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【ネタバレ注意】beautiful friendshipの秘密《中編》─ジャン・コクトーと “L’Éternel retour” の思想から読み解く『TENET テネット』

 前編にあたる下記記事では、クリストファー・ノーラン監督作『TENET テネット』(以降『TENET』)の主人公(名もなき男)に、アメリカを代表する詩人ウォルト・ホイットマンの存在が反映されていると説明した。

【ネタバレ注意】beautiful friendshipの秘密《前編》─ウォルト・ホイットマンとジャン・コクトーから読み解く『TENET テネット』
https://note.com/include_all_8/n/n09e92f727a1e

 今回はニールについて重点的に掘り下げた上で、beautiful friendshipの謎に迫りたい。

ニールと守護天使ウルトビーズの関係性

『TENET』には数多くの引用元作品群が存在するが、特にジャン・コクトーの『オルフェ』(戯曲版発表1925年、映画公開1950年)は、ストーリーの下敷きとして用いられている。
 ニールは、『オルフェ』に登場するウルトビーズを基礎としたキャラクターだ。
 コクトー作品におけるウルトビーズというキャラクターが、実は曲者なのである。ウルトビーズは都度、立場や気質を変え、コクトーの作品に繰り返し現れる。主だった作品は下記の三作品。

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■長詩『天使ウルトビーズ』(1925年発表)
 ウルトビーズは詩人(人間)の守護天使だが、人間らしさを身に着けて詩人を愛すようになり、罰せられて堕天使になる。1923年に急逝した、レイモン・ラディゲのイメージが重ねられていると言われている。

■戯曲『オルフェ』(1925年原稿完成、1926年初演)
 ガラス屋に擬態した守護天使。オルフェとユリティスの夫婦を護る。戯曲は映画『オルフェ』の原型にあたる。

■映画『オルフェ』(1950年公開)
 オルフェの “死” の部下である運転手。オルフェとユリティスの夫婦を守護しがち。そして何故かオルフェとの相棒感満載。ユリティスを愛しているかどうか聞かれ、“Oui” と答えるが…。
============

 三者三様のウルトビーズだが、共通点は、特定の人間を守護しているということだ。
『TENET』ではニールが主人公をひたすら守っているが、それはウルトビーズ由来の気質なのである。

 ここで注目したいのは、ニールがタリスマンをつけているバックパックと、街中のシーンなどで首に巻いているストールだ。
 戯曲『オルフェ』でウルトビーズの服装は、次のように指定されている。

 ウルトビーズは、労働者の紺の菜葉服を着て、首のまわりに地味な色合いの絹の襟巻、白いエスパドリルを履いている。日やけした顔、帽子は被らず、職業用の硝子屋の背負台を絶対に背中から離さない。

『ジャン・コクトー全集 第七巻 戯曲』堀口大學・佐藤朔(監修)、p27、東京創元社、1983年

 ウルトビーズの首には、絹の襟巻が巻かれている。さらにウルトビーズのガラス板を載せた背負台は、天使の羽の代わりとなっており、舞台上でガラスが光を反射する効果を狙っていた。『オルフェ』では戯曲・映画共に、鏡が生と死の境界・出入口として用いられており、『天使ウルトビーズ』にも鏡の描写がある。映画『オルフェ』では、大きい鏡だけでなく、車のバックミラーなどの小さい鏡からも死が訪れる危険性がある。ウルトビーズは、各作品で立場は違えど、生と死の仲介役なのだ。
 そして、『TENET』のニールではこれらが、下記のように置きかえられている。

■ウルトビーズのガラス板を載せた背負台⇒ニールのタリスマンをつけたバックパック
■ウルトビーズの絹の襟巻⇒ニールのストール

 上記のような要素は、長詩『天使ウルトビーズ』や映画『オルフェ』にはない。
 つまり運転手の役割など映画『オルフェ』からの引用部分もあるが、ニール単体の性質としては、戯曲『オルフェ』のウルトビーズに近いということが示唆されている。

