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ストレス・リレー
毎年、この時期は忙しいが、なかでも最近2週間の忙しさは、過去に経験したことがないほどだった。行きの通勤電車では仕事の段取りのことで頭がいっぱいで本やネットを読むどころではなく、帰りの電車では疲れてしまって、何も読む気力が起きないことが多かった。たまに読書意欲が残っていたときでも、堅いもの、難しいものは精神的に受け付けなかったので、何か気軽に読めるものはないかと探していたら、平野啓一郎の短編集『富士山』が面白そうだったので、Kindle版をスマホにダウンロードして帰りの車中で読んでみた。その中で、「ストレス・リレー」という短編が気に入った。
人は、極度に疲れていたり、イライラしているときには、ストレス耐性が下がってしまうものである。そんなときに強いストレスを受けると、普段ならやり過ごしてしまう人でも、ついついカッとなって別の人に当たり散らしてしまったり、強い口調で必要以上に抗議してしまったりするものである。その相手が、たまたまやはりストレス耐性の低下している状況にあったならば、不当な抗議や叱責を受けたことが強いストレスとなって、また別の第三者にそのはけ口を求めてしまう。こうして、ある一人の会社員がシアトルの空港で偶然受けたストレスが原因となって、帰国後、そのストレスが次から次へと別の人に感染していく様子が描かれている。
この小説の登場人物は、いずれも、どこにでもいそうな普通の人たちばかりで、決して非常識な人たちではない。そういうごく普通の人たちがストレスにさらされたことによって、ついつい人に強く当たってしまう。いずれのケースでも、十分その気持ちはわかるし、自分だって同じような対応をとってしまう可能性はある。ただ、最後に登場する、ルーシーという綽名の中国人留学生だけが、自分の受けたストレスを、誰にも感染させることなく、ストッパーとなるのである。そういう人もまた、世の中にはたくさんいるだろう。
ストレス耐性の強さは人によって異なるが、自分の受けたストレスを他に転嫁する「感染力」の強さもまた、人によって大いに異なるところである。この小説には、コロナ禍の中で使われた「スーパー・スプレッダー」という(嫌な名称の)「感染力」の強い人、つまり、自分の受けた一つのストレスを、何人もの別の人に転嫁する人も登場する。自分を省みるとき、おそらくストレス耐性は強い方だと思っているが、「感染力」には自信がない。昔はかなり「感染力」が高い方だったかもしれない。歳をとって、低下させるように努力はしているが、まだまだダメかもしれない。最近の2週間は、間違いなくストレス耐性の低下している状況ではあったし、そんな中でもストレスのかかる出来事は何度かあったが、それを他人に転嫁することはなかったと自分では思っているが、果たしてどうだったか…。
ところで、この小説で描かれているのは、ストレスがAからB、BからCへと次々に一方方向に伝播していく様子だが、実際にはAからストレスを受けたBが、それを倍加してAに返す、ということも当然多い。そこでAとBとが修羅場になるだけなら、第三者には関係ないから、第三者としては、「いくらでもやってなさい」で終わりである。問題はAとBとの間で修羅場になりかけたときに、一方が上司などの権力者Xに加勢を求めた場合である。この場合、Xが加勢を求めた側の言い分だけを鵜呑みにして(鵜呑みにしない権力者というものは極めて少ない)介入すると、本当に修復不可能な無茶苦茶な状況に陥ってしまうものである。こうした状況を、私は被害当事者としても、第三者としても経験したことがあるので、こうした権力者に頼るという対応だけはやめた方がいいと断言できる。