内輪の論理は世間でボコボコにされるよというお話。
温泉旅館の社長、呑気すぎねえか?
福岡県の老舗温泉旅館が温泉のお湯を年に2回しか入れ替えず、レジオネラ菌を大発生させて県からド叱られたということがニュースになっている。
県の条例では週に一回入れ替えろということになっていたようだが、社長が盆と暮れだけやりゃええわと横着したため、日本中で大炎上となり、昭和天皇やヘレンケラーが泊まったとされる旅館の信用は地に落ちてしまったのである。
それにしても印象的なのは、旅館の社長の異様な呑気さである。記者会見では以下のようなコメントを述べ、危機感のなさを浮き彫りにしてしまった。
内輪の論理は世間に叩かれる
ここから感じられるのは「内輪の論理」である。「どうせ大したことにはならないんだからお湯の入れ替えなんて面倒なことしなくてもいいし、県にはテキトーに報告しときゃええでしょ」ということだ。
それは社内では通用しても、世間に広まったとき通用しない。
この社長は、自分の論理を世間がどう見るのかということについて、大炎上したあとになっても、あまりピンと来ていないのかもしれない。
内輪の論理な政党はあっていいけども
「内輪の論理」といえば、先日騒ぎになったのが共産党である。
党首の公選制を訴えていた元幹部の男性を同党執行部が除名処分にしてしまい、普段左派的な論調を乗せる朝日新聞や毎日新聞までが批判に回るという大炎上をかましてしまったのである。
共産党の言い分は、「民主集中制」に反するというものだ。「党の意思決定は、民主的な議論をつくし、最終的には多数決で決める」「決定されたことは、みんなでその実行にあたる。行動の統一は、国民にたいする公党としての責任である」のだそうである。
ただ、それを額面通り受け取る大衆は少ないだろうと思う。「結局は上意下達の独裁で、党内民主主義なんてないんじゃねーの」という話になってしまうからだ。共産党の主張もある意味、「内輪の論理」と言えるのではないか。
もちろん、そういう主張をする政党はあってよい。日本は言論の自由がある国だからだ。ただ、そういう政党が有権者から支持を集め勢力を拡大できるかどうかはまた別の問題だろう。
共産党が内輪の論理を脱却する道を行くのか、それとも内輪の論理にこもるのか、非常に興味深い。個人的には後者だとは思うが。
マスコミは「内輪の論理」キング。
ネット上で「内輪の論理」がやり玉に上がりやすい対象と言えばマスコミである。
先日Twitter上でとある記者が、「専門家に取材をするとすぐゲラ(校正刷り)を見せろと言ってきて困る。新聞には編集権があるのだ。記者を信用しろ」みたいなことを発言し炎上していた。
どういうことかというと、学者や医師・弁護士といった専門家の皆さんは、記者の取材を受けたとき、自分の喋った専門的内容が正確に理解されているかどうかを非常に気にするのである。
もし記者がきちんと理解しておらず、間違った内容が記事になったら、「コイツ専門家のくせに間違ったコメントしてるぞ」ということになり、その専門家の信用問題に発展してしまうからだ。
かくして、先程の記者の発言は、「お前ら記者がきちんと理解せずテキトーなこと書いてるのが悪いだろ」と専門家の皆さんの不興を買い、総叩きにあうことになった。
杓子定規な考え方は「内輪の論理」になりやすい
確かに、「新聞には編集権があるのだ」という話、理解できる部分もある。過去にメディアが検閲や言論の不当な介入を許したことへの反省からきているのだという主張はうなずけるところもあろう。
しかし、先程述べた通り、誤った内容が記事に掲載されれば取材を受けた専門家は信用を失ってしまう可能性がある。編集権は果たしてそれを強引に押し通すことを免責する特権なのだろうか。さすがにそうではあるまい。
実際のところは、取材対象者と記者の間で掲載内容をきちんと詰めることがやはり大事だろう。社会的な意義があり、取材対象者とは食い違うがどうしても記者の意向で載せたいものがあるときに、最終手段として編集権を発動し、記者やマスコミ企業の全責任のもと載せる…あたりが妥当な落とし所ではないかと思う。
先程の記者の失敗は、杓子定規に「編集権」を振りかざしすぎたことにあるだろう。あまりにも自分の側の利益のみを見ているように取られたため、炎上することになったのだと思う。
マスコミに限らず、杓子定規な考え方はたやすく「内輪の論理」に変化し、世間から白い目で見られる元になりやすい。気をつけたいものである。