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先に知っておきたかったインドの輪郭 3/3

(今回の記事は、前々回記事①前回記事②の続きですが、単一の記事としてもお楽しみいただけます。)

【3】身分社会の現在地:インド民が教えてくれない本音と建て前


語りにくい身分制度の現在地

インドの宗教といえばヒンドゥー教。ヒンドゥー教といえば、頭に浮かぶのはカースト制である。このようなあからさまな身分制が現在まで近代国家の生活の中に残っている国は非常に珍しいため、この仕組みを持つインド社会がどのようなに回っているのかについて興味がある日本人も多い。
日本人駐在員向けにコンサル会社が開催している『インド人とのコミュニケーション講座』のようなものに私も出席したことがあるが、そこでもカースト制に関して出席者から多くの質問が出ていた。しかし、専門のコンサル会社の講演を聞いても、インド民自身に聞いても、この分野の質問に対する説明は二つの理由で輪郭がぼやけている場合が多い。

一つはそれぞれに自分が取りたいスタンスがあるからだ。例えばインド政府やインド民自身が語るインドの宗教と身分制度は、往々にして対外的にインドをポジティブに語りたいという意識が反映され、宗教やそれにまつわる問題を過小評価して表現しがちだ。日系企業にサービスを提供するようなコンサル会社の場合は、西欧的または日本的な人権意識に縛られている場合が多いので、カースト社会に関する実務上有効なノウハウがあったとしても、宗教差別や人種差別と誤解されるような考え方や手法に踏み込むのを躊躇し、歯に物が挟まったような解説になる。

もう一つの理由は、「インド」があまりに広大過ぎて、地域性が強いこの問題に対して一括りで語りにくいという点である。最初の章で述べたように、「インド」というコンセプトは広大かつ流動的であり、仮にインド共和国内であったとしても、日本の9倍の国土に住む10倍以上の人口の人々を語ることは容易ではないし、接する社会階層よって状況は異なる。

これらの限界は私自身の分析や見解にも横たわっており、自分が把握できる範囲でインドの宗教と身分制度の現在地を伝えているに過ぎない。しかし、利害関係者を持たない自由な投稿であるがゆえ、あけっぴろげに宗教や身分制度の現実を語れるという意味で、少しは痒い所に手が届く形で、次のような論点について説明できると考えている。



インド民と一体不可分である身分制度

我々外国人がインドの宗教と身分制度に対してはじめに抱く疑問は、カーストと呼ばれる「血統・親族・宗教関係によって規定される社会制度」が現在のインドにまだ存在しているのか?ということである。
この疑問への回答は至極簡単で、カーストと呼ばれる考え方や仕組みが存在し、運用されている事実に異を唱える者はインド民であっても皆無だ。インド政府が憲法や法律で禁止しているのは、カーストによる「差別」であって、カーストそのものの「存在」ではないことに注意が必要だ。
カーストという言葉は、「インド」に来たヨーロッパ人が、インド民が営む社会の仕組みに関してポルトガル語で(カスタ=血統)をもとに名付けたものである。インド民自身は、ヴァルナ(宗教上のランク)とジャーティ(職業集団の分類)という社会の枠組みとして運用している。この枠組みは、ヒンドゥー教の教義と一体不可分の関係にあるため、ヒンドゥー教というものが存在する限り存在し続けることになる。そして西洋人がヒンドゥー教と呼び始めた信仰体系は、「インド」の人々が持つ宗教観や自然観や宇宙観そのものであるから、「インド」という空間が存在し続ける以上はカーストは永遠になくならないといえる。
 

どのように人々を見分けるか

インドそのものと言っても過言ではないカーストに対する次の興味は、ヴァルナやジャーティの違いはどのように見分けることができるのか? ということだろう。
これには膨大な先人の研究があり、社会学の巨人マックスウェーバーを含め、社会学や遺伝学を含めた学術的な研究が存在する。これらの研究の見解をかすめ取りつつ、実務上単純化するならば、①ファミリーネーム、②体格・肌の色など身体的特徴、③言語や服装や職業といった文化的情報を合わせて考えることで、所属するグループのおおよその見当がつく。

身分は血統・婚姻によって受け継がれるので、ファミリーネ―ムでなんとなくの出自が分かるという現象は、日本人にとってはなじみがある。インドにはファミリーネームを使って出自を検索するのためのウェブページもあるし、Wikipediaで検索しても主要なファミリーネームが所属するグループを容易に確認できる。自分の出自を偽って偽名を使うことはできるが、次に挙げるような体格や肌の色などの身体的特徴と、言語や服装などの文化的特徴と合わせて矛盾があれば、なりすましはすぐ分かってしまう。さしずめどう見てもアジア人にしか見えない英語も話せない日本人が、「Jones」と名乗っていたらそれに違和感を感じるのと同じ感覚である。

