展示室では波佐見町の古代から現代までの歴史を外観できる。

『肥前国風土記』に語られ、また写経に優れた僧を輩出した古代、キリスト教伝来の中世、大村藩による波佐見焼の成立期に当たる近世、そして近現代の波佐見町文化と、町内の文化財が共に展示されている。

展示室


波佐見焼の歴史は、今から400年ほど前の波佐見村(現波佐見町)で始まった。

当初は陶器生産であったが、文禄・慶長の役の際に大村喜前が連れ帰った朝鮮人陶工、李祐慶・朴正意による技術の導入により、磁器生産へと移り変わる。波佐見焼は大村藩による皿山役所の設置により藩の特産品となった。


波佐見焼出土品


主力製品である「くらわんか碗」などにより生活を彩っただけでなく、コンプラ瓶は醤油や酒などを入れてオランダ東インド会社により東アジアなど海外へ輸出された。

染付松竹梅くらわんか碗(長崎歴史文化博物館)
コンプラ瓶(長崎歴史文化博物館)


天正遣欧少年使節団の一人である原マルチノは波佐見村出身である。町史にはキリスト教関連資料も多く展示してあり、目的を順調に達成(だがしかし、狩野一雲はもう少しあとの時代である)。

松尾芭蕉が訪ねたのかどうか定かではないが、その流れを汲む大村藩士、太田郷衛右門資義(杜月)関連資料などもある。


『増山井』


じっくり展示を観たところで、やきもののミュージアムの定番と言っても良いであろうカフェへ休憩がてら入る。

喫茶「はなれ」

使って良さが分かるのも正に工芸品らしい。梅ソーダとチーズケーキを頂く。暖かみが魅力の陶器に対して、丈夫で端正な磁器。


特別展がないときは無料だとか調べているときにSNSで見かけたが、これだけ展示が充実していて本当に無料で驚く(特別展はあった)。



波佐見焼のスープマグを求めて波佐見町をドライブしていると原マルチノ像に出会う。

原マルチノ像

場所がいまいち分からなかったが、波佐見町にもキリシタン墓碑群があるらしかった。


平日だったのであまりお店が開いておらず、やっと見つけたお店でスープマグを購入。

波佐見焼ショップ「mignon」


今日、通販で探せるものではあるが、現地に赴いて出会う嬉しさはひとしお。



かわいい!


スープマグを購入し、うきうきしながら鬼木の棚田に向かい、ただの現地観光に勤しむ。車で上がれたようだが、めちゃくちゃ歩いた。

鬼木の棚田
ドライブも楽しい波佐見



さて翌日は長崎市恐竜博物館、二十六聖人記念館、長崎県立美術館を周り長崎歴史文化博物館へ。


長崎歴史文化博物館


通常展示では長崎の交易、唐人町、朝鮮通信使、絵画工芸品、キリシタン文化に渡って幅広く充実の展示がしてあった。

工芸展示室
出土品は床に展示


長崎の窯跡地図


最終日は長崎から戻って有田焼に行く前に、国指定史跡「畑ノ原窯跡」へ。

畑ノ原窯跡


畑ノ原窯跡は肥前で磁器生産の始まった1610〜1630年頃に使用されたと考えられ、全長は55メートルにもなる窯跡である。李祐慶によって築かれたという伝承が残っている。


全24窯のうち4つが復元されている
遺品


窯の一部は遺品の展示がされており、呉須による染付や釉薬、成形など当時の技術レベルがわかる。



肥前を巡ると「キリスト教」「海外交易」というワードに出会うことが多い。それだけ海外を意識することが日常にあったと言うことであろう。

次回はおそらく有田焼。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?