加害者を免責する「中立」主義
東京新聞の火曜日の夕刊は読みごたえのある長文記事が多く、いつも楽しみにしている。昨日もそう思って読み始めた「テロが閉ざした共存の道」と題するこの記事は、しかし、読み終わって啞然とした。タイトルは2つあり、もう一つは「民族間 増幅する疑心と恐怖 @パレスチナ」である。イスラエルのガザに対する民族浄化開始から半年以上が経ち、衆人環視の下で民間人に対する残虐な虐殺行為が続き、イスラエルの政治宗教であるシオニズムの正体を、さすがに世界中の多くの人々が理解するようになったこの期に及んでなお、イスラエルとパレスチナを「どっちもどっち」と「中立」的に扱うように見せかけつつ、本質的にこの事態の責任を被害者であるパレスチナ人に押しつけようとしているのである。強姦魔とその被害者を「どっちもどっち」と扱いながら、被害者に本質的な責任を押し付けるセカンド・レイプ報道と何ら変わらないのである。
記事では、ヨルダン川西岸ヘブロンで暮らすイッサ・アムロさんが昨年10月7日にイスラエル兵士によって受けた身の毛もよだつ拷問の様子が語られ、さらには入植者による暴力や殺人事件、診療所施設や小学校への襲撃についても語られている。そして、「すれ違う主張」という小見出しの後、今度はユダヤ人入植者協会の幹部の発言として、「ハマスを支持する住民たちはガザから追放し、隣国エジプトが受け入れればいい」「もっと激しくやっていい。水も食料もガザにやる必要はない。連中を飢え死にさせていい」といった言葉を紹介した後、「双方が見つめる歴史と権利はかみ合わず、テロで増幅された疑心と恐怖は、平和的共存への道を閉ざしたように見える」という記者の言葉が続く。最後に「取材メモ」という欄があり、「取材で痛感したのは、ユダヤ人とパレスチナ人双方が被害者意識とその記憶に固執している現実だ。ガザ侵攻についてユダヤ側は当然、昨年10月のハマスによるテロを挙げ、「正当な自衛権」と主張する。しかしパレスチナ側は、1948年のイスラエル建国以来抑圧された人々の苦しみを理解しなければ、ハマスの行動を理解できないと反論。それを指摘すると、ユダヤ側はヘブロンで29年にパレスチナ人が起こした虐殺を思い出せと気色ばむ。恨みと恐怖は輪廻のごとく歴史をさかのぼる」と締めくくられる。
記者が取材をし、赤裸々に拷問の被害体験を語ったアムロさんは、「被害者意識とその記憶」に固執していると言いたいのだろうか。アムロさん自身は、「相手が暴力を捨てれば共存できる。希望は捨てない」と語っているのだが、記者はアムロさんに対して、早く被害者意識を捨てて、共存を目指せ、などと言えるのだろうか。記事の中で具体的に触れられているテロとは、昨年10月7日にハマスらガザの戦士が起こした越境攻撃だけであり、記事の結論が「テロで増幅された疑心と恐怖は、平和的共存への道を閉ざしたように見える」というのであるから、現在の事態の責任はパレスチナ人側にあると言いたいのだろう。記事は「ガザ侵攻についてユダヤ側は当然、昨年10月のハマスによるテロを挙げ、「正当な自衛権」と主張する」と記しているが、それが正当な主張であるのか否かを検証しようともしない。ただ、パレスチナ側の主張と並列すれば、「中立性」「公平性」が担保されるとでも思っているのだろう。しかし、ガザは事実上イスラエルの占領地であり、占領地に対する「自衛権」など国際法上認められていない。しかも自衛権には受けた侵害とこれに対する反撃が釣り合っていなければならないという均衡性の原則があるが、イスラエルが受けたとされる被害(犠牲者数1200人)と、ガザ住民の被害(3万4000人以上の死者と7万7000人以上の負傷者、100万人以上が直面する餓死の危機、半数以上の住宅の損壊と住民の8割以上の難民化等々)とでは比較にならない。しかも、イスラエルは国際人道法(ジュネーブ諸条約)が明文で規定している軍事目標主義(文民を攻撃目標としてはならず、攻撃は軍事目標に限定される)を公然と無視して、住宅、病院、教会、学校等の文民施設への攻撃を繰り返している。イスラエルは「そこにテロリストが隠れている」ことを攻撃の正当化理由として挙げているが、国際法はこのような言い訳を認めていない。イスラエルのやっていることのほとんどは国際法違反である。こうしたことをマスコミは全く検証しようともせず、イスラエルの言い分を垂れ流すだけである。
確かに、2001年の同時多発テロ以来、「対テロ戦争」という言葉が濫用され、「テロリスト」と名指しさえすれば、人々の「恐怖と憎悪」を掻き立て、凶悪で狂信的な犯罪者集団であるだけでなく「交戦団体」にまで早変わりし、正当な自衛権行使の対象、戦争による懲罰の対象にすらなるという自動思考の回路が働き、自律的思考を停止させるマジックワードの役割を果たしている。しかし、10月7日のハマスらパレスチナ人の越境攻撃を「テロ」の一言で片づけること自体、思考停止に陥っていることを示している。それは10月7日を事態の起点に置くことにより、それまでの75年に及ぶイスラエルによる民族浄化政策を忘却させるものである。10月7日の越境攻撃の一部に犯罪行為やテロ行為が含まれていたとしても、その本質はパレスチナ人の自決権に基づく民族解放闘争と見なければならない。そのように捉えることで物の見え方は180度違ってくるだろう。ちなみに、『パレスチナの民族浄化』を著し、イスラエルの民族浄化を強く批判しているイラン・パペはイスラエルのユダヤ人であり、シオニズムを強く批判しているジュディス・バトラーはユダヤ系アメリカ人、同じくシオニズムを批判しているカナダのジャーナリスト、ナオミ・クラインもユダヤ系である。イスラエルのシオニズムに基づく民族浄化を批判しているユダヤ人は世界中にたくさんいる。この点でも、パレスチナ人とユダヤ人の民族的対立であるかのように描く東京新聞記者の視点は根本的に誤っていると言わなければならない。言うまでもないが、ユダヤ人が悪いわけでもユダヤ教が悪いわけでもない。イスラエル国家の政治宗教であるシオニズムこそ諸悪の根源なのである。
「中立性」の陰に隠れて自らの主体的思考も判断も放棄したうえ、高みに立ったつもりになって「どっちもどっち」と言いつつ、実は被害者に責任を押し付けるのは、もはやジャーナリズムの責任放棄である。