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「歴史家論争」再考(2)

 この論争は「歴史家論争」と呼ばれており、確かにハーバーマスによって「歴史修正主義」と批判された4人は――それぞれ傾向の違う――歴史家であったが、ハーバーマスをはじめ、論争に参加した者の多くは、歴史の専門家ではなかった。また、この論争を日本に紹介した『過ぎ去ろうとしない過去』の訳者たちは全員が歴史家ではなく、ドイツ哲学やドイツ思想の専門家であった。訳者の代表であり解説を書いた三島憲一によれば、論文の「選別にあたってはフェアネスを原則とし」たそうだが、解説においては、明らかにハーバーマス陣営に軍配を上げ、ハーバーマスに批判された歴史家たちについては、「知的訓練を受けた人間が、知的な立論の一環として書く文章とは思えない」と一蹴し、「それに対してハーバーマスやその同僚たちは、現代社会科学の分析的言語の訓練を受け、また解釈学的反省の荒波を乗り越えてきている」ので、「修正主義者たちとの知的力量の差は明らかである。議論の水準がまるで異なっている」とまで述べている。訳者・解説者がここまで断定的な評価を下していると、この訳書を読む者が、解説者の評価を度外視して、虚心坦懐にこの論争を読むことは難しいだろう。ハーバーマスに批判された側を評価したりすると、知的能力に欠けた歴史修正主義者の烙印を押されるのではないかという恐れから自由になるのは難しい。
 
 しかしながら、ハーバーマスによって批判された歴史家アンドレアス・ヒルグルーバーは、決して無視しえない重要な指摘をしている。ハーバーマスが、自分の主張を効果的に演出し、批判対象の発言の意味を重要なところで捻じ曲げるために、ごまかしの引用をしたり、数々の操作を行っているというのである。これが事実であれば、ハーバーマスの研究者としての資質に疑問がつくだけでなく、歴史修正主義者はむしろハーバーマスではないかという疑問すら起こる。ハーバーマスは、自己の論敵を歴史修正主義者と批判する際、「歴史修正主義」の定義をしていないが、私はかつてある論稿で、武井彩佳の『歴史修正主義』(中公新書)を引きつつ、歴史修正主義を、「自己の政治的主張のために歴史を利用する目的で、史料を自己の政治的主張に合わせて恣意的に選別し、解釈すること」と定義したことがあるからだ。この場合、歴史修正主義とは、保守か革新か、左派か右派かといって政治的立場とは関係ない。では、ヒルグルーバーの指摘は事実なのか。ヒルグルーバーは、この指摘を論証するため、ハーバーマスの恣意的操作を引用ごとに細かく証明した論文を書いており、「私が行った訂正を参照することによって、ハーバーマスに対して私が投げかけた学問的な不誠実さという非難が正しいかどうか検討することができる」と述べているが、残念ながら、その論文は『過ぎ去ろうとしない過去』には収録されていない。
 また、ハーバーマスによって批判された別の歴史家クラウス・ヒルデブラントも、「あらゆる恣意をはびこるにまかせる、テクストとの関わり方における「ハーバーマス流のやり方」」についての論文を書いているが、それも邦訳書には収録されていない。これは単なる偶然であろうか。仮にこれらの論文が収録されており、それを読んだとしてもなお、先ほどの三島憲一の評価は変わらないと言えるだろうか。大いに疑わしいと言わざるを得ない。なぜなら、主張内容の是非優劣は一定の価値観に立脚せざるを得ず、どの価値観を選択するかによってその評価は左右されざるを得ないのに対し、論証の手法における誠実さの欠如は、いかなる政治的立場であれ、学問的に許されるものではないからだ。
 
 「歴史家論争」における実質的な争点の一つは、ナチスによるホロコーストが歴史上唯一無二のものなのか、それとも比較可能なものなのか、というものであった。この点に関して、ノルテやヒルグルーバーは比較可能であるという立場をとるのに対し、ハーバーマスは、「(他の虐殺との)比較を通じて(特異性を)解消するようなことをして、責任を軽く見せようとするなどということは禁じられるのではないだろうか」と述べている。しかし、比較が可能だとする論者がすべてホロコーストの責任を「軽く見せようと」していると断定するのは速断であろう。ボルシェビキによる「収容所群島」の方がアウシュヴィッツよりもいっそう始原的であるというノルテの主張には賛同できないが、そのノルテでさえ、「どんなに比較可能であろうとも、ナチズムの生物学的な抹殺行為がボルシェビズムの企てた社会的抹殺とは質的に異なるということが、明確になってくるだろう。一つの殺人、大量殺戮の一字例は、他の殺人の事例があるからといって「正当化」されるわけではない」と述べている。これは正しいのではないだろうか。また、ヒルグルーバーは、「歴史においては、いっさいのことが、つまり、どんな人物の、どんな時代も、どんな事件も特殊なものであることはたしかです。でもそうはいっても、いかなる事件、いかなる動き、いかなる人物も比較可能でなければなりません。この点は歴史学の基本的要素です。特殊性と比較というのは相互に排除しあうものではありません」と述べている。これも正しいのではないだろうか。
 
