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努力で幸せを「与えられる」より、幸せを「作る」方が難しい。 だけど確実で、温かだ

私はずっとこう考えていました。

努力した者に、幸せは訪れる。
努力した者だけが、幸せを勝ち得る。
努力しなければ、幸せにはなれない。

誰に言われたのか、どこで読んだのかは、わかりません。
ただ、自発的に学習したものでないのは、確かです。
どこかで与えられた価値観でした。

そして、今はこう考えています。

幸せを作るのは難しい。
だけど、幸せを自分で作ることができれば、必ず幸せでいられる。
自分で作った幸せは、どこまでも温かで、絶対に失われない。


幸せを得るために努力したこと、努力して得たかった幸せ

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私は自分が、「かなり幸せのために努力した人間だ」と考えていました。

学力をつけ、いい学校に受かろうと受験勉強して。
他者との共生のために、コミュニケーション能力を叩き上げ。
毎日泣きながらでも、社会に馴染もうと、会社にしがみつきました。

ところが、これらが与えたのは、以下のものです。

自分は勉強した人間だ、賢い人間だという傲慢さ。
他人と自分との違い、自分の欠陥に対する劣等感。
ストレスによる潰瘍性大腸炎と適応障害と軽度PTSD、月経前症候群の悪化。

……正直、ろくなものでは、ありませんでした。

職を失い、働けない身になって、ようやく気づいたことがありました。

それは、努力で得られる可能性があるのは、与えられる幸せでしかない、ということでした。

私が望んでいたのは、こんな幸せでした。

周囲から賞賛され、尊敬される幸せ。
誰もが私を好きになり、私の周りに集まってくる幸せ。
会社や社会から地位を与えられ、頼られ、認められる幸せ。

どれも、他人に依存する、他人から与えられる幸せです。

他人が与える幸せとは、不安定なものです。
あくまで、与えられる「可能性」があるに過ぎません。
どんな努力をしても、必ず得られるわけではないんです。


「働きたい、仕事がしたい、職業が欲しい」=承認欲求

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今私には、職業がありません。

ブックオフで古本を売るとき、職業欄には「自由業」とか「主婦」とか「無職」とか、適当なことを書きます。

今現在、収入はありません。
そもそも、働くことができません。

お金を得るようなこと(クラウドソーシング、ビジネス支援、ネットビジネス、その他もろもろ)に関わるだけで、冷や汗と涙が止まらなくなるからです。

そんなわけで、少し前の私は半狂乱状態でした。

働きたい!
職業が欲しい!
仕事がしたい!
だけどできない、なんでだ!
私は不幸だ……惨めだ……人間として失格だ……生きてる価値(以下略

……これ以上はやめておきましょう。

一見すると真面目な精神病患者のようですが、言い換えればこんなもんです。

誰か私を認めてくれ!
そのためならなんでもする!
誰にも認められない私なんて、価値がない!



意外と知られてない、「幸福の自家栽培」の難しさ

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誰にも幸せ(承認)を与えられないなら、どうしたらいいんでしょう。
自給自足をするしかありません。
幸せの自家栽培です。

すると、これがとんでもなく難しいことが、わかってきます。

例えば、感謝をすること。

春に小さなツボミをつけた木に、ありがとう。
カフェで笑顔を向けてくれた店員さんに、ありがとう。
そして、毎日を生きている自分自身、今を作った過去の自分に、ありがとう。

最後が、特に難しいです。


もしくは何か「好き」を見つけること。

人でもものでも、動物でも、自分が好きなことを見つけること、これも難しいことです。
自分が好きなこと、言えますか。
それは付き合いでも、かっこつけでもなく、本当に好きなものですか。

もし付き合いやかっこつけなら、結局は幸福の与えられ待ちと同じです。


比較しないこと。

SNSやニュース番組、あらゆる情報は、私たちを何かと比較させます。

私たちの中に、誰でもない「普通の人」や、存在しない「みんな」を作り出します。

そして、「普通の人」より劣っている部分や、「みんな」から遅れてる部分を、ちくちくねちねちと、言い募ってくるのです。

外側の情報を完全にシャットアウトするのは、今の時代、とんでもなく難しいことです。


人々が「幸福(=承認欲求)」のために努力するのは、
自家栽培より、ずっと簡単だから(かもしれない)

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実は、幸福(承認欲求)のために努力するのは、結構簡単なことです。

