見出し画像

先に知っておきたかったインドの輪郭 1/3

日本人の「インド」に対しての理解は、良くも悪くも様々な幻想や誤解を含んでいる。一応はアジアの括りの中に入っているので、中国、タイ、その向こう側の延長線のアジアの国と思いがちだが、多少なじみのあるそれらの国とは全く異なる世界がそこには広がっている。

そんなインドの報道や解説は、インドの経済成長と共に日本でも徐々に増えてきた。しかし、それと同時にいくつかの重要なことが、様々な理由からハッキリと解説されずに放置されている感がいなめない。実際に現地で暮らし始めると、割とすぐに気づくようなことであっても対外的には敢えて踏み込んで説明されていないことがある。そこで今回は、「そういうことは、先に教えて言ってほしかった」というインドの輪郭を、よく誤解されやすいイメージと比較しながらまとめておきたい。
 
具体的には、次に挙げる三つのトピックである。
 
【1】  ぼやかされる境界:どこから、どこまでが「インド」なのか
【2】  身体的・宗教的・性格的特徴:「インド人」とは誰のことを指すか
【3】 身分社会の現在地:インドの人々が教えてくれない本音と建て前

 
インドに関連するこれらのトピックはインドの人々に聞くのが一番よいと思うかもしれない。しかし、ここに並べたトピックは、彼らが受けてきた政治・教育・プライドが強く出てしまうし、ましてや政府には政府の都合がある。所謂日本人の「インドインフルエンサー」のような人に語らせても、人気商売である彼らには踏み込みたくない領域だ。この投稿では、インドに対する個人の単純な興味と、インドの実態を理解してビジネスに生かしたいという、ある意味純粋なモチベーションから、それぞれの点について研究の内容を綴っていく。
 


【1】ぼやかされる境界:どこから、どこまでが「インド」なのか 

(今回の投稿では、三つの内このトピックのみを解説します。)


国の境界に対する違和感

我々日本人が、「インド」という言葉を使うとき、それは「日本」という言葉と同じように、あたかも「インド」という国が昔から存在しその国が、王朝を変えつつも共有する一つの長い歴史を紡いできたようなイメージを持っている。私自身も、以前は、なんとなくそのイメージで「インド」と捉えていた。しかし、「インド」と実際に仕事で付き合いはじめ、ついに現地で暮らすようになると、自分が暮らすこの土地・マーケットを正しく理解するためには、「インド」という言葉の空間的な定義を捉えなおす必要性を強く感じるようになった。
なぜなら、どうやら自分が住んでいるインドという国には、国内であるにもかかわらず全く異なる風習・文化・身体的特徴を持った人々が住む広大な地域があるし、少し足を延ばして近隣の国に行くとインド共和国の国境を越えたにも関わらず、「インドっぽい人々が、インドっぽい暮らしをしている」地域に出会うからだ。

我々ビジネスマンにとって、なぜ「インド」の地理的な捉え方が重要なのだろうか。それは、マーケットを攻めるには、まずはマーケットをどのように「区分け」するかがポイントとなるからだ。この区分けを間違うと一つの市場をわざわざ別の市場として捉えてしまいチャンスを逃してしまったり、異なる市場に対して画一的なアプローチを実施してしまったりする。インド=インド共和国という単純な認識に落ち着くのではなく、「インド」の地理的な定義を正しくとらえなおすことは、この地でビジネスをするスタート地点として本来ならばもっと早めに掴んでおきたかったことである。


インドということばの曖昧さ

「インド」という言葉とその地理的な扱いを語ることはなかなかセンシティブなことだ。興味深いことにインド共和国には「地図」が持ち込み不可物品に指定されている。彼らがわざわざこのアイテムを設定していることに、実際の国境紛争の存在に加えて、インド共和国政府が抱く「インド」という領域に対する不安感のようなものを感じる。

