ポエトリーリーディング入門
ずっと書きたかった記事。
それが正直な感想ですが、同時にwebnokusoyaroというアーティストについての解像度がどこまでいってもはっきりしない。「結局自分がこの曲をそう思っているだけかもしれない」そういう感覚から離れきれず,かといって形にしないのも気持ち悪い。ためらいながらの筆取りとなっております。
どの記事でもそういう感覚が多少なりあるのですが、特にこの曲『ポエトリーリーディング入門』では自分の詩情の奥底を見つめさせられる、そういう感覚に陥る曲です。
こちらはwebnokusoyaroの7th Album『妄言』に収録されている『ポエトリーリーディング入門』という曲についてあーだこーだ言う記事です。実は本人も楽曲解説を記しているのでそちらも是非。
まず、『ポエトリーリーディング入門』というタイトル。これが特に良かった。
実は私としても,本人楽曲解説の存在をかなり後になって(この曲について記事を書こうかなと思ったタイミング)知ったのですが、読んだ後納得しかなかったです。
というのも本人曰く「現代においての詩はツイートだ、だから誰かのタイムラインを眺めている感じにした」とのことですが、このタイムラインそのものに映るwebnokusoyaroの視点からラッパーとしてのリリシズムを感じます。
ポエトリーリーディングそのものはMOROHAや竹原ピストルのようなメッセージ性の高いアーティストのスタイルですが(と勝手に理解しています)、webkusoのこの曲はもっとポエトリーそのものに向き合っている感覚を私は持ちました。
無味乾燥さを強調するような聞き心地のいい空虚な言葉、そして現代的な意味で殴りつける温度のある固有名詞。その対立構造が面白い…んだと私の頭は当初判断してました。間違ってはない,,,んですが釈然としない(こういう場合はだいたい間違っているとも思う)のでもっと潜ってみました。何度も繰り返し聞きながら自分の感情を確認してきて,この曲の良さはそんな薄っぺらいところにはないことがわかってきました。
詩(poetry)とは、どのようなものであり、これからどのようなものであり続けるのか。ヒップホップに限らずとも、現代的における音楽はリリックをどこまで信頼していけるのか。「説明する」という段階を超え、真に心に迫り存在を肯定することばの迫り方はいかなるものか。
本来poetryはそのようなものではなかったか。そういう気持ちを思い起こさせる曲でした。
「なんでそんなになっちゃったの?聞きすぎて頭おかしくなったの?」
いやいやまあまあまあ。その可能性は無きにしも非ずですが、もう少し語らせてください。それでは引用をもとに進めていきます。
最初は空虚な存在であることを抽象的な言葉で描きながら、「デカすぎるマウスパッド」でいきなり現実に引き戻してきます。「楽器できる?って聞くとみんなカスタネット」でマウスパッドと韻を踏んでくるっていうね。
表面的な部分での面白さを見るとこんな感じで楽しいんですけど、少しだけ踏み込んでみると気付くんですよね。この曲は「世界と自分とのズレに気付いてしまった曲」ってことに。世界は自分の思う通りのものではない、それを知ってしまった後に自分に何が歌えるのかを現代にリマップした曲。それが私の考える『ポエトリーリーディング入門』の解釈です。
個人的な解釈ですが、詩が抽象的な言葉を使いがちなのは、映し出す具体が常に移ろいゆくものだからだと思っています。時とともにものは朽ち果て,なくなってしまいます。故に抽象とは「本質以外を棄てる」ことで本質を浮かび上がらせる行為とも言えます。
逆説的にいうと,本質を残すはずだったのにその本質を失ってしまった(あるいははじめから持ち合わせていない)「抽象的な」言葉は具体的な意味を持たない抜け殻となります。
本来的な言葉の在り方から考えると,理論は言葉の意味をつなげるバイパスであり,詩はそのバイパスを跳躍する躍動感(命と言ってもよいかもしれません)を持ちます。それは正しい意味で抽象的なことばが持つエネルギーを原動力としています。
命の輝きあるいはガラクタ。
その危うい際を見極めるように、詩は物語を紡ぎます。
まったく何にも響かない空虚な言葉の羅列、あるいは宮沢賢治の『春と修羅』に映し出されている生の慟哭。どちらにもなりうるのが詩です。