 しかし、ヒルグルーバーのこの指摘に対して、ハーバーマスは次のように反論している。
 
<問題になっているのは、公共の場での歴史の使用についてなのである。公共圏において、また政治教育の場において、博物館や歴史教育において、自己弁護的な歴史像の形成は、直接的に政治的問題となる。はたして我々は、歴史的比較の助けを借りて、薄気味の悪い貸借相殺計算を行って、ドイツ人の危険負担共同体の責任をのがれようとしていいものなのだろうか。>
 
 つまり、比較すること自体は、学問的には問題ではないのだが、それを公共の場で述べることは制限される、ということなのであろう。ハーバーマスは上の引用のすぐ後で、今回の論争の発端となった議論が「なんらかの専門雑誌でなされていたとしたら、私はそれをとやかく思う気持にはならなかったであろう。大体そういう議論がなされていることも知るところとはならなかったであろう」と述べているので、例えばノルテの論文が、専門雑誌ではなく、フランクフルター・アルゲマイネ紙という一般紙に掲載されたからこそ批判したのだ、と言いたいらしい。
 
 ハーバーマスの論説には「歴史の公的使用について」というタイトルがついている。奇妙なタイトルだが、これはカントが『啓蒙とは何か』の中で論じた「理性の公的使用」をもじったものであろう。カントはその中で、次のように論じている。
 
<自分の理性を公的に使用することは、いつでも自由でなければならない。これに反して自分の理性を私的に使用することは、時として著しく制限されてよい、そうしたからとて啓蒙の進歩はかくべつ妨げられるものではない、と。ここで私が理性の公的使用というのは、或る人が、学者として、一般の読者全体の前で彼自身の理性を使用することを指している。また私が理性の私的使用というのはこうである、――公民として或る地位もしくは公職に任ぜられている人は、その立場においてのみ彼自身の理性を使用することが許される、このような使用の仕方が、すなわち理性の私的使用なのである。>
 
 この中の「理性」を「歴史」に置き換えるならば、「歴史の公的使用」とは、学者が一般読者の前で彼自身の歴史観を披露することであり、それはいつでも自由でなければならないのに対し、「歴史の私的使用」とは、公民としての地位もしくは公職にある者が、その立場において歴史観を披露することであり、それは時として制限されてよい、ということになるだろう。
 
 「公的使用」という言葉の使い方が、ハーバーマスではカントと逆になっているようだが、いずれにせよ、学者の論文では自由であるが、公的使用(カントの言う「私的使用」)においては制限されうる、という論理構成はカントと似ている。ただし、ハーバーマスのいう公共の場での使用は、公務ないし公民の地位に伴う使用よりも適用範囲が広いので、ハーバーマスの方が制限される場面が広くなる。問題は、なぜ公共的言説においては、学問的言説よりも制限されるのか、専門雑誌では許される言説が、なぜ一般メディアにおいては禁じられるのか、ということである。ハーバーマスは、この問いに直接には答えていない。ただ、ノルテらの行う「貸借相殺」(歴史的比較)は、連邦共和国の公式の自己理解に反する、とか、政治共同体の政治道徳に反する、などと述べるだけである。しかし、果たして公的言説と学術的言説がそれほど截然と区別しうるものだろうか? 仮に区別し得たとしても、自由な学術的言説も公的場面では制限されるのならば、いったい何のための学問の自由なのだろうか? 果たしてそれは学問の自由と呼べるのだろうか? ハーバーマスの論理には疑問が多いと言わざるを得ない。
 
 最後に、現在ドイツで問題となっているイスラエル批判のタブー化についてであるが、ハーバーマス流の公的歴史観の制限が外交関係にも影響を及ぼすことは、上記の論文の中で、ハーバーマスは次のように語っている。
 
<ドイツにおいてこそ我々は、ドイツ人の手で虐殺された人々の苦悩への追憶を(……)目覚めさせておく義務がある。(……)この追憶を、もしも我々が無視するならば、ユダヤ人市民たちは、そしてそもそも虐殺された人々の息子や娘、そして孫たちは、この国ではもはや息をすることができないであろう。これには政治的な含みもある。いずれにせよ、例えばドイツ連邦共和国とイスラエルの関係が、近い将来において、どうして「正常化」しうるなどということがありうるのか、私にはわからない。>
 
 ホロコーストの犠牲者を想起し続ける義務が、なぜドイツとイスラエルの関係に直結するのか。ここには、ユダヤ人とイスラエル国家を同一視することにより、イスラエル国家の政策を批判することを反ユダヤ主義として禁じるという、現在ドイツで広く見られる誤った政策や態度の原型があるといえよう。

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