「インド」の素になったのは、「シンドゥ」というアーリア人の言葉である。これは「川」を表す言葉で、彼らにとって「川」とはインダス川を指す。実はインドの文明の始まりとして紹介されるインダス川の大部分は、インド共和国ではなく、パキスタンを流れている。この事実だけで、すでに「インド」という範囲が現在のインド共和国とは一致していないことが分かる。この言葉から派生したHindustanという言葉も、古来はこのインダス川よりも東の地域のことをざっくりと指したり、北インド平原のことを指したり、ヒンドゥー教が信じられている地域を指したりするために使われ、言葉の地理的定義が安定しない。過去の国家の版図にヒントを求めても、インド各王朝の版図やその首都の所在地は安定せず、直近を見てもムガル帝国、インド帝国、インド共和国の範囲は異なっている。インド王朝の一つとされるタージマハルを作ったムガル王朝も、東は現在のバングラデシュ、南はデカン高原まで広がっていて、その始祖バーブルの根拠地はなんと現在のアフガニスタン・カブールだ。彼は今でもそこに眠っている。これらの事実は「インド」を地理的にを捉える際に、現在の国境線を基準に考えるやり方がいかに杓子定規なやり方であるか示している。
 
現在「インド」を名乗るインド共和国の国境線がどこで引かれていようとも、インド文明圏の外部から来た現代日本人から見て、どの範囲の人々やその生活実態が同じグループに属しているかこそが、文明圏・文化圏を線引きする際の非常に重要な感覚である。
一旦現在の国境線を取り払って、そこに住む人々の衣食住、そして姿かたち・宗教の共通性に注目した時、インド的共通性を持つ領域はインド共和国の版図を超え、現在のパキスタン・ネパール・バングラデシュ・スリランカが治める領域まで広がっている。言い換えれば、出張や旅行に行った我々日本人が、「あそこも、結局インドだったね。」という感想を持つ地域がこの範囲である。これは、古来インド域外の者から「インド」と呼ばれてきた地域とほぼ一致しており、古代から続くこの文化圏が今も「インド」としての一体性を持っていることに気付かされる。今は政治的理由もあり、それぞれの国民国家が自分のキャラクターを演じているが、これらも含めて「インド」である。

言語の境の重要性

「インド」という言葉を国民国家の国名ではなく、それを超えた「地域」を表す言葉であると捉える考え方について、もう少しイメージを確り持っておきたい。そのためには、こちらの「インドの言語」の分布を示した図表が非常に分かりやすい。この地図をよく見ると、「インド・アーリア語族」の一部は、現在隣国のパキスタンやバングラデシュが統治する領土にも及んでいる。一方で、インド共和国の一部は、チベット・ビルマの言語圏を内包している。これらの地域はインド共和国に現在属しているものの、実際に足を運ぶと、人々の容貌、文化、宗教、そして自然環境に関して全く異なる特徴を持っており、一体のマーケットとして捉えることが難しいことが実感できる。そのような地域をインド共和国が内包していることは、インド共和国が持つ国内問題や次の投稿で説明する「インド人とは誰のことを指すか」を理解するうえで重要になってくる。
 


ここからは、身近なインド駐在員の声も踏まえて、①インド共和国ではないが、「インド」と言える地域と、②インド共和国内にあるが、「インド」とは異なる質感を持つ地域が、どんな色合いを放っているのか具体的に説明していきたい。

①インド共和国ではないが、「インド」と言える地域


バングラデシュ】
前述の通り、この地域はイギリス統治時代はインド帝国の範疇であったが、独立を経てインド共和国とは別の道をたどった地域である。そのため、イスラム教徒が人口の9割以上を占める中でヒンドゥー教徒も住んでおり、全体的な見た目や習俗は「インド共和国のベンガル地方(バングラデシュの西隣)の人々」と同じである。我々外国人が一目見ただけでは彼がインド共和国の人間なのか、バングラデシュの人間なのか見分けることはほぼ不可能だ。バングラデシュ人の中には家族の出自は今のインド共和国内にある者も無数にいる。陸続きで繋がっているのでインド共和国で仕事をしている我々にもバングラデシュ向けのビジネス案件の情報が多く入ってくるように、二つの国の人の交流は深い。
 