 そして実は、戯曲『オルフェ』の1927年再演時には、ジャン・コクトー自身がウルトビーズを演じていたのである。下記のリンク先で、その時の写真を見ることができる。
https://www.alamyimages.fr/photo-image-jean-cocteau-dans-orphee-1926-27-37022013.html

 長詩『天使ウルトビーズ』でのウルトビーズは、コクトーではなく早逝した彼の恋人レイモン・ラディゲのイメージで、「信じ難いほどの残忍さ」「獣的な少年」などと表現され荒々しく、「僕」との関係の描写にもエロティックさが漂っていた。

   2

天使ウルトビーズ、信じ難いほどの
残忍さで、僕に跳びかかる。どうか
そんなに激しく跳びつかないでくれ。
獣的な少年よ、
高い背丈(せたけ)の花よ。
おかげで僕は床(とこ)に就いた。とんでもないことを
してくれる。僕のポイントはここだ、触ってごらん。
君にもあるか?

『ジャン・コクトー全集 第一巻 詩*』堀口大學・佐藤朔(監修)、p350-351、東京創元社、1984年

 しかし戯曲『オルフェ』のウルトビーズは、荒々しさを失い、その代わりに主人公オルフェとユリティスを守護する者として立ち回る。
『知られざる者の日記』の「詩の誕生」の項で、コクトーは戯曲『オルフェ』について、下記のように書いている。

 もともとわたしの戯曲『オルフェ』は聖母とヨゼフの話だった。天使(見習い大工)のおかげで彼らが耐えた悪しき噂、説明できない妊娠を目のあたりにしたナザレ人たちの悪意、村人たちの悪意が夫婦に余儀なくさせた逃亡、などなどの話となるはずであった。
 この筋立ては由々しき誤解を招きそうで、断念した。それをオルフェのテーマに置きかえ、詩の説明できない誕生が神の子の誕生に取って代わることとなった。

『ジャン・コクトー全集 第六巻 評論***』堀口大學・佐藤朔(監修)、p242、東京創元社、1985年

 当初、神の子の誕生物語として構想されていたものが、詩の誕生物語に変更されていたのだ。
 また戯曲『オルフェ』の第十二場では、訊問されるウルトビーズの代わりに、首だけになったオルフェが彼の正体を答えている。

警部 出生地を申立てた以上、よもや、姓名は隠しはすまいな。何と申すか、その方、名は……。
オルフェの首 ジャン。
警部 ジャン何じゃ?
オルフェの首 ジャン・コクトー。

『ジャン・コクトー全集 第七巻 戯曲』堀口大學・佐藤朔(監修)、p60、東京創元社、1983年

 戯曲『オルフェ』のウルトビーズの正体が、コクトーという詩人であったことを念頭に置く。そして戯曲のラストにあたる第十三場にて、平穏を取り戻し食卓を囲むオルフェ、ユリティス、ウルトビーズの三人に注目したい。ウルトビーズは当初オルフェ宅では部外者の立場だったはずなのだが、この場面では完全に家族の一員のようになっている。ウルトビーズがコクトーであるならば、オルフェはコクトーの父、ユリティスはコクトーの母とも受け取ることができる。

 そしてコクトーは、自ら生み出したキャラクターであるウルトビーズを演じたことで、彼と完全に一体化した。
 つまりウルトビーズの立ち位置を通じて、ニールにはコクトーの存在が投影されている。ニールの鍵開けや車の運転の巧みさ、物理学の知識を持ち合わせていることなど器用で頭の回転が早い点は、コクトーが詩作だけでなく、小説、戯曲、評論、絵画、映画などさまざまな分野で多才に活躍しながらも、一貫して詩人という肩書でそれらに取り組んだことと繋がっていく。

 このことを踏まえると、『TENET』は主人公とニール≒ホイットマンとコクトーという、現実世界では会うことのなかったクィアなセクシャリティの詩人二人の対話であり、かつ二人の詩人たちの作品がもつイメージや、その他の関連作品群のイメージの融合ともとれるのである。
 二人の詩神による、神々の黄昏。

