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杉谷直哉氏の新論文が面白すぎる!
以前こちらで紹介した歴史学者の杉谷直哉氏が東大先端研に新論文「“平和主義者”ダグラス・マッカーサーの実像――憲法第九条の父をめぐる言説史」を発表された。前回の論文「“平和主義者”幣原喜重郎の誕生――憲法第九条「幣原発案説」の言説史」の姉妹編とも呼ぶべき内容で、憲法第9条の発案者をめぐる論争において主役の座を競わせられているマッカーサーと幣原喜重郎のいずれをも引用符付きで「“平和主義者”」と呼ぶことで、両者もしくはどちらか一方を「平和主義者」であるかのごとく思っていた読者の“常識”に揺さぶりをかけている。特に本稿においては、前稿の論述を踏まえ、「幣原の平和主義思想なるものが存在せず、幣原発案説の破綻は明らかである」、「「平和主義者」としての幣原は実質的に存在せず、後世の研究者やメディアが作り上げた偶像に過ぎない」と明快に切り捨てており、爽快である。また、本稿においては、副題においてマッカーサーを「憲法第九条の父」と呼んでいるが、こちらには引用符が付されていないことからわかるように、杉谷氏は文字通りマッカーサーを「憲法第九条の父」と捉えているのであり、この点についても、私はほとんど異論はない。
マッカーサーが戦争放棄・戦力放棄の発案者であったことはほぼ間違いないとして、問題は、「マッカーサーがなぜ戦争放棄条項を発案するに至ったのか。にもかかわらず、マッカーサー自身がなぜ、幣原によるものだという事実と異なる「証言」をしたのか」ということである。杉谷氏の新論文は、最新のマッカーサー伝などを参照しつつ、この謎に迫ろうとしたものである。
杉谷氏はまず、「護憲派の立場」(釈迦に説法ではあるが、厳密には「幣原発案説に限りなく近い合作説の立場」というべきか)からは、マッカーサーの評価については2つの立場があるという。ひとつはマッカーサーが“平和主義者”から戦争肯定派へ「変節」したとする、田畑忍、深瀬忠一らの立場であり、もうひとつは、マッカーサーは“平和主義者”として一貫していたとする、河上暁弘氏の見解である(故人には敬称を略し、存命者には敬称を付けることにする)。
田畑の発言でまず驚くのは、幣原発案説の根拠として、「幣原も、マッカーサーも正直な人です。正直な二人がいっているのですから私は信用してよいと思う」と述べていることである。「正直者は嘘をつかない」というおとぎ話の世界を信じているのであろうか。幣原という人は、私も基本的には正直な人であったと思う。しかし、正直者でも時と場合によっては嘘をつかざるを得ないことがあることは、大人であれば誰でも知っていることであろう。幣原の場合、ときの最高権力者であったマッカーサーが1950年以降唱えだした幣原発案説に異を唱えることができず、不本意ながらも同調せざるを得なかったのである(その根拠はここでは省略する)。マッカーサーが「正直な人」だというのは、様々な証拠と矛盾する。一時期マッカーサーの副官だったアイゼンハワーはマッカーサーの食言癖に反発し、2度と和解することができなかったのである(児玉襄『史録日本国憲法』)。いずれにせよ、田畑によれば、朝鮮戦争勃発によって再軍備へと「変節」したマッカーサーに対し、幣原の平和主義は「ついに変ることがなかった」と捉えられている。しかし、最近の研究によれば、幣原は、朝鮮戦争勃発の直前に来日したフォスター・ダレスに対し、米軍の駐留継続を要望しており(服部龍二『増補版 幣原喜重郎』)、1951年1月頃に書かれた国会開会式挨拶の草稿では(後に削除されたが)「自衛権の発動により、必要な手段を執るの已むを得ざるに至るやもしれません」と書いており(種稲秀司「幣原喜重郎と日本国憲法第九条」)、幣原の「平和主義」が決して一貫などしていなかったことが明らかになっている。
また、深瀬によると、「日本国民の戦争経験の過誤と惨禍を政府の行為によって再び起すことのないよう、180度転換して平和主義三原則(杉谷註:戦争放棄、軍隊不保持、平和的生存権)を憲法化する「発想」は首相幣原喜重郎のものであ」るとされているようである。しかし、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにする」とか、平和的生存権を規定した憲法前文は、GHQ民政局のアルフレッド・ハッシーが起草したことが明らかになっており、幣原にそうした思想がなかったことは、幣原の言行からも明白になっている。