パキスタンの一部の地域】
こちらも歴史的背景としてはバングラデシュと同じく、インドが英国から独立する流れのなかで生まれた国家である。元々イスラム教の人口比率が多い地域で、現在でもイスラム教国家であるが、その中でもパンジャブ地方を中心とした東半分は「インド」の特徴を持った地域が広がっている。先ほどの言語分類の地図を見てみると、パキスタンの真ん中あたりに線が通っているのが見えるだろう。パキスタンのウルドゥー語とヒンドゥー語は文字にすると異なるが、会話は通じてしまうほど同質性は高い。尚、パキスタンの西側は「インド」の領域の外と言える。この地域はむしろアフガニスタンなど山岳系のイスラム教徒の領域であり、言語系統も異なる。
パキスタンにいる友人から、オフィスでのランチの様子を写真で送ってもらったことがある。そこに映る人々の顔つき、並んでいる食べ物、建物の雰囲気等々、女性がスカーフを被っている以外は、インド共和国で見るものと見わけがつかないほどだった。更に身近なところでは、インドで私の車を運転していたドライバーの祖父はパキスタンのラホールに故郷があり、ドライバー本人もデリーではなくパキスタン側に近い都市に地所を構えたいと言っていた。同じようにデリー近郊に住む人々は先祖を辿ると簡単に今のパキスタンに出自をもつインド人に出くわす。文明・文化というものは本来グラデーションを持つものであり、それぞれの国家が打ち出す独自色のイメージに関わらずそこに存在している。
 
しかし、残念なことに、実際の同質性にも関わらず現在のインド共和国とパキスタンは政治的にそれぞれの国の色を鮮明に出して対立をしている。そのため、ビジネス上はこの二つの国は切り離して扱わざるを得ない。インドのビザを取るときに自身とパキスタンとの関係を精査されることはいうまでもなく、インド共和国からパキスタンには容易に物資の送付や送金などを行うことができない。もちろん人々も互いにあまりよい感情を持っていない。よって、この国家で事業を運営する際にパキスタンの業務をインド共和国から管理したり統括したりすることは実務上も困難だ。日本以外であれば、中立性の高いシンガポールやイスラム世界のドバイ、マレーシアなどから管理するほうが実務的である。この状況は何十年とは変わることはないだろう。
 
スリランカ】
スリランカは、セイロン島という名の島を領地とする国家であるが、こちらも「インド」の一部として認識できる地域だ。島と大陸との距離はわずか50キロ程度しかなく、古来から住民は大陸と行き来が容易に可能であった。かの有名な叙事詩「ラーマーヤナ」にも登場し、ラーワナという邪神はセイロン島からやってきたという設定になっている。国民の7割はシンハラ語を使う仏教徒だが、残りの3割はタミル語を使うヒンドゥー教徒がほとんどを占める。このタミル語は、対岸の大陸側で話されている言葉と共通している。このように神話や言語や実際の交流頻度の事実から、同じ文化圏の括りで語ることができる。
 
最大都市のコロンボにはデリー、ムンバイ、チェンナイなどインドの主要都市から複数の航空会社のフライトがある。その自然環境とアクセスのしやすさから、日本人駐在員にとっては手軽に行けるインド共和国外の旅行先の一つとして重宝されている。外国企業の中には、インド共和国の拠点の管理下でスリランカの管理を行っているところもあり、文化・地理・歴史に加えて実際のビジネス面においても一体性は高い。この点はパキスタンと比べると少し異なる特徴を持っている。
 

