ウズベク旅行⑤ サマルカンド
特急アフラシャブ号で陸路サマルカンドへ。乾燥した荒野が平たく広がっており、サマルカンドに近づくにつれ遠くに山影が見えてきた。
レギスタン広場
サマルカンドの顔、お手本のようなサマルカンドブルーのマドラサがコの字で向かい合っている。ウズベキスタンの名を知る人なら誰でも見たことがあるだろう。向かって左(西)から、ウルグ・ベク・マドラサ、ティラ・カリ・マドラサ、シェルドル・マドラサという。実は全て少しずつ装飾の意匠が異なっており、ウルグ・ベク・マドラサは天文学者らしく星が散りばめられ、ティラ・カリ・マドラサは青地に大きな黄色い花が二つ配置され、シェルドル・マドラサは太陽とライオンのペルシア風である。
ウルグ・ベク・マドラサの中には小さな資料館があり、写本やミニアチュールが並べられていて、マドラサでの教育や天文学について展示を楽しむこともできる。たいていの観光客はこの資料館を少し覗いてすぐスルーするので、ゆっくり過ごしたい者にとっては穴場である。
またティラ・カリ・マドラサのミフラーブの周りは青と金で彩られ、幻想的である。マニアックなところでは、お土産屋に混じって1930年代の破壊されたサマルカンドの街並みの写真が飾られていて、よくこの惨状からマドラサを再建したものだと感じさせられた。
いずれのマドラサも中は見事なまでにお土産屋さんで埋め尽くされている。資本主義をひしひしと感じる。食器屋のお兄さんが「Teacher's room! You must see!」というので、建物の中の急な階段を登ると、師弟がともに学んだであろう小部屋があった。ひとしきりウラマー気分で遊んだ後、急な階段を降りてお兄さんに礼を言うと、待ってましたとばかりに営業をかけられる。特産の磁器は何回も焼いて作るから丈夫なのだ、フェニックスはシンボルなのだと説明が続き、ふむふむと素直に聞いていたら、一つ30USドル(4000円くらい)の茶碗を売りつけられそうになった。確かに美しいし、マイセンや有田焼などと比べれば変というほどの値段でもないのだが、ウズベキスタンの物価を考えると大変なぼったくりであるし、あいにく私には高級茶器を愛でる趣味もない。逃げるようにお断りした。
ビビ・ハヌム・モスク、シヨブ・バザール、シャーヒ・ズィンダ廟群
レギスタン広場から、初代大統領イスラム・カリモフ像を右手に歩行者天国を北上すると、巨大なビビ・ハヌム・モスクに到達する。ティムールの妻の名を冠したというに値する荘厳なモスクだが、タイルが剥がれ、レンガが崩れて鉄骨が飛び出しているなど、レギスタン広場などに比べるといささか傷んでいる。それどころかモスクのまわりは絶賛工事中で、朝通れた道が夕方には通れなくなっていた。ブハラのカラーン・モスクでも感じたことだが、傷んでいる状態だったり修理中だったりする部分を見せることに抵抗がないらしい。建物がそこに存在し続けるということの中には損壊も修復も含まれるのだから、開けっぴろげに見せてくれた方が建物が生きているように感じられて楽しいと、個人的には思う。
ビビ・ハヌム・モスクのすぐそばにはシヨブ・バザールがある。入口付近には観光客向けの土産物屋も多いが、奥に進めば八百屋、果物屋、スパイス屋、油屋、惣菜屋、菓子屋、雑貨屋などなど市民の台所が広がっている。普段使いできる安い茶器なども売っているので、お土産に購入した。
食べ物屋の場合試食させてくれるのが嬉しい。特に今回は夏、果物屋ではぶどう、すもも、メロン、スイカ、驚くほどみずみずしいフルーツが山と積まれており圧巻である。おばあちゃんはこちらが買うと言っていないものを勝手に包み始めることもあるが、包んでくれる果物はとてつもなく美味しい。
菓子屋ではなぜか、コアラのマーチときのこの山も量り売りで売っている。たけのこの里は売っていなかったので、きのこたけのこ戦争サマルカンドの戦いはきのこの山の不戦勝である。
なお、肉屋には平気で豚肉ブロックがおいてある。サマルカンドにはムスリムではない人もたくさん住んでいるし、ムスリムの信仰だってありかたは人それぞれだ。
バザールの北、アフラシヤブの丘にはシャーヒ・ズィンダ廟群がある。朝がおすすめとどこかで読んだため、朝の散歩で大きな道の向かい側から眺めたが、サマルカンドブルーが朝日に照らされてとても美しかった。間近までは行かなかったのが心残りである。アフラシヤブの丘は広大な野原が広がっているが、東側は墓地となっているようで、シャーヒ・ズィンダ廟群ほどの建築ではなくとも立派な墓石がいくつもあった。
