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祈りとしての文学

 この10月7日でイスラエルによるガザ・ジェノサイドから1年が経った。死者の数は4万人をはるかに超え、そのうち約2万人が子どもである。9割の人が家を失って避難民となり、水も電気もガスも食料も医薬品も足りず、飢餓と感染症が蔓延し、毎日無辜の民が虐殺され続けているのに、何もできない無力感の中、岡真理さんの『アラブ、祈りとしての文学』を読む。2008年に書かれた本だ。
 
 この本を通底するテーマは、「パレスチナでパレスチナ人が毎日虫けらのように殺されているとき、文学に何ができるのか」ということである。かつて、アフリカで子どもが飢えて死んでいるのを前に文学は何ができるのかと問うたサルトルの問いを想起しつつ、岡さんは、「しかし不条理な現実のなかで人間が正気を保つために文学を読むのだとすれば、サルトルの提起とは反対に、アフリカで飢えて死んでいく者たち、彼岸の飢えている20億の人間たちこそが、ほかの誰にも増して切実に文学を必要としていると言えるのではないか」と反問する。今にも飢えて死にそうな子どもは、実際問題として本など読めないだろうし、仮に読めたところで、餓死を免れることができないだろう。だから、小説はその子にとって無意味である、と言えるのだろうか。
 
 アウシュヴィッツから奇跡的に生還を果たしたプリーモ・レーヴィが絶滅収容所で最も恐ろしかったことは、死ぬことではなく、人間が生きながらにして人間ならざるものになってしまうことだと語っていたことを、岡さんは想起する。そのような極限状況の中で、人間が人間らしく生きるための支えとなったのが、ダンテの『神曲』だったという。人間らしく生きることを奪われている者たちの魂が何にもまして希求しているものが文学だということを否定することは、彼らの人間性それ自体を否定することにほかならないのではないか、と岡さんは言う。
 
 あるいは、カズオ・イシグロの小説『わたしを離さないで』――。臓器移植のためにクローン人間として生み出され、あらかじめ人間らしく生きることを禁じられた子どもたちだが、「彼らなりのやりかたで必死に運命に抗い、傍目から見れば愚かしい、現実を変える力などなにもない、ささやかな何かに希望を託し、全身全霊で、人間らしく生きるための痛切な闘い――ジハード――を闘っている」、この小説は、「今日の世界におけるパレスチナ的現実への応答であり、これら祈ることしかできない小さき人々に捧げられた祈りでもある。祈りとしての文学」である、と岡さんはいう。
 
 タイトルにも掲げられた「祈りとしての文学」が、本書のキーワードである。冒頭の章で上記のように述べた岡さんは、終章でふたたび、次のように述べている。

アフリカで飢えている子どもたちを前にして文学に何ができるのか、というサルトルの問いに、私たちはこう答えることができるのかもしれない――小説は、祈ることができる、と。だが、祈りとして書かれた小説が、今まさに餓死せんとしている子どもを死から救うのかと問われれば、祈りが無力であるのと同じように、小説もまた無力であるにちがいない。
 孤独のなかに打ち棄てられている者にとって、自分のために祈る者がいると知ることは、ひとつの救いだろう。たとえその祈りが、今ある境遇から自分を物理的(フィジカル)に救い出してくれなくとも、自分が耐え忍んでいる痛みを知り、そのために祈ってくれる人がいると知ることは、魂の救いとなる。だが、祈りの多くは、祈りを捧げられる者たちがそれと知ることなく、ひそやかに捧げられるものだ。この点において、小説は祈りに似ている。祈りを込めて小説が書かれたとしても、その事実が、祈りが捧げられた者たちにとって、その生を支える希望の灯、魂の救いとなることはほとんど、ない。
 (中略)
 では、祈ることが無力であるなら、祈ることは無意味なのか。私たちは祈ることを辞めてよいのか。しかし、いま、まさに死んでゆく者に対して、その手を握ることさえ叶わないとき、あるいは、すでに死者となった者たち、そのとりかえしのつかなさに対して、私たちになお、できることがあるとすれば、それは、祈ることではないのだろうか。だとすれば、小説とはまさに祈りなのだ、死者のための。人が死んでなお、その死者のために祈ることに「救い」の意味があるのだとしたら、小説が書かれ、読まれることの意味もまた、そのようなものではないのか。

『アラブ、祈りとしての文学』299-301頁

 トルストイの『イワン・イリッチの死』や渡部良三の『歌集 小さな抵抗』でも感じたことだが、 ここには、「それは一体何の役に立つのか」といった目的論や手段的価値論を超えた志向性、そうせずにはいられないという、人間のやむにやまれぬ根源的態度、ヴィクトール・フランクルの言う「態度価値」があるのではないかと思った。

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