 アメリカ人のホイットマンは1819年5月31日生まれ、1892年3月26日没。フランス人のコクトーは1889年7月5日生まれ、1963年10月11日没で、ホイットマンが死んだ時はまだ2歳だった。しかし後年、コクトーはホイットマンに、執拗に関心を持つようになる。
 これらの認識を経ることで、ニールの名前の由来やニール=マックス説など、多くの謎へのアクセスが可能となる。

生命と線(line)─ニールの名前の由来

 ニールの名前の由来については諸説あるが、ニール≒コクトーだと仮定すると、コクトー周辺の要素を用いて命名されたと考えられる。
『TENET』のテーマソングとなっている、トラヴィス・スコット “THE PLAN” の歌詞に、line という単語が頻出していることに注目したい。歌詞は下記を参照のこと。

【ネタバレ注意】Travis Scott “THE PLAN” 和訳─『TENET テネット』の真意とは
https://note.com/include_all_8/n/n8366391c7bb3

 「beautiful friendshipの秘密《前編》」の下記の項でも説明したが、line という単語はNeil(ニール)のアナグラムになっている。

《余談2》crystalline tower の中にいる男
https://note.com/include_all_8/n/n09e92f727a1e#eNtf4

 なぜニールが line と表現されているのか。
 実はジャン・コクトーのエッセー『存在困難』(もしくは『ぼく自身あるいは困難な存在』)に、「線について」という項がある。

    線について

 誤解があってはならないが、わたしを導く関心事は美学の領域に属するものではない。それはただ線(*)に関することなのだ。
 いったい、線とは何か。それは生命にほかならない。一本の線は、その行程の各点において生きていなければならず、それゆえ芸術家の存在がモデルのそれ以上にそこに厳然と感じられるように、生きていなければならない。群衆はモデルの線をもとにして判断を下し、画家の線がそれ自身の生命を獲得しさえすればモデルは画家の線に席を譲って消えてもいいのだ、ということを理解しない。わたしがここで言う線とは、個性の持続という意味である。なぜなら、線はマチスあるいはピカソにおけると同程度に、ルノワール、スーラ、ボナール、等、それが筆触(タッチ)や点描のなかに溶解しているように見える人たちの作品にも存在するからだ。
 文学者の場合、線は内容にも形式にも優先する。それは彼が集め列べる語の一つ一つにつらぬき通る。それは、耳にも眼にも知覚されない連続した主調を形づくる。それは、いわば、魂の文体であり、もしこの線がその本来の姿で生きることをやめ、唐草模様(アラベスク)しか描かないならば、魂は不在であり、文章は死ぬ。それだからこそわたしは、芸術家にとっては心性の陶冶(プログレ)だけが真に価値のある進歩(プログレ)だと執拗に繰り返すのだ、──いまも言う通り、魂の燃焼が衰えるやいなや、この線はたるむのだから。心性の陶冶(モラル)とお説教(モラル)とを混同してはならない。心性の陶冶とは、自らを緊張させること以外のものではない。

(中略)

 われわれは、ある音楽なり、絵画、彫像、詩篇なりが、われわれに語りかける前にすでにこの線を感じとる。この線こそ、一人の芸術家が可視の世界と縁を切ることを決意し、彼のもろもろの表現形式を彼の意に服従させ得たときに、われわれを感動させるものなのだ。

(中略)

 全体として、わたしの諸作品には一本の闘争の線がつらぬいている。たとえわたしが敵の武器を奪ってわがものとしたことがあるとしても、わたしはそれを戦闘のさ中で獲得したのだ。すべて武器の価値はその成果によってのみ判断される。敵たちはそれをもっとうまく用いればよかったのだ。

===
(*)部分訳注
四四八頁 線 この原語 ligne は、線、路線、戦線、筋、血統、規準、方針、またたとえば、この章の最後の場合のように身体の輪郭(シルエット)など多くの意味をもつが、コクトーはこの章ではかなり特殊な意味に用いているようである。しかし一面からいえば、その場その場で上記のさまざまな意味を付与する言葉の遊戯(しゃれ)に面白さもあるので、ただ「線」と訳した。