②インド共和国内にあるが、「インド」とは異なる質感を持つ地域


「セブンシスターズ」と言われる北東州の一部】
これらの州には、我々日本人と同じような顔立ちの民族が住んでおり、デリーの街で彼らを見ると一瞬日本人と見間違えることもある。キリスト教が多数派で鳥も豚も牛も食べ、ヒンドゥー教由来の食べ物の制限もない。インド共和国の他の州と非常に細い回廊でかろうじて陸路で繋がっているが、北東州の東部分はミャンマーやチベットに近い文化圏といえよう。インド共和国の西の端にあたるグジャラート州に多額のインド政府の投資が行われているのと対比すると、東の端の北東州への投資は非常に少なく、経済開発の状況としては非常に遅れている。日本企業の工場進出も全くと言っていいほど進んでいない。このような経済のテコ入れ状況を見てもインド共和国政府がこの州をどのように捉えているかを感じることができる。経済発展の遅れから、デリーを含む大都市に出稼ぎで来るケースが多く、日本人のような見た目や食の寛容さも相まって、インドの日本食レストランでは彼らが店員として重宝されている。
 
ラダック・レーの山岳地帯】
先ほど紹介した地図でも分かるように、ちょうどインド亜大陸の頭の部分に横長に伸びる形でチベット民族圏が広がっている。ネパールは独立国として存在しているが、現在インド共和国になっているラダック・レーの地方も横長に広がるチベット民族圏が存在する。ヒマラヤ山脈の尾根を東西に突っ切る道路が存在しており、この交通路によってネパール、そしてセブンシスターズのあるインドの東の端までの何百キロにも渡る横長の地域が一つの文化圏として繋がっている。この地域土着の住民の見た目はまさに中国の領土に住むチベット人と同じであり、チベット仏教を信仰している。気候も「インド」とは非常に異なり、大気汚染とは無縁の青空が広がり、一番暖かい時期でも朝は摂氏10度程度まで下がる。この気候は人々の生活態度にも当然影響し、「インド」でよく見る路上生活者を全くと言っていいほど見ないという興味深い特徴を示している。
 


北インドと南インド

ここまでの説明で「インド」の外縁をなぞる正しい輪郭を各地域の特徴とともに理解できたと思う。最後に、この地図の中で黄緑色と青色で括られている二つの地域の存在についても認識しておく必要がある。歴史的な経緯を別にしても、実際にインド人自身も、北と南に関して漠然とした「別の人々」という認識を持っているのは事実である。北の人に南の人々の話をすると、まるでそこに見えない国境線が引かれているかのように、「彼らはTotally differentな人々だ」という反応をするし、南の人に北の人々をどう思うか聞くと、特にデリーを含む北西部の人々に対して野蛮で横柄な印象を話す場合が多い。デリーとチェンナイで勤務している駐在員が互いの都市を訪問する時に語ってくれる印象も興味深い。大まかな感想としては、北の人々のほうが殺伐としており、南の人々のほうが朗らかな印象を持つようだ。その印象を単なるバイアスとして切り捨てることは容易ではあるが、現地で聞く生の声としてこのような感想が多いという私個人の事実をここに示しておきたい。

インド共和国の全土で業務を行っている日系企業の場合、デリーやムンバイやチェンナイ等の大都市の一つにコア機能を置いてインド全体を統括しているケースが多い。その場合、統括する各地域の多様性に配慮する必要がある。つまり、それぞれの地域で信仰されている宗教の違い(ヒンドゥー教と言っても中身は多種多少の信仰の集まり)、食べ物や祝日の違い、人をマネジメントする時の力点の違い、そしてインド国内での異動をともなう人材配置や上司部下の関係性など、我々外国企業の勝手な論理で整理ができない問題に北と南の地域性が関連していくる。


ここまで説明したことを纏めると、インドでビジネスを行う際の地理的理解として、現在の国境線にとらわれない形で「インド」という言葉が表す空間を具体的に認識し、ビジネスへの影響やチャンスを捉えるきっかけにすることが重要である。

「インド」の地理的・空間的認識を見つめなおした次は、そこに住む「インド人」という存在について認識を深めていきたい。こちらは次回投稿に譲ることにする。

(今回もお付き合いいただきありがとうございました)

いいなと思ったら応援しよう!