『「天皇機関説」事件』を読む
戦前の日本があの無謀な太平洋戦争へと突入していくまでには、おそらく無数の転機があったに違いなく、そこから一つだけターニングポイントを選び出すことは不可能だろう。しかし、極めて重要なターニングポイントをいくつか選べと言われたら、その中に、1935年に起きた天皇機関説事件を挙げる歴史研究者は多いだろう。天皇機関説事件は歴史や憲法を勉強した人なら名前くらいは知っていても、それが後世に与えた影響まで的確に指摘できる人は、専門家を除けばあまりいないだろう。そんな一般人に対して、天皇機関説事件と、それを引き金とする国体明徴運動が日本の政治・社会・文化に及ぼした巨大な影響を、わかりやすく丁寧に説明してくれる良書が、山崎雅弘『「天皇機関説」事件』(集英社新書、2017年)である。
「天皇機関説」とは、19世紀ドイツの法学説である「国家法人説」を明治憲法に適用し、「国家を法人と見なし、天皇をその法人の最高機関と位置付けるとともに、天皇の権力は憲法の制約を受ける」と説いた学説であり、1912年に、天皇主権説を唱える上杉愼吉と天皇機関説を唱える美濃部達吉との間で「天皇機関説」論争が起こり、美濃部の勝利により、その後の日本の公法学界の定説となった学説である。君主の権力を神に由来する神聖なものであるとして正統化する理論は、ヨーロッパでは絶対王政期に王権神授説として提唱されたが、市民革命を経て近代立憲主義を確立した19世紀末のヨーロッパでは時代遅れとなっていたが、市民革命の遅れたドイツでは、国民主権説に対抗する国家主権説の一種としての国家法人説が支配的となっていた。日本では、天皇を神の子孫とする前近代的な皇国史観を形だけでも近代立憲主義と接合するため導入されたのが天皇機関説だったと言えるだろう。
ともあれ、日本の公法学会で四半世紀にわたって通説、正統学説の地位を占めてきた天皇機関説が、1935年に入り、突如として激しい攻撃・糾弾にさらされることになる。同年2月18日から3月にかけて、貴族院で菊池武夫、三室戸敬光、井上清純、井田磐楠ら、衆議院で江藤源九郎、山本悌二郎らの議員が、美濃部の天皇機関説が「我が国体に反し」「天皇大権を侵す謀叛」であり「反逆思想」であるなどと繰り返し激しく糾弾し、岡田啓介首相を突き上げた。これら議員に理論的攻撃材料を提供していたのが、民間右翼の蓑田胸喜である。蓑田は1925年に右翼団体「原理日本」を創設し、帝大教授をたびたび激しく批判していたが、1932-33年には京都帝大の刑法学者・滝川幸辰教授を著書の発禁処分と休職処分に追い込む「滝川事件」を主導した。また32年には陸軍軍人の菊池武夫とともに国粋主義団体を糾合して「国体擁護連合会」を結成している。その蓑田は「美濃部達吉博士、末弘厳太郎博士の国憲紊乱思想について」と題する冊子を執筆し、国体擁護連合会を通じて大量に印刷・配布した。また上記議員の帝国議会での美濃部糾弾と並行して、国体擁護連合会は2月の中旬、美濃部の自宅を訪れ一切の公職を辞すよう要求するとともに、文部大臣と内務大臣に対して、美濃部の著書の発禁処分と罷免を要求する文書を渡している。また、帝国議会で右翼議員による天皇機関説への糾弾が続いていた3月、右翼団体が天皇機関説の排撃を主目的とする「機関説撲滅同盟」を結成し、帝国在郷軍人会は「天皇機関説排撃」声明を決議し、機関説撲滅同盟は「機関説撲滅有志大会」を開催し、「政府は美濃部一派を一切の公職から追放し、自決を促すべし」との決議まで採択している。このような議会内外における天皇機関説排撃運動が続く中、貴族院は3月20日、天皇機関説排撃を目的とする「国民精神作興」決議を採択し、衆議院は3日後の23日、「国体に関する決議案」を採択した。こうした情勢に、“憲政の神様”と呼ばれた尾崎行雄衆院議員は、「憲法実施以来、今日ほど言論の自由が圧迫された時代はない」と嘆いた。このような中、当初は「学説の問題は学者の議論に任せた方がよい」と答弁していた岡田首相も次第に追いつめられ、4月9日には美濃部の著作『憲法撮要』など3作を発禁処分にすることを閣議決定した。