なお、ほど近いところにはウズベキスタン共和国初代大統領イスラム・カリモフの廟もある。最近作られただけあってぴかぴかで、青、赤、緑の色彩が豪華絢爛(色使いと模様から、なんとなく飛鳥時代〜奈良時代の建造物を連想した)。警察の厳重な警備、写真撮影禁止といささか物々しいが、私が訪れた時には子供たちがきゃあきゃあいいながら走り回っており、警官も日傘をさして暇そうにしていた。
ウルグ・ベク天文台、ダニエル廟、アフラシアブ博物館
サマルカンド旧市街の北側に、ティムール朝第4代君主ウルグ・ベクの作った天文台跡がある。ここでは太陽の南中を測定する施設の一部が発掘されていて、小さな博物館もある。私はイスラーム科学史を齧っているため、いつか訪れたいものだと願っていたのだが、存外に早く願いが叶ってしまった。嬉しい限りである。
ウズベキスタンは国ぐるみでティムールを「民族の英雄」として敬愛しているようだが、ウルグ・ベクもかなり存在感が目立つ。天文台の博物館には、観測にもとづいて作成された天文表など天文学の展示だけではなく、ウルグ・ベクの文芸や音楽の才能を称賛するパネルもある。想像していたより小規模な博物館で少し落胆したものの、観測機器や天文表の展示をじっくり見て(浅学非才が過ぎて見ても何もわからないが)、有意義な時間を過ごすことができた。
アフラシヤブの丘北側のダニエル廟(ホジャ・ドニヨル)には、旧約聖書の聖人ダニエルが葬られている(と言われている)。ウルグ・ベク天文台からは炎天下そこそこ歩く必要があったため、到着した頃にはへろへろだったが、川沿いのあずまやで休息をとり、湧き出る聖泉の冷水で顔を洗えば、シャキッと爽やかな気分でお参りすることができた。
ダニエルの墓石は18mもあり、身を乗り出さないと全体像が見えない。廟参りに来た人々が祈りを捧げている、穏やかで清らかな場所だった。他の廟やモスク、マドラサに比べて土産物屋のやる気もなく(まず店員が引っ込んでいて出てこないし、いても「ヤポンスキー?コンニチハ!」と話しかけてきたりしないのである)、信仰や祈りの場として存在していることを強く感じさせられた。
さて、ずっと「アフラシヤブの丘」という地名が登場してきたが、これはサマルカンドの旧市街の北側に広がる小高い丘のことである。現在はそのほとんどが野原(私が訪れた時には高温と乾燥でほぼ砂漠の状態)で、羊や牛が放牧されているばかりだが、じつは紀元前から続くサマルカンドはこの丘の上に存在した。ソグディアナの中心都市だったのも、タラス河畔の戦い後に製紙工場が作られたのも、丘の上のサマルカンドの方だ。モンゴルの襲来で丘の上のサマルカンドは消失してしまい、現在の丘の麓のサマルカンドが築かれたが、丘の上ではソグド人らが暮らしていた痕跡が砂の中から発掘されている。その成果が展示されているのがアフラシヤブ博物館で、色彩豊かな壁画が見物だった。
グーリ・アミール廟
ウズベキスタンが国ぐるみで敬愛してやまない英雄、ティムール。彼を含むティムール朝の歴代君主が眠っているのが、グーリ・アミール廟である。ブルーと金で煌びやかに彩られた廟には、例によって例のごとく土産物屋がところ狭しと並んでいる。
美しい装飾を見上げていたら、流暢な日本語で話しかけられた。なんでも日本語でガイドできますよとのこと。これまで散々ナショナリズム的ともいえる表象としてティムールが称揚されているのを見てきたため、どんな話が聞けるのか、ティムールをめちゃくちゃヨイショするんだろうなあ、と少しズレた期待を抱いてガイドを頼んでみた。性格が悪い。
期待は大当たりで、ティムールの遺骸を運び出したせいで第二次世界大戦が始まり、棺をサマルカンドに安置しなおすためにプロペラ機で運んでいたら航路の真下のスターリングラードでソ連軍が盛り返した、だからティムールは第二次世界大戦の戦況を左右したのだ!という世界史解釈を聞かされた(Wikipedia「ティムール」のページに大体同じ話が書いてあったので興味があれば検索してみてください)。もちろんティムールの棺は黒く見えるが実は巨大な翡翠であるとか、豆知識もふんだんである。ガイドの説明がどこまでこの国の通説とされているものかは知らないが、いろいろな意味で興味深い体験であった。
なおこれだけ書いておきながら写真を撮り忘れたという痛恨のミスが発覚。やはり普段から撮る習慣のない人間はだめである。グーリ・アミール廟ならネット上にいくらでも美しい写真があるので検索してください。