そういうふうに私は詩を理解しています。
その地点から歌詞を俯瞰してみると、抽象部に描かれているものは、一見上記の本質を失った抜け殻のように感じられます。現代的な書き捨ての(私自身自戒を以って書いています)恰好の良さを重視したフレーズ。
いつの時代も格好の良さというのは詩において重要でしたのでその点は必然ではあるのですが、現代の言葉は中身の重さを失った使われ方をしていることがあまりにも多く、この歌ではその空白を表現しているように思えてなりません。また、空白と意味のギリギリのラインを描いている。
めっちゃいい。生活の中で感じるズレや不可解さ、上手くいかないときや不愉快なものに出会ったときの絶妙な違和感を表現していながら、サビの「月が輝くころ」などの抒情もある。最後の「会う医者会う医者 どうせ偽医者」で吐き捨てるように言葉を投げるその様は現代の慟哭と言っていい。
すごく「詩」です。私にはそう感じます。
そして同時に,自分のプライドに対して誠実な人なんやなと感じました。
後述の<偏見や先入観がなきゃ 裏切れもしない>にはハッとさせられました。本当に自分の在り方に向き合ってなければ吐ける言葉じゃない。
この小節めっちゃ好きなんですよね。ポエトリーリーディングって言ってんのに後半ガチガチの中身とライムで固めてくるのほんとラッパー。
抽象部も攻めていて<太陽に背を向ける不愛想なマーケット>はSNS含むマスメディアの終着点が薄暗い場所に到達するイメージをよく表していると思います。ギャグ方面の楽曲が多いですが「インサイド」とか内面を歌った曲とかには本音っぽい真面目さがあって大変良き。
リリックの中身も,人様の好き嫌いに干渉してくる現代の病理に踏み込んできてて<3列独立シート~>はリリックの組み立てとしてファインプレーすぎる。思わず手があがっちゃった。
「そんなこと言ってやるなよ」って思うフレーズの中に,確かに潜んでいる現代の違和感。仕方なしにそうなっているのかもしれない現状の中に石をぶち込むリリック。古民家を飲食店にしたがる髭ロン毛や大学に通い始めるおじさんおばさんの「あるある」で絶妙なバランスが取れていますが,もしこれがなかったら実はかなり重たいメッセージだったんじゃないか?って思ってます。
フィナーレに向かっていく構成ほんと天才。一発目の<いつも笑顔で~>は納得のいく面白さだったのに二発目の<いつも笑顔で~>ではエキセントリックなフレーズ。なんで?と思わせての<偏見や先入観がなければ~>は一番上がるバース。そこから大トリのhookへ。
空白を演出していたと思われた最初のバースが,これ以上ない本質を携えて最後にやってきます。ギャグのはずだったバースは,世界と自分とのズレを端的に表していました。反復法までちゃんと使うのかよ。
なにより最後のバースの気合の入り方やばいんすよ。これが俺のポエトリーリーディングだ!みたいな。だいすき。
前述した私の「音楽はリリックをどこまで信頼していけるのか」という問いに対して,明確にYesと言っています。ここに私自身救われている感覚があります。時代が変わったとてリリックの持つ力は衰えちゃいないし,今だからこそ歌えるリリックがあるんだってのを強烈に叩きつけています。
「おきゅおわ」って言葉を知らなかったんで調べてみると「お給料仕事終わり」だったんですね。なるほどなあ。仕事=金銭の代価という理解は現代特有のズレってわけではないんですが,現代的な視点からこのズレをみたらこういう言葉になるし,この曲だからこそこの言葉がhookとして活きるんだなって。おきゅおわ,という言葉がアクセサリーでなく機能してるのが良い。
最後のバースを俯瞰するに,<ゆっくりと消えていく灯火><ゲーミングPCがまぶしくて眠れない><月が輝くころ>の光の表現もかなり現代的です。ちゃんと詩人ですし,いつもふざけてリリック書いてるんだなってことがバレちゃいますね。彼のスタイル的にこの記事普通に営業妨害かもしれない。
何気に2023年に出た曲の中でもかなり上位で好きな曲です。
聞いたことない方がここまで読んでるのが想像できませんが(笑),聞いたことのある方がここまで読んでいただけて,少しは共感していただけるならこれに勝る喜びはありません。
最後まで読んでいただき,ありがとうございました。