しかし、機関説撲滅を呼号し続けた民間右翼、在郷軍人、議員らはこれで収まることはなかった。国体擁護連合会が4月15日に発行したパンフレットで、「機関説問題の重要性は、一学者の愚論にあるのではなく、同様の西洋思想に侵された時代思潮をいかにして一新し、我が国体の尊厳を回復…すべきかにある」と述べているように、彼らの標的は美濃部個人から西洋思想の排撃へと拡大し、そのために「国体明徴」という概念が前面に出てくるのである。そうした変化を反映して、6月1日には国体擁護連合会を中心に「国体明徴達成連盟」を結成し、同連盟は7月9日、「国体明徴達成有志大会」を上野で開催した。こうした動きに押された岡田首相は8月3日、ついに「国体に関する政府の声明書」(第1次国体明徴声明)を発表することを余儀なくされる。その中で、「国の統治権が天皇に存せずして、天皇はこれを行使するための機関であるとするような考え方は、全く万邦無比なる我が国体の本義を誤解したものである。…政府はいよいよ国体の明徴に力を注ぎ、その精華を発揮するよう努める」との文言が盛り込まれた。「万邦無比なる我が国体」という言葉に注目したい。わが国は世界に類を見ない、突出して優れた国だという、唯我独尊、夜郎自大の思想こそ「国体思想」の中核をなすものである。
しかし機関説撲滅運動転じて国体明徴運動は、これに満足するどころか、西洋思想の根絶と岡田内閣倒閣運動へとさらに戦線を拡大していった。帝国在郷軍人会は8月27日、九段下で全国大会を開催し、鈴木荘六陸軍大将は「我が国体を破壊する、天皇機関説ならびに欧米流の個人主義、自由主義を一掃し、…一層国体明徴を徹底する必要がある」と訓示した。9月、美濃部達吉は「起訴猶予」処分と引き換えに貴族院議員を辞職した。しかし、川島義之陸相は、「これで一段落ではない。機関説信奉者にして公職にある者は一掃せねばならない」と述べ、大角海相も「問題はいまだ収束していない」として、「さらなる善処」を岡田内閣に要求した。こうしてさらに追い込まれた岡田首相は10月15日、第2次国体明徴声明を発表し、「政府は…国体観念をさらに明徴にし、その実績を収めるために全幅の力を発揮することを決心する」と表明した。
翌36年2月、美濃部達吉は自宅で右翼の活動家に襲われ重傷を負い、その5日後、国体明徴運動を牽引した陸軍皇道派の将校らを中心とするクーデター(2・26事件)が起き、岡田首相は難を逃れたものの、斉藤実内相・高橋是清蔵相・渡辺錠太郎陸軍教育総監らが殺害され、鈴木貫太郎侍従長は重傷を負った。
翌37年、文部省は国民教育用の教材として『国体の本義』を173万部印刷し、全国の学校に配布した(3月)。その中で、西欧文化を批判し、我が「政体の根本原則は、三権分立主義でもなく、法治主義でもなく、一に天皇の御親政である」と、立憲主義の放棄を宣言した。その年の7月、その後8年続く日中戦争が勃発する。
翌38年、陸軍教育総監部は『万邦に冠絶せる我が国体』という軍隊用教本を発行し、「我が国における忠節は、万邦無比の国体により、自然に湧き出す情操であり、きわめて合理的な国民信念である」という「きわめて不合理な信念」を表明した。
太平洋戦争が勃発する5カ月前の41年7月、文部省は『国体の本義』の続編(改訂版?)として『臣民の道』を出版し、欧米文化の流入を批判するとともに、「皇国臣民は、国体の本義に徹することが第一の要件」であり、「かくて我らは、私生活の間にも天皇に帰一し、国家に奉仕するという気持ちを忘れてはならない」と説いた。
こうして、天皇機関説が排撃された後、個人主義、自由主義、言論の自由など西洋由来の普遍的な価値基準は徹底的に排斥され、「日本における立憲主義は実質的にその機能を停止し、歯止めを失った権力の暴走が、日本を新たな戦争へと引きずり込むこととなりました」と山崎は述べている。普遍的な価値基準が排斥された後には、天皇中心の国体、それも「万邦無比の国体」という日本人以外誰も信じない夜郎自大の信仰が社会を実質的に支配することになり、このように「主観だけが極端に肥大化した思想環境」の中で、日本が太平洋戦争に突入していったことが、日本軍が繰り返した数々の「非合理的行動」の背景にある、と山崎は指摘している。最後に山崎は、次のような重大な指摘も行っている。
日本を破滅させることになる重大な転機の最中にいた日本人は、そのことに気付いていなかった。果たして今、現在はどうだろうか。言論弾圧は国家によるものだけではない。その先兵は、かつては民間右翼団体だった。今日、右翼のみならず、左翼・リベラルの一部までもが言論抑圧に加担している日本。「現下の国際情勢を論じる際、あたかも戦争の危機が目前に迫っているかのごとくに論じ」、「国際主義を放擲することは、世界を敵とすることに他なら(ず)、…それは結局、国家の自滅を目指すものである」と、美濃部が1934年に警鐘を鳴らしたような状況は、果たして今、起きていないだろうか。