グーリ・アミール廟の北にはルハバット廟があり、こちらはムハンマドの髪が収められていると伝えられる。ティムールが慕ったシェイフ・ブルハネッディン・サガルジの墓石もあり、彩色が全くなくいくつかの墓が並んでいるだけのシンプルな内装はサガルジの禁欲的な趣向によるものだと、ガイドブックを売っていたおばあちゃんが述べていた。個人的にはその飾り気のなさが好ましい。
路地裏
観光名所の並ぶメインストリートから壁一枚を隔てて、地元の人々が多く住まう地区が広がっており、細い路地が複雑に走っている。サマルカンドで宿泊した宿はシナゴーグにほど近い路地裏にあり、もともとユダヤ人商人の住居だったという。近年ユダヤ人はアメリカやイスラエルへとどんどん移住してしまい空き家が宿になっているケースが多く見られるそうで、そうした宿の一つだった。
路地裏は面白い。観光客向けに飾り立てられたメインストリートと違って、道端で世間話に勤しむ人々とか、うろつく犬とか、掃除の行き届いていない側溝とか、地元民向けの小さな売店とか、人がそこで生活していることを直に感じられるのだ。好奇心だけで人々の私的領域に踏み込んで良いものかと最初は少し遠慮していたのだが、その辺で遊んでいる子どもたちは我先にと競って「ハロー!」と挨拶してくれるし、おじいさんたちも「コリアン?ジャパン?」と話しかけてくれる。
ブハラではちょっとした路地裏に足を踏み入れるだけで地元の小さなモスクにたくさん出会うことができたが、サマルカンドではあまり見つけることができなかった。うろついた場所が歴史的にユダヤ人の多い地区だったせいもあるかもしれない。それでも宿の近くであてもなくぶらぶらしていると、突如開けた庭園に行き当たった。なんとこれは、9〜10世紀に活躍した神学者、アブー・マンスール・マートゥリーディーの廟だという。イスラームは宗派だけでなく神学派・法学派でいくつかの流派に分かれるが、マートゥリーディーの創始したマートゥリーディー派はスンナ派ムスリムの中でかなりの多数派であり、オスマン帝国やムガル帝国で特に奉じられた。あまり時間もなかったので中をくまなく見て回ることはしなかったが、ガイドブックに載っていない名所を見つけたようで、嬉しくなった。
パン屋さんの店先を通れば入れ入れと呼び込まれ、窯でパンを焼いている様子を逐一見せてくれた。ところでウズベキスタンのナンは各地で微妙に味や食感が異なり、サマルカンドのナンはずっしりと分厚く美味しいことで有名だ。ところが、実際にこのパン屋さんや市場での販売状況を見ていると、密度が高く食べごたえのあるナンと、ふっくら柔らかく薄めのナンの二種類あることに気づく。私は後者の方が美味しいと思う。
私が覚えたほとんど唯一のウズベク語はgazlanmagan suv、ガスなしの水である。外国語の単語をなかなか覚えられないことに苦しみ続けているが、必要に迫られれば単語も覚えるものだなあと痛感する。それもそのはず、売店のおじさんおばさんに顔を覚えられてしまうほど何度も水やジュースを買い求めたのだ。先方も私のロシア語数詞聞き取り能力が極めて低いことを学んだのか、3回目からは口頭でなく電卓で金額を提示してくれるようになった。
ところで路地裏はとても狭いうえに、日本のように側溝を塞いだりしていない。行き交う人も多い。そんな危なっかしい道を、ウズベキスタンの熟練ドライバーたちは平然とぶっとばして走る。どういう判断能力とテクニックを持っているのだか、あと数センチずれていたら車体が壁にこすれてしまう状況でも絶対に接触しないですれ違うし、道幅が車幅ぎりぎりでも切り返しを駆使して方向転換する。たまにうっかり脱輪しても慣れたものらしく、浅めの溝なら車自身の馬力で脱出してしまうし、深い溝でも人がわらわらと集まってきてすぐに救出していた。
路地裏でさえぶっとばすのだから、大きい道は当然さらにぶっとばす。一度拾ったタクシーなど、ウインカーを出さずに車線変更を繰り返して周りの車を追い越し追い抜き割り込み、周囲の車も同様の蛇行運転でカーチェイスを繰り広げ、さながらマリオカートだった。信号機のない横断歩道を渡るのがとても怖いが、みな急ブレーキもうまいから歩行者がいれば必ず止まってくれる。幸いにも、私は10日間、身の回りで一度も交通事故を見かけることはなかった。
