速考時代の遅考の勧め
年間読書人さんから拙記事に頂いたコメントに返事を書いていたら、数年前に読んだダニエル・カーネマンの『ファスト&スロー(上・下)』を思い出した。著者のダニエル・カーネマンはノーベル経済学賞を受賞したことから、ときどき経済学者と勘違いされることがあるそうだが、あくまで認知心理学者であり、その知見を人間の経済行動に応用した研究(プロスペクト理論)がノーベル経済学賞の評価対象となったらしい。
本書は人間の思考の癖がどのような誤った推論に陥るかを様々な角度から実証研究したもので、非常に面白い内容なのだが、残念なのは邦訳のタイトル「ファスト&スロー」を見て、その内容を推測できる人がほとんどいないだろうと思われることだ。サブタイトル(「あなたの意思はどのように決まるか」)を読まなければ、「ファストフードとスローフードの話かな」などと勘違いする人もいるかもしれない(いないか?)。原著のタイトルは「Thinking: Fast and Slow」なので、直訳すれば、「速い思考と遅い思考」であり、これなら何となく内容を想像することもできるだろう。あるいはもっと簡略にして「速考と遅考」でもいいかもしれない。そういう日本語はないかもしれないが、漢字を見れば誰でも直ちに意味を推測することは可能である。最近は外国語を日本語に訳さず、そのままカタカナ書きにすることが何か格好いいことであるかのような悪しき慣行が広がっているが、本書の場合は肝心の「Thinking」の訳語がどこにもないため、まるで意味が伝わらない。本文の訳文自体は悪くないのに、残念なタイトルである。
それはさておき、速考とは、直感的・瞬間的に結論に至るような思考のシステムで、私たちが日常生活を円滑に送ることができるのは、大抵このシステムのおかげである。一方、遅考とは、結論に至るまでに相当の注意力と時間と努力を必要とするような思考のシステムのことである。誰でもこの2つの思考システムを場合によって使い分けているのだが、本書のテーマは速考がときに、どのような誤った結論に導いてしまうかということを様々な実験によって検証することにある。もっとも私は本書を数年前にKindleでメモも取らずに読んだだけなので、その内容の多くを忘れてしまっているため、ここではその内容を紹介することが目的ではない。
著者も強調している通り、速考と遅考はどちらも人間にとって必要な思考システムであり、本質的にどちらがいいとかいう問題ではない。ただ、私が最近思うのは、SNS全盛のネット時代になって、ますます速考がもてはやされ、遅考がないがしろにされているのではないかということである。本来、学者とか研究者とか呼ばれる人々は、遅考においてこそ本領を発揮すべき人たちではないかと思うのだが、SNS等で発言している「有識者」の中には、一般人同様、深く考えることもなく、速考によって瞬間的に反応し、その場で思いついたことや、自分の政治的立場にふさわしいと思う発言をしてしまっている人が少なくないのではないかと思う。SNSをやっていない私が言うのはおこがましいかもしれないが、そうとでも考えないと説明できない事象があまりにも多すぎるのである。自分は左派だから、右派だから、リベラル派だから、保守派だから、という自己規定がまずあって、それにふさわしい(と思われる)結論に飛びついているのではないか。そう思われる事例があまりにも多いのである。以前書いた「「星野智幸氏の「正義」依存とは」もそれと関わっているだろう。
特にテレビに呼ばれるタレント学者などは、あらかじめメディアの期待する発言しかできないようだし(そうでない発言をすると二度とお呼びがかからないらしい)、質問に対して「う~ん」と考え込んでしまうようではタレント学者失格なので、とにかく瞬時に答えなければならないというプレッシャーも強いだろうから、出来合いの答えしか出てこないのも当然である。「頭の回転の速い人」「立て板に水の如く話せる人」「瞬時に応答できる人」が頭のいい人である、といった我々大衆の偏見もこうした傾向を助長する要因である。そして、こうした偏見は、学校教育を通じて一貫して養成されていることは間違いない。
最近、タイムパフォーマンス(という和製英語)を略した「タイパ」という言葉が若者を中心に流行っているらしいし、様々な動画や録画等を倍速で視聴するのはもはや普通になっているという。質を問わずに、年間何百冊なり何百本なり本や映画を見ていることを自慢している大学教授もいるらしい。昔はこういうのを「バカ丸出し」と言ったのではなかったか。
こうした速考礼賛の逆を行くのが「ネガティブ・ケイパビリティ―」という考え方である。作家で精神科医の帚木蓬生氏が数年前に同名の著書(副題は「答えの出ない事態に耐える力」)を出版して日本でも知られるようになったが、要は安易に結論に飛びつくことなく、わからないことはわからないまま、その宙ぶらりんの状態に耐える能力のことである。「わからない」という状態は不安を搔き立てるので、とにかく何らかの答えを得ることで安心感を得たいという心理が働きがちだが、いったん「自分は答えを知っている」と思ってしまうと、そこから先へはなかなか進歩できないものである。わからないものは「わからない」と認めたまま、答えを探し続けるか、そうでなくても、宙ぶらりんの状態に耐えることで、いつかは自分なりの答えにたどり着けるかもしれない。そのときは、自分の見つけた答えに自信を持つことができるだろうし、たとえ納得のいく答えが見つからなかったとしても、出来合いの間違った答えに安住しているよりははるかにマシだと思えればそれでいいのである。