星野智幸氏の「正義」依存とは

 1カ月ほど前のことだが、作家の星野智幸氏が朝日新聞に「言葉を消費されて「正義」に依存し個を捨てるリベラル」という文章を寄稿していた。私は共感と同時に疑問も抱いた。もう少し掘り下げることができれば、星野氏の気づいた現代社会の問題点をより的確に理解できるのではないかと思った。少し時間が経ってしまったが、そのことについて書いてみたい。
 
 星野氏の論考の要旨はこうだ―。
 11年前、星野氏は朝日新聞に寄稿した「『宗教国家』日本」のなかで、長期の景気低迷と原発震災によって自信を失った日本人の多くが「日本人」という集合的アイデンティティ=ナショナリズムにすがるようになり、日本社会がカルト化していく傾向を強めていると指摘した。しかし、数年前から星野氏は政治や社会について語ることにためらいを感じるようになった。きっかけは、「ずっと社会派を期待され続けて、嫌になったりしないんですか」という友人の言葉だった。そのときは、「自分の考えを述べているだけだから、それはないかな」と答えた星野氏だったが、やがてその言葉が頭を離れなくなり、「自分の考えを発言している」つもりだったのが、実は世のリベラルな言説に合うように味付けして提示していただけだと気づくに至った。その原因は、リベラル層の多くと同じく、リベラルな思想は疑う余地のない「正義」であるはずだという感覚を星野氏も持っていたことであり、そうした「正義」言説に依存することで、自分たちリベラル派も知らない間にカルト化していた、と気づいたのである。「日本人」依存のカルトであれ、「正義」依存のカルトであれ、それぞれのカルトが互いに攻撃しあっているのがこの世の現状であると気づいたとき、「誰もが自己を放棄し無謬性にすがりついてい」る現状に「呑み込まれたくなければ、文学の言葉を吐くしかない」と思うに至った――。
 
 ここには、「フィルター・バブル」と呼ばれる「自己にとって最適化された情報空間」の中で自足し、同じ考えの人々の意見が反響し増強しあう「エコーチェンバー」現象の中で自己の正しさの絶対性を盲信し、それとは異なる考えの人々を排除・攻撃するネット社会の病理が描かれている。しかし、星野氏は(はっきりとは明言しないものの)右派が「日本人(ナショナリズム)」依存に陥り、左派が「正義」依存に陥っているかのように書いているが、これは正しくない。「ニッポン」カルトは右派の専売特許ではなく、左派も陥りがちであるし(例えば、大谷翔平フィーバーに左派も右派も関係ないだろう)、星野氏の言う「正義」依存、つまり自分と同じ意見を持つ集団こそが正しく、異なる信念を持つ集団を「敵」「バカ」「差別主義者」などと攻撃する心性は、今や左右を問わず見られる現象である。
 
 そのことを留保したうえで、「個人を重視するはずのリベラル層もじつは、「正義」に依存するために個人であることを捨てている」という星野氏の言葉には、かなり共感するところがある。私がそのことを痛感したのはコロナ禍対応に対する(いわゆる)リベラル派の反応であり(その詳細はここでは割愛する)、「日本のリベラルとは一体何だったのか」と強い憤りと疑問を感じたものである。しかし、星野氏には、「個人を重視するはず」という以上に、リベラル派ないしリベラリズムとは本来何であるのか、という明確な認識がなかったように思われる。星野氏が、リベラル派が「正義」と見なすものが正義であり、自分もまたリベラルであると自認している以上、リベラル派が「正義」と見なしている言説を発信する必要があると感じ、求められればそれに沿った発言をしていたにすぎなかった、と気づいたのは誠実な発見だった。しかし、それに対して星野氏がとった対応は、自ら社会的・政治的発言から「降りる」という選択であり、「文学の言葉」に閉じこもる、という方針だった。星野氏は作家であるから、文学の世界に自閉するという選択自体を云々するつもりはない。問題は、それが自らの“「正義」依存”に対する対応として出てきた、ということだ。
 
 それまでの自分の社会的発言が、真に自らの個人的信念に発するものではなく、リベラル層が「正義」と見なす言説に依拠したものであったと気づいたのであれば、星野氏の取るべき対応は、集団言説への依存を見直し、自分自身の信念を再吟味して、改めて社会問題に対する自らの考えを発信することではなかっただろうか。そうならなかったのは、星野氏が依拠していたはずのリベラル派ないしリベラリズムが本来何を意味するものであったのかについての確信がなかったがゆえに、リベラル層の集団的言説への信頼を失ってしまった以上、星野氏にはもはや依拠すべき価値が何であるかわからなくなってしまったからではないだろうか。
 
 一方、リベラリズムに関する私個人の認識は単純で、それは個人の自由と社会的平等を同時追求するものであり、人権の尊重を社会的価値の核心に位置付ける政治的思想・立場というものである。もちろん、このようなリベラリズム理解に普遍的な合意があるわけではないが、少なくとも私はそのようなものとして理解している。このような意味でのリベラリズムを支持する私にとって、現在の日本(だけでは全くないようだが)のいわゆる“リベラル派”の多くがリベラリズムを裏切るものに映っているが、そうではない人がいることも確かである。しかし、左派とか右派とかリベラルとか保守とかいうラベルに捉われることなく、自分の頭で考えて発信している少数派の姿が見えず、「誰もが自己を放棄し無謬性にすがりついてまで、安心できる居場所を欲している」と思い込んでしまった星野氏には、「自己を放棄」しないためには社会的発信から「降りる」という選択肢しか見えなかったのであろう。残念なことである。

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