ブハラでもそうだったが、ウズベキスタンは子どもが多い。メインストリートの方でも、夏休みなのか普段からなのか働く子どもはよく目にするが、路地裏ではさらに多くの子が遊んでいる。一番年長の子(と言っても小学校低学年くらいだが)がもっと幼少の子の面倒を見ている場面も多く目にする。ウズベキスタンで話しかけてくる人々は必ずと言っていいほど年齢と家族構成を尋ねてきて、答えると自分の歳や家族の人数について話してくれる。もはや挨拶の一部のようなものであるが、家族をとても大事にする心はこのような兄弟関係で培われたのかもしれない。
余談だが、私が歳を答えた時、「俺にも同い年の娘がいる。娘には2人子供がいて、孫は全部で5人だ!女の子がいれば孫がいっぱい生まれる」と言われた時には、どう反応すればいいのか困ってしまった。
ウズベキスタン旅行中なんとも切ない思いをしたのが、宿でオムレツを焼いてくれる足の悪いおじさんだった。とても礼儀正しく接してくれる方だった。初日に私たちが日本人だと知ると、むかし別のお客さんにもらった百円玉を取り出し、スムに替えてほしいと言うのである。1スムは0.012円、100円だと8200スムほど。いくらウズベキスタンの物価が安いといっても、10000スムで1.5リットル入りの水が2本買えるくらい。それでも交換して、何度も何度も感謝してくれる。おじいさんの収入と生活を想像するとなんともやりきれない。少し苦い思い出になった。
新市街
せっかくだからサマルカンドでは旧市街だけでなく新市街にも足を踏み入れることにした。このイスラーム宗教施設で賑わう街にあるというロシア正教会とカトリック教会を見に行くつもりだったのだが、いざ行ってみると本来の目的地をすっかり忘れ、大学街を歩いて満足してしまった。しかも後で調べ直してみたら、地図上でカトリック教会と書いてあったのはアルメニア教会だったようで、ぜひとも訪れるべきだった。なんという失態。
広い道路が整然と直行する大学街にはいくつもの博物館や本屋があり、道ゆく人々の格好も路地裏より良い洋服で、あけすけに言ってしまえば、なんとなくリッチである。若い女性を見かけた場合、路地裏では働いているか子どもの面倒を見ている母親だが、大学街では若者同士で連れ立っておしゃれと勉強を楽しむ学生ばかり。大学通りと呼ばれる大通りを挟んで随分と格差があるように思えた。私もまた、同級生がしっかり社会人として働き人の子の親をやっている一方で親の脛をかじりまくって遊んでいるお子様大学生であるわけで、複雑な思いを抱くばかりである。
さすが大学街、路上でぼろぼろの古本が売られている。A.N.トルストイの小説(『戦争と平和』のレフ・トルストイではない)、数十年前の医学教科書、ロシア語版『クマのプーさん』の絵本、ウズベク語の算数の教科書などなど興味深いものがたくさんあった。
いくつかの本屋を覗くと、新学期直前であるためか、初等・中等教育の教科書や問題集が山積みになっていて、専門書やそれに準ずる一般書はあまりなかった。むしろリュックサックや文房具などの学用品が充実していて、あとは小説が少々。ウズベキスタンはどうもIELTSに力を入れているようで街中でもしょっちゅう巨大な看板を見かけるが、書店でもIELTSの問題集が並んでおり、英語検定の類を先送りしつづけている私は見たくないものを見たような気になって不機嫌になった。
大学周辺にはたくさんの博物館があるらしいが、私はそのうち郷土博物館にだけ入ってみた。相も変わらずティムール朝推し、ソ連時代の展示は不自然なほど少ない。郷土博物館というからには、近い時代であればあるほど展示物に事欠かないのではと思うのだが、そっけないほどあっさりした展示である。1階だけでなく2階にも展示があると聞いて階段を上ったら、まさかの自然博物館で剥製がたくさん置かれているだけだった。基本的にタシュケントの国立歴史博物館とあまり大差ない。私が面白がるような写本もあまりなく、強いてくすっと笑ったことといえば、展示の英訳があまりにも文法的にちぐはぐで誰かが鉛筆で添削していたことくらいか。少々退屈に過ごした。
同じ場所にはユダヤ人博物館もあり、裕福なユダヤ人の邸宅を展示しており、こちらは一見の価値がある美しいものだった。近代以前のムスリムとユダヤ人は生活様式などがまるで違わないと聞いたが、この邸宅は洋館で、ムスリムの家屋とは随分異なっているように見える。けれどどこか、幾何学模様や天井の彫り物に中央アジアらしい、モスクの装飾にも似た要素を感じた。
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