体格や肌の色などの身体的特徴も判断材料になる。もともとヴァルナやジャーティの発祥が、今から三千年以上前に北から侵略してきたアーリア民族が始めた宗教及び制度であるので、カースト高位者がその身体的特徴を強めに受けついでいる傾向にある。前章で紹介した「欧米人のように肌が白く、大柄で、容姿も整っている人々は」、高位ヴァルナやジャーティに属している場合多い。バラナシで毎夜行われているプージャー(ヒンドゥー教の祈りの儀式)で壇上に立つバラモンたちの中に、ドラヴィダ系が濃く出ている真っ黒な人々はいない。
身体性は大きなヒントだが、長い時間の混血を経て、インド亜大陸全体で血が混じっているので、体格や肌の色は絶対的な指標ではないことも事実だ。例えば、ケララなど南部に行けば浅黒い肌の人間がバラモン司祭として活動しているのを見るし、ベンガル地方でもバラモン司祭の中に肌が黒い者は珍しくない。例外を挙げればいくらでもあるが、身体的特徴でヴァルナやジャーティの高低がある程度見分けられるということは紛れもない事実である。

言語や服装や職業も重要な判断要素だ。やはり高位ヴァルナやジャーティの者ほど富裕で小奇麗が身なりをしており、教育レベルも高く、知的労働に付いている。どの程度流暢に英語を使いこなせるかは、所属しているコミュニティ全体の文化レベルと所得レベルを反映するため、これも判断材料になる。そして、ジャーティ自体が職業グループを規定しているので、どんな職業をしているのかは非常に重要だ。清掃員など物理的に不衛生なものを扱う職業グループは下位に位置づけられており、宗教行事を執り行ったり文章を作成するようなグループは上位に属する。
ここで挙げたそれぞれの要素は、一つ一つは決定打にはならないが、これらを組み合わせてみると、なんとなくどの程度のレベルに所属しているかは分かるようになる。

インド民に対して、「君はどのジャーティ?ヴァルナ?」と質問をするのはなかなか間合いが難しいので、部外者である我々はやめたほうがよい。現地で働いた経験から言うと、カーストを意識しないという立場を貫くのが最も仕事がしやすい。もし「この人はカーストについて知っている」ということになると、自分が行った意思決定が差別的であるという揚げ足取りの材料を与えることになるので危険である。戦術としてあえて何も知らないという立場を装いながら、人々のパワーバランスを見抜いてやり取りするほうが賢いやり方だ。
 

互いに差別意識や行為はあるのか

インド民同士でカーストによる差別意識があるか?という点はなかなか我々外国人には実態がつかみにくい。これは観察者として彼らの本音を聞こうとしても各自の利害があるので正確な回答を妨げるからである。
デリー・ムンバイ界隈の外資系企業で働くホワイトワーカーに話を限定すると、幸いなことにインド民同士がカーストを原因としたいざこざや差別を表立って行っている話は聞かない。これは、そもそも外資系企業では、それなりの教育レベルを受けている人間同士が勤務しているということに起因している。しかしながら、そのような集団においても高位のヴァルナ・ジャーティに属している者が偉そうな態度をしている光景に遭遇することがある。こういった社員が妙に発言権を持っていたりして、周りが彼らに気を遣うという現象が起きている。

その一方で、ある一線よりも下の層に対する「冷ややかな目」、「あれは違う層の人たち」というような意識は上記のような教育を受けたホワイトカラーの人々であっても、彼らの会話や日常の一コマの中で感じる時はある。インド共和国では、産業法によって「ワークマン」という低賃金で働く所謂ブルーカラーに属する人々が定義されている。これらの単純労働を担っているのは、結果的にカースト的に低い層に属する人間が圧倒的多数になる。そのような人々に対しては、ホワイトカラーの人間は露骨に高圧的な態度を取ったり、そもそも挨拶すらしない場合もある。

このような現実は、全く前近代的で異質な文化に見えるかもしれない。しかしながら、日本においても職業や宗教的概念をベースにした色眼鏡というものは存在していて、「職業に貴賤あり」といった考え方はなにも珍しいことではない。職業種別によらず低賃金労働者や単純労働者を馬鹿にする風潮もどこにでも存在する。
その中でもなお、インドが持つ特殊性は何か?と言えば、21世紀の現代においても、その見方を自己否定せずに当たり前として社会が受けとめ続け、それが自宗教・アイデンティティと一体不可分なのでやめることができないという点である。外国人に尋ねられた時にはインド民も近代人としての振る舞いをしたいためか、階層社会に意識を否定することがあるが、次に述べるように本音のところでは伝統的価値観を非常に尊重している。
 

