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鍋島茂治公 〜たっちゅうさん〜 序章

序及梗概  鍋島助右エ門茂治公は、今の佐賀県藤津郡塩田町の久間(古記録には「久摩」ともあり)城主であって、鍋島弥平左エ門信房の二男として戦国時代に生を亨け、龍造寺隆信公とは義理の甥に当たり、父信房公と共に活躍し、島原沖田原の戦で原家一族討死するや、久間城主として藤津軍士の総帥の父信房に従い、久間領を治め、或いは神代の城番となり、遠く挑戦の戦に従軍し、佐賀本軍のために大いなる勲功を表わし、また加藤清正公の苦難を救うなど、幾多の軍忠は抜群にして、人となり武勇・着実・剛毅・正義を

    • 鍋島茂治公 〜たっちゅうさん〜 第二章

      第二章 鍋島弥平左エ門信房公のこと 茂治公のことを述べる前に、信房公のことを述べておこう。信房公・茂治高一連の系図を記そう。 後で作る 信房公は清房公の長男で、直成公は二男である。明らかに本家筋である。直成公、勝茂公もこの本家筋には当座の所、頭が上がらなかった。「葉隠」に、  豊前守殿(信房)御屋形は最初は塩田にて候。  直成公仰付に御家中の者、豊前守殿御家来衆と公事沙汰口論等仕出候はば理非によらず、御家中のもの負けに仰せ付けらるべしと兼ねて仰出で置かれ候由。 と述べて

      • 鍋島茂治公 〜たっちゅうさん〜 第一章

        第一章 タッチュウさんの墓  塩田町久間に小高い丘がある。附近はこんもりと木が繁っている。その丘の上に俗にいう「タッチュウさんの墓」というのがある。一つの供養塔が由緒ありげに立てられている。正保二年三十三回忌と刻んである。すでに三一八年(昭和三十八年より)を経ているから、相当に旧いものであることが分かる。ただタッチュウさんの墓と呼ばれているだけで、どういういわれのものか、識者にも里人にも正確には、知られていなかった。  さて、「タッチュウ」という文字は漢字では、(イ)館中、

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