一方、河上氏は「警察予備隊の創設は日本再軍備の第一歩ではなく、再軍備を禁止した憲法9条を前提としたものであったとされる」と述べているが、これには警察予備隊創設を指揮したフランク・コワルスキーも墓場の陰でひっくり返っているであろう。警察予備隊が憲法9条に反していることはコワルスキーにはあまりにも明白であり、むしろ、そのことに多くの日本国民が気づいていないことに驚愕していたのである(コワルスキー『日本再軍備』)。また、マッカーサーが1946年4月の対日理事会で行った演説を、「幣原発案説を証明する内容」であると解釈していることにも驚かされるが、この演説については後述する。
杉谷氏は、こうした従来のマッカーサー評価においては、マッカーサーの伝記研究が十分参照されていなかったことを批判し、今年、マッカーサーの伝記が翻訳が刊行されたリチャード・B・フランクによる、マッカーサーの見解は、当初の「自衛のための武力も放棄するという、極度の理想主義的なもの」から、「ある程度の再軍備を許容する考え」を経て、「日本は再軍備すべきであるという考え」へと変遷したという意見を紹介し、マッカーサーは「一貫した平和主義者」でもなければ「変節」したわけでもないと主張している。そして、「今後は海外でのマッカーサー研究も参照しながら、マッカーサーという人物を通して憲法問題ひいては日米関係の歴史像を描く作業が求められていると言えるだろう」と結論付けている。非常に示唆に富む意見であり、私も是非フランクの伝記を読んでみたいと思った。
ところで、マッカーサーがいかなる背景と理由をもって戦争放棄条項を創出したのかという点については、フランクも「推測が難しい」と述べているらしい。しかし、僭越ながらその「難しい推測」をあえて行ってみたい。私が思うに、そのヒントはマッカーサーが1946年4月5日の対日理事会で行った発言の中にある。その中でマッカーサーは次のように述べている。
これはある意味において、日本の戦力崩壊からきた論理的帰結に外ならないが、さらに一歩進んで、国際分野において、戦争に訴える国家の主権を放棄せんとするのである。日本はこれによって、正義と寛容と、社会的ならびに政治的道徳の厳律によって支配される国際集団への信任を表明し、かつ自国の安全をこれに委託したのである。
つまり、戦争放棄条項の第1の意味は「日本の戦力崩壊からきた論理的帰結に外ならない」ということであり、第2の意味は、戦争放棄によって国際社会に対する信認を得ようとするところにある。この順序はマッカーサー自身の思考の順序を表していると考えられる。すなわち、日本軍の完全な武装解除自体はポツダム宣言第9項に定められていたことであって、当初からの既定方針であった。しかし、それを憲法に書き込むことによって国際社会の信任を得る、すなわち極東委員会を黙らせ、マッカーサーの対日占領政策への介入を避ける、という方針は、マッカーサーが同年1月24日の幣原との「ペニシリン会談」の場で思いついたことなのではないか。もちろん、幣原自身には戦争放棄を憲法に書き込むなどという発想は微塵もなかったが、理想論として述べた「戦争放棄」が、マッカーサーにインスピレーションを与え、これを憲法条項化することによって極東委員会の介入を防ぐという構想を思いついたのであろう。1月24日の幣原=マッカーサー会談について、幣原の親友である大平駒槌が幣原から聞いた話を娘の羽室ミチ子に語った内容を羽室がメモした、いわゆる「羽室メモ」には、以下のように述べられている。
戦争を世界中がしなくなる様になるには戦争を放棄するという事以外にないと考えると話し出したところがマッカーサーは急に立ちあがって両手で手を握り涙を目にいっぱいためてその通りだと言い出したので幣原は一寸びっくりしたと言う。
1928年の不戦条約(正式名称は「戦争放棄に関する条約」)についても熟知していた幣原が、あくまで理想論として語った戦争放棄に対して、マッカーサーは異常とも思える反応を示している。これは、憲法改正問題の権限を持つ極東委員会が2月26日に発足するのを前に、どうやって極東委員会の介入を避けて日本占領政策に対するフリーハンドを維持するかに腐心していたマッカーサーの頭に、戦争放棄を憲法条項化するというアイデアが閃いたことを示唆しているのではないだろうか。あくまで推測にすぎないが、私はそのように考えている。