ある程度方法が決められていて、その手順通りにやっていればいいからです。

例えば、学校の成績を上げるために勉強する。
仕事の成績を上げるために、新聞を読む。
教養を高めるために、本を読む。
……などなど。

そして、こうした努力は、結果が出なくても、努力そのものを「認められる」ことも少なくありません。

勉強してて偉い。
新聞を読んでるなんてカッコいい。
難しい本を読めて凄い(いろんなことを知っていてすごい)。

この3つの賞賛は、案外手軽に手にすることができます。

そして、努力がみのり、何かを成し遂げた時には、大きな賞賛を受けることもあります。

ただし、これは本来おまけ的なもので、必ず得られるとは限りません。

ところが多くの人は、努力をしていれば必ず大きな賞賛を得られる、と固く信じています。

まるで、「(あたりが)出ない(パチンコ)台は一台もないんだから」と、パチンコ中毒になっている人のような具合です。

確かに、1万時間やれば、なんでもある程度できるようになれる、という「1万時間の法則」は存在します。

ただし、そこに「必ず賞賛されるようになる」とは書かれていません。


頑張るなら、
「決まった努力」よりも、「自分の幸福栽培」を

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ひしひしと、自分だけの幸福作りの難しさを感じるごとに、これこそがもっとも成し遂げるべきことじゃないか、と私は感じ始めています。

なぜなら、私は本来頑張ること自体が大好きな人間だからです。
ほっとくと、勝手に頑張ってしまう人間です。

そんな人間にとって一番難しいのは、頑張らないこと。
他人の承認をアテにしないことです。

だから私は、幸福栽培、幸福の自給自足を始めることにしました。
自分が感じる幸せとは、何なのか。
どのようなときに感じるのか。
そのために何をしよう……。

自分の幸福栽培には、決まった方程式や手順はありません。

1から探っていかなくちゃなりません。

だからこそ、他人のためにする努力なんかより、何倍も複雑で、難しいことなんです。


例えばこんな、幸福の自給自足

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「自分が幸せになるために、幸せの栽培をする」

一見して、自分勝手で個人主義な考えに聞こえるかもしれません。

ところが、そうは行かないんです。

私の幸福の中には、家族の幸せ、友達の幸せ、などなど、誰かの幸せが確実に関わっているからです。

結果的に私は家族や友人、顔も知らない誰かのために尽くすことが、少なくありません。

「ありがとう」を言われるためでも、バイト代が欲しいからでもありません。

ただ、それをすること自体が幸福で達成感があり、満足できるからです。

家族がちょっと面倒に思ってることを、代わりにやったり。
友達が泣きそうなほどに悩んでいる時、話を聞いたり。
迷っている誰かの背中を押したり。

そんなところにも、私は幸せを感じます。

もちろん、一人で感じる幸福もあります。

好きなミュージカル音楽を流して、部屋の中で一人で踊っているとき。
ギター片手に歌を歌っているとき。
小説のプロットに、頭を悩ませているとき。
木の剪定、花がら摘み、挿木に挑戦しているとき。
エスニックな不思議料理を作っている時。

カラオケで褒められたり、投稿した小説に「いいね」がついたり、通りすがりのおばあさま・おじいさまに花を褒められたり、家族に「おいしい」と喜ばれることもあります。

だけど、それは目的ではなく、あくまで副産物的なおまけです。

あくまでも、何かをしている時間、そのものが幸福なんです。


「食っていけないから」という逃げ言葉
「努力している」という免罪符

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私自身が幸福の自給自足を、完全に把握して、覚えて、好きにできるようになったとき。

そのときには、おそらく当たり前に職業を持っていることでしょう。

仕事でもらえるお金は、実は副産物でもあります。

仕事をしているときが、ただただ充実しているから、「幸福だから仕事をしている」、それが本来の形ではないでしょうか。

「仕事をしなくちゃ食っていけない」
「努力することを否定するのは、間違っている」

そう思うかもしれません。
私自身、そう思ってました。

「仕事はしばらくしなくていい、ゆっくり休んで」
「やりすぎないで、今はがんばってもしょうがないでしょ」

全部嫌な言葉でした。
甘えにしか聞こえないからです。

だけど、甘えていたのは私の方でした。

「食っていけないから、仕事をしなくちゃいけない」

そんなことは、ないんです。
仕事をしなくても、食っていく方法はたくさんあります。

実家や友達に助けてもらったり、野草や川釣りで食料を得たり、借金をしたり、生活保護を受けたり。

だけど私たちは、誰かに助けてもらったり、保護を受けたりすることを恥ずかしいことだと決めつけています。

だったら死ぬほうがマシだ、と言って、本当に死んでしまうこともあります。

「頼らないこと」「死ぬこと」に甘え、他人からの承認に固執しつづけます。


「努力することは絶対的に正義だ」

そんなことはありません。

「努力している」は、時に免罪符になります。

「努力している」と言えば、色々な楽ができます。

他の方法を探さなくていいし、遠回しに、相手に承認を強要することもできます。

「努力」に甘えている人は、たくさんいます。


幸福の自給自足は難しい
だけど、絶対で、確実で、温かい

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もし今、不幸だ、辛い、つまらない、自信が持てない、というときは、幸福の自給自足を試してみてください。

簡単なことではありません。

とても困難なことです。

だけど、そこには確実に温かな幸福があります。

取り上げられることも、消されることも、巻き上げられることもない幸福です。

まずは、自分の「好き」探しから、始めてみませんか。


エイでした。

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