弱さが誇りとなる瞬間
無償の愛とは、「見返りを求めずに
相手のためを思う気持ちや行動」の
ことを言う。「無償」とは、見返りや損得がないということである。
無償の愛に気づくことで、自らの
価値、尊さに気づくのである。
数字や順位で他に秀でることは、
一見自らの価値を高めたように
見える。
しかし、それは相対的な評価であり、
一時的なモノである。
一方、両親から注がれた数多の
無償の愛を思い出すことは、
自分だけの絶対評価である。
それゆえ、自分が価値があり、
尊き存在であることを、永久的に
証明する事実なのである。
ただ、この無償の愛というモノは、
失意どん底であり、自らが、
一番弱りきってどうしようもない。
そのような時に気づくもの
なのである。
それゆえ、無償の愛は、
決して思い出したくもない
最低最悪の頃の記憶の中に、
発見できるものだから、
ついつい忘れてしまうのである。
このことを使徒パウロは、
次のように述べている。
「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力が、わたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(コリント2 12:9)
つまるところ、本当の意味で、
自己肯定感を高めたければ、
自らの最低最悪の場面に焦点を
当てれば良いのである。
そこに、最悪の自分とともに、
両親や周囲から注がれた、無償の愛を発見できるからである。
最低最悪の自分に注がれた愛は、
間違いなく、見返りを求めない
愛だからである。
そして、どうしようもない弱き自分でさえ、ただその存在ゆえに、無償の愛の対象となったわけである。
これが、自らの存在価値、
存在の尊さの証となるのである。
まさしく、自らの弱さが誇りとなる
瞬間である。