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潮騒

この街の赤い色を全てかき集めてきたかのように砂浜も海辺も一斉に赤一色をまとい始めた頃、ギターを持った一人の老人が浜辺にやってきた。
歩道と砂浜の間に一部コンクリートのステージのようになっているところに腰かけて咳払いを一つするみたいにギターを小さくジャランと鳴らした後、慣れた手つきで調弦を始めた。
その調弦から境目なくボサノバのリズムを刻み出し、さらにつぶやくように歌い始める。
老人のギターの調べに誘引されるかのようにしてジーンズにイエローのTシャツ姿の女がやって来て、老人のすぐ近くに腰かけた。
彼女は確かに老人の歌を聴いているが、老人とはまったく無関係だと言いたげに遠く向こうの「砂糖パン」という名のついている山を眺めている。
曲の途中で老人は首を傾げて歌を止めた。
「お嬢さん、何か悲しいことがあったのかい」
「なぜ判るの?」
「わしはギターを持たない時は酔っ払って支払いの勘定が全部ただに見える面倒なじいさんだが、ギターを持って歌い出したら人の心の内までしっかり見えるんだ」
女はくすっと笑い、
「この街の男たちはみんなそういうの。何でも知っている口ぶりをして女性をたぶらかすの」
と、女は自分の祖父くらいの年恰好の老人をからかう。
老人は指で涙がほほに落ちるジェスチャーをして返した。
女は慌てて頬の涙の跡を手で拭った。

老人は歌の続きを歌い始めた。
歌いながら女を気にしてそっと目を配る。
短い曲が終わり老人はまた調弦を始めた。おそらく音が狂ってなくてもそれが彼の作法なのだろう。
「では次にこの街の女について語ろう。この街の女が浮かない顔をするわけは二つに一つ。恋を切望した時か恋に失望した時かだ。お嬢さんは、、」
女の顔を見て、
「、、恋に失望した方、だ」
「ええ!どうして判ったの?」
「おお、そうなのかい!」
「ああ、引っかかった!」
ここで初めて二人の間に笑い声が生まれた。
「おじさんはいつもここで歌っているの?」
「ああ雨の日以外はほぼ毎日ね。あそこに見えるだろう。あの緑の看板のバーで一杯ひっかけてからここに来る。で家に帰る」
と、言いながら次はギターでアパートを指し示す。
「ああ、いいなあ。おじさんは毎日この浜辺の景色をみて暮らしてるんだ」
老人はそれには反応せずに言った。
「お嬢さんの人生を照らしてくれる人が必ずいるから」
女は再び砂糖パン山に視線を移した。
老人はまた調弦をしながら、
「ここでギターを抱えて歌っていると妻が空から私の歌に拍手喝采をくれるんだ」
老人は天を仰ぎながら吹っ切れたような表情をした。
女は頷いた。
彼女の表情はここに来た時よりずっと明るい。
「お嬢さん、また笑って歩いていけるかい」
「うん」
女は立ち上がってお尻についた砂を払って、
「この街の男もまんざら悪くないわね」
といたずらそうに言った。
「この街の女は相変わらず美人だがデリケート過ぎて手が焼ける」
と老人は返した。
女は別れ際に腰の高さで小さく手を振り、さっきまで彼女自身が何度も目をやった砂糖パン山の方向に歩いていき、やがてその風景に美しく馴染みながら消えていった。

しばらくの沈黙を味わった後、老人はまたギターをつま弾き始めた。
小曲を一曲弾いた後、彼もつい先ほどの女と同じようにお尻についた砂を払ってアパートの方に消えていった。

潮騒の音と拍手の音。