『ジャン・コクトー全集 第五巻 評論**』堀口大學・佐藤朔(監修)、p448-449、p626、東京創元社、1985年

 この『存在困難』でだけでなく、コクトーは『ジャン・コクトー/知られざる男の自画像』(1983)というエドガルド・ゴザリンスキー監督のドキュメンタリー映画でも、線の重要性を訴えている。そしてコクトーの描く絵は、面の塗りよりも、輪郭線が強調されているものが数多くある。
 フランス語のため、線は ligne となっているが、英語にすると line。line をアナグラムして Neil としていると推察される。
 ニールは線であり、かつ生命なのである。このことは考察前編の「ジャン・コクトーの『オルフェ』と『TENET』─登場人物相関図の比較」で書いた、 “Song of Myself” 第49篇の「死」「屍体」「生命」の話にもリンクする。
 フランス語の lien(英語のlink、tie、bond、connectionと同義)⇒Neil 説もあるそうだが、おそらく名前を考える際には lien も意識していただろう。lineと「生命」の例のように、クリストファー・ノーラン監督は脚本を書く上で、異なる作品や人物の要素を巧みに繋ぎ合わせていったと考えられる。これは後編で説明するが、『TENET』に非常に多くの引用元作品群が存在することとも関連してくる。

『TENET』における「見る」ことの重要性─交錯する視線

『TENET』で、各キャラクターが視線を送るカットの多さに気づいた方も多いだろう。
 例えば主人公は、初めて逆行する前はミッションのこともあって色々な人に視線を向けがちだが(ターゲットに近づく上であまり気にする必要のなさそうな、登場時間の短いボルコフを見ている回数も多い)、初めての逆行後はニールに視線を送る描写が多い。
 またニールは終始一貫して主人公を見ているどころか、見つめている、凝視していると表現せざるを得ない。
 会話しているときに見ているのはコミュニケーションなので除外してもよいが、隠れて見ていることや、離れたところから見ていること、互いに視線がかち合うことが重要なのだ。
 見ている対象は、整理すると下記のようになる。

主人公…キャット、ボルコフ、セイター、ニール、マックス
ニール…主人公、キャット(タリンでの逆行直前など)
キャット…マックス、謎の女(自分)、セイターの船にいるルーベンスの絵をトレイに入れて持ってきた赤シャツの女性
セイター…キャット、主人公
ボルコフ…主人公、セイター

 これは一体、何を意味しているのか?
 実は「見る」ことの重要性については、戯曲ならびに映画『オルフェ』でも演出されている。
 死んでしまった妻ユリティスを生き返らせ、戯曲では死の国、映画ではゾーンから現世に連れ戻したオルフェだったが、彼女を見ることを禁じられてしまう。見ると彼女は死んで消えてしまうため、オルフェ宅にウルトビーズが居座り、オルフェが彼女を見る危険を回避させる役割になる。映画版のこの辺りのシークエンスでは、ウルトビーズの存在感が際立つ。

 下記の記事にも少し書いていたが、『オルフェ』はヘテロセクシュアルな恋愛を描いていると見せかけて、同性愛描写のサブテキスト(作品の登場人物などが台詞や行動の裏に隠した、言外の意味)を持っていると複数の研究者からの指摘がある。特に映画版ではそれが強調されており、ウルトビーズの描写も戯曲よりそういったものが増している。戯曲とは違い、映画におけるウルトビーズのコクトーとの繋がりは、完全にではないものの薄れている。

【ネタバレ注意】『オルフェ』から『TENET テネット』へ─価値観のアップデート
https://note.com/include_all_8/n/n1a7c56d26899

 映画『オルフェ』についてコクトー自身が書いたエッセイが、The Criterion Collectionに掲載されている。

I wanted to touch lightly on the most serious problems, without idle theorizing. So the film is a thriller which draws on myth from one side and the supernatural from the other.