本音がでる結婚

カースト意識が露骨にでるのは冠婚葬祭、特に結婚である。この行事には複数の世代が関り、失敗が許されないので、カースト意識に関するインド民の本音を垣間見ることができる。最近は異なるカーストとの結婚も家族に許容されるようになったが、病院やショッピングセンター、イベント会場など、インド民ファミリーをまとめて観察できるような状況で彼らを見ていると、待ったく離れたグループ間で結婚したようなカップルは珍しく。顔つきや肌の色や体格など、カップルが同じような身体的特徴を持っている。現在のインドでは、異なるカーストで恋愛することもあるが、結婚に至っては、親族の介入や、どのような子供がほしいかという点にも関わるので、近しいグループでの結婚ということになる。そのため、会社で面接をしていると、面接対象者の職業とその結婚相手の職業の領域が被ることがしばしばである。(インドでは面接で家族のことまで話が及ぶことが多い。)
 

マイナー宗教の現在地

「インド」で信仰されている宗教といえば、ヒンドゥー教であるが、イスラム王朝が12世紀にインド北部で建国されてから現在に至るまで、イスラム教がインドのもう一つのメインストリームを形成している。これら二つの宗教のみならず、各宗教の宗教行事やその風習や信仰、そして宗教グループそのものが、インド民の生態やビジネス環境に大きな影響を及ぼしているため、マイナーの宗教の実像を捉えておくことが、インド民の生活を分析・理解するためには必要である。ヒンドゥー教・カースト制度については上記である程度説明したが、ヒンドゥー教が中心に見える社会の中で、それ以外の宗教がどのような位置づけと関係にあるかも知っておかねばならない。

第二の多数派を占めるイスラム教徒が置かれている状況は経済的・政治的に厳しい。まず、人口動態と比較するとあきらかに社会の構成員として歪みがある。日系を含む外資系企業でオフィスワークをしているようなインド民にはイスラム教は多くないし、経営者やシニアマネジメントがイスラム教であるケースは極めて少ない。一方で、ZOMATO(Uber Eatsのようなサービス)で配達を頼むと、4人に一人くらいの感覚でイスラム系の名前の配達員に当たる。このような現実を見るとやはりこれらのギグワーカーをはじめとした経済的に下層な方向にイスラム教徒の就業者の中心がずれている事実を感じることができる。政治の面でも、2024年現在の政権与党であるBJPはイスラム原理主義政党なのでイスラム教徒への敵対感情を人々が持つことに対して強くとがめることもない。それなりに高い教育を受けたヒンドゥー教のインド民の友人の中にも、恥ずかしげもなく「イスラム教徒は野蛮で暴力的だから嫌いだ」と言うような者もいる始末だ。

マイナー宗教の中でビジネス上忘れてはいけないのは、シーク教とジャイナ教である。シーク教の割合は、インド共和国の全人口の約2%程度、ジャイナ教に至っては1%未満であるが、その割合が信じられないほど、多くのビジネスシーンで彼らは登場する。シーク教はターバンを巻いているその姿が特徴的だが、現代化したシーク教徒は必ずしもターバンを巻いていないケースもあり、見わけも付きにくい。ジャイナ教は見た目の特徴はほとんどないので、我々日本人が見ても誰がジャイナ教なのかよく分からない。Jainというファミリーネームを持っている者が多く、会計士や金融屋、商売人として成功している。新興財閥のアダニもジャイナ教の家系である。

日本や他の先進国ではありえない話だが、インド民は「宗教採用」をすることが企業倫理的に問題だとは思っていない。自分と同じ宗教・民族の人物を優先的に採用したり、経営幹部に引き上げるたりする。前述の通りカーストや宗教はある程度名前で判断できてしまうし、食生活も異なるので本人に聞くまでもなく人々は宗教をぶら下げて仕事をしているため、特別なスクリーニングしなくても同じ宗教・民族を選んで雇用することは極めて容易である。自分がビジネスオーナーであれば、自分の考えや習慣と近い人間を採用したほうが信頼に足りるし、仕事を効率的に行うことができるので合理的であると彼らは思っている。特にマイノリティ宗教は結束力が高く、私個人としてもオーナーから各部門の幹部まで同宗教で占められている会社を相手にしたこともあるし、人事担当者が明らかに自身と同じ民族を優先的に採用しようとしている場面にも出くわしたこともある。

今回は三つの投稿に分けて、自分の中でももやもやしていた現代インドの輪郭を明らかにする作業を試みた。駐在の身としてはこれらは広く共有されるべきだと思うが、踏み込みにくい部分が多く、企業の研修などでは到底解説が及ばない。この投稿が少しでも新たな駐在員に助けになればよいと考える。



 

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