「ホロコーストの犠牲者がなぜ?」

 岡真理さんがパレスチナ問題で講演をするたび、必ずと言ってよいほど、「ホロコーストを経験したユダヤ人がなぜ、同じようなことを?」という質問を受けるそうだ。それに対する岡さんの答えは、思い切って簡略化して言えば、人間という集団は、「非人間化」の暴力の犠牲者であろうとなかろうと、「他者を非人間化する」よう教え込むことは可能である、ということだ(『ガザに地下鉄が走る日』)。
 
 同じ問いに、「世襲的犠牲者意識」と「過剰歴史化」という概念で迫ろうとしたのが、韓国の歴史社会学者・林志弦(イム・ジヒョン)である。彼によれば、実際の犠牲者ではない後の世代が犠牲者意識を継承する「世襲的犠牲者意識」という現象は、建国当初のイスラエルでは支配的な存在ではなかった。むしろ新生国家イスラエルでは、ホロコーストの犠牲者の大半はパレスチナへの移住を拒み、欧州への同化を主張して残ったユダヤ人であるとみなされ、彼らを襲った大災厄は、イスラエルの地に独立国家を建設することを主張してきたシオニズムの正しさを証明するものと受け止められた。新生イスラエルの記憶文化において当初支配的だったのは、男性的かつ能動的な英雄主義であり、虚弱で受動的な(と見なされた)ホロコースト生存者は厄介なお荷物にすぎなかった。
 
 イスラエル人がホロコースト犠牲者への関心を高めたのは1961年のアイヒマン裁判からである。ホロコーストの惨状がメディアで詳細に報道されたことで、イスラエル国民の共感が呼び覚まされ、犠牲者の痛みと死をイスラエル国家の存在理由に結びつける犠牲者意識ナショナリズムがイスラエルの記憶文化にしっかり定着することになる。

 1967年の第3次中東戦争の経験は、ホロコースト犠牲者との国民的一体感をさらに強め、これ以後、イスラエル国家は積極的に犠牲者の地位に同一化し、中東での覇権的行動を正当化する政治的武器として世襲的犠牲者意識が用いられるようになった。 
 ベギンは1982年のレバノン侵攻前の閣議で、「利己的に戦うこと以外に方法はない。そうしなければ、代案は死の収容所トレブリンカだけだ。もうトレブリンカは嫌だと、私たちは決めたではないか」と語り、レバノン侵攻への国際的批判が高まると、ホロコーストを見過ごした国際社会にイスラエルの行動を問題視する権利などないと反発し、「道徳について我々に説教できる民族は地球上どこにもいない」と気勢を上げたという。
 
 ホロコーストの犠牲を前面に出し、世界で最も道徳的な国家だと自負するイスラエルの公式記憶は、犠牲者意識ナショナリズムの一つの典型であるが、そこにはパレスチナ国家の抹殺を正当化する政治的計算が入っていることが多いという。
 
 パレスチナ人の若者によるインティファーダを受けて、イスラエル軍は、ワルシャワ・ゲットー蜂起の記念館に兵士が行くことを禁じた。蜂起を残忍に鎮圧したナチの歴史から、インティファーダを鎮圧する自分たちを連想するのではないかと恐れたからなのだが、ナチの姿はすでにイスラエル軍の自画像となっていたという。アラブ人に対する人種主義的な嫌悪が公然と噴き出し、アラブ人虐殺の陰謀を計画したイスラエル軍の兵士たちは自分たちを「メンゲレ部隊」(ヨーゼフ・メンゲレは収容所で人体実験を行い、「死の天使」と呼ばれたナチの医者)、「アウシュヴィッツ小隊」などの隠語で呼んでいたというのである。ホロコーストの記憶は、イスラエルの記憶政治の中で、犠牲者の武器から加害者の武器に姿を変えていたのだ!
 
 林志弦は、「ぞっとするようなホロコーストからくむべき教訓は、私たちも犠牲になりかねないということではなく、私たちも加害者になりうるという自覚だ。(……)自己省察を放棄した道徳的正当性ほど危険なものはない」と述べている(以上、林志弦『犠牲者意識ナショナリズム』より抜粋・要約しました)。
 

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