I have always liked the no man’s land of twilight where mysteries thrive. I have thought, too, that cinematography is superbly adapted to it, provided it takes the least possible advantage of what people call the supernatural. The closer you get to a mystery, the more important it is to be realistic. Radios in cars, coded messages, shortwave signals and power cuts are all familiar to everybody and allow me to keep my feet on the ground.

(中略)

The three basic themes of Orphée are:

1. The successive deaths through which a poet must pass before he becomes, in that admirable line from Mallarmé, tel qu’en lui-même enfin l’éternité le change—changed into himself at last by eternity.

2. The theme of immortality: the person who represents Orphée’s Death sacrifices herself and abolishes herself to make the poet immortal.

3. Mirrors: we watch ourselves grow old in mirrors. They bring us closer to death.

The other themes are a mixture of Orphic and modern myth: for example, cars that talk (the radio receivers in cars).

Orphée is a realistic film; or, to be more precise, observing Goethe’s distinction between reality and truth, a film in which I express a truth peculiar to myself. If that truth is not the spectator’s, and if his personality conflicts with mine and rejects it, he accuses me of lying. I am even astonished that so many people can still be penetrated by another’s ideas, in a country noted for its individualism.

While Orphée does encounter some lifeless audiences, it also encounters others that are open to my dream and agree to be put to sleep and to dream it with me (accepting the logic by which dreams operate, which is implacable, although it is not governed by our logic).

I am only talking about the mechanics, since Orphée is not at all a dream in itself: through a wealth of detail similar to that which we find in dreams, it summarizes my way of living and my conception of life.

Orpheus. The Criterion Collection
https://www.criterion.com/current/posts/13-orpheus

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和訳

私は怠惰な理論化をせずに、最も深刻な問題に軽く触れたかったのです。つまり、この映画は、一方の側から神話を、もう一方の側から超自然的なものを引き出すスリラーです。

私はいつも、謎が繁栄する無人地帯(ノー・マンズ・ランド)の黄昏が好きでした。シネマトグラフィーは、人々が超自然と呼ぶものを最大限に活用しない限り、それに見事に適合していると、私も思いました。ミステリーに近づくほど、現実的であることが重要になります。車内のラジオやコード化されたメッセージ、短波信号、停電はすべて誰にでもなじみがあり、足を地面につけておくことができます。

(中略)

『オルフェ』の3つの基本的なテーマは次のとおりです。

1.マラルメからの一句「遂に永遠が彼を彼自身に変えるように」のように、詩人がなる前に通過しなければならない連続した死によって、遂に永遠が彼を彼自身へと変えました。

2.不死のテーマ:オルフェの “死” は、自分を犠牲にし、自分を破壊して詩人を不死にします。

3.鏡:私たちは自分たちが鏡の中で年をとるのを見ます。鏡たちは私たちを死に近づけます。

他のテーマは、オルペウス教と現代の神話が混ざり合ったものです。たとえば、話す車(車のラジオ受信機)などです。

『オルフェ』はリアルな映画です。または、より正確に言えば、ゲーテの現実と真実の区別を観察することで、私に特有の真実を表現する映画です。その真実が観客のものではなく、彼の性格が私のものと食い違い、それを拒否した場合、彼は私が嘘をついていると非難します。個人主義で有名な国で、まだまだ多くの人が他人のアイデアに侵入していることに驚いています。

『オルフェ』の上映中は、気の抜けた聴衆に出会う一方で、私の夢に開かれ眠りにつくことや、私と一緒に夢を見ることに同意する他の聴衆にも出会います(夢が機能する論理を受け入れるのは不可解であるが、それは支配されていない私たちの論理です)。

『オルフェ』はそれ自体が夢ではないので、私は技巧について話しているだけです。夢で見られるものと同様の豊富な詳細を通して、それは私の生き方と私の人生の概念を要約しています。

 コクトー自身、意図して映画『オルフェ』に真実(サブテキスト)を埋め込み、かつ夢を見ているときのように、豊富なそれらの情報を機能させていