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コンパッションと私#1

2023年12月からコンパッション講座を受けています。いまちょうど講座の折り返し。
「もっとコンパッションを自分の身近なものにしたい!(裏をかえせば、まだコンパッションと仲良くなれていないな)」
1歩進んで2歩さがる的なコンパッションと私。復習も兼ねてnoteにしてみます。

コンパッションとは

コンパッションとは「思いやり」や「慈悲」

3つの流れがあり、≪①他者への思いやり②自分への思いやり③他者からの思いやりを受け取る≫、これを循環させていく

コンパッション・マインド・トレーニングより

コンパッションをなんで学ぼうと思ったか

コンパッションを学ぶと決めた理由の1つに、私は自分の悩みや苦しみに鈍いところがあるから。特にここ数年コーチングを学び、コーチにとして『自分のあり方・自分との向き合い方』は大きく影響することを実感している。

私は「誰もが自分の人生の主役であってほしい」という願いがある。それは自分にも同様で、そうなるとまずは「自分で自分を大事にしたい」と思ったから。これから進んでいくために大切になるだろうなと、思っています。

引用した『3つの流れ』に自分自身を当てはめてみたとき、②と③がそんなに得意じゃない感じがある。その背景には何があるか…「大きなことやすごく努力をしたことでないと、思いやりを受け取れない(このくらいは人に誇れるようなことじゃない、みたいな謙遜が前に出てくる)」が、今の私にはある気がする。

自覚はあるんだけど、日々のくらしには、気づかないうちに、自然とこのモードに入ってしまっている。というか、染みついている。これが厄介ですね。

私にしみついているもの

コンパッション講座をうけていて、これ私だーーーと衝撃をうけたことがこれです。

現代社会では、自分自身や自分の悩みや苦しみは、自分の行動の選択の結果が生み出したものとみなし、自分を責める傾向にある

コンパッション・マインド・トレーニングより

私の行動次第・努力次第で結果が生み出される。ある意味、私の原動力になっている考えでもある。この反動を力に立て直し、これまでの人生振り返ると良い時もあったと思う。
ただ、この考えばかりでは、自分の望む結果でなかったときに、できない自分を必要以上に責めてしまうのかもとも思った。

ここで「いまの自分は自分だけのせいじゃない」という考えもひとつ持てるようになったら、どんな私になるだろう。

私の学生時代の記憶

自分を責めるから思い出すエピソードがある。今から20年前、まさにこの時期の「センター試験」。

高3の私は、過去一の不安と緊張でがちがち。1教科終えるごとに、手ごたえが全くなく、加速するように焦り、悪循環。
帰り道「失敗した、私はやっぱりだめだ」と自分を責め、迎えにきてくれた親の車の中でうずくまる。家族や周囲が「まだ終わったわけじゃない」と声をかけてもらっても、受け取れなかった。

予感の通り、結果は、これまでの最低点をたたき、採点した教室にいられなくなって飛び出した。これまで受験勉強にあてた時間もやってきたことも「全然足りなかったんだ、、、」それしか頭に浮かばなかった。すごくつらい記憶として私に残っている。

失敗や挫折経験が人生にもたらすものも大きい。でもそれが必要以上に、責めがちな私は、その限度がコントロールできなかった。

もしコンパッションを持っていたら…「できなかった・できない」ことだけでなく、1つでも「できた・できること」に目を向けられたかもしれない。

コンパッションは身に着けられるもの

いまはトレーニング中なので、1歩進んで2歩下がる的なコンパッションと私。日々のくらしをしていると、②自分への思いやり③他者からの思いやりを受け取るをちょっとおざなりにしがち。

ここまで文章にしてみて、やっぱり私は身に着けたい、コンパッションと近づきたいという気持ちになっている。
「いまの気持ちを素直に言葉にしたね」
「なれないnoteも書き上げたね」
そんなコンパッションを自分に送り、引き続き、自分の中で深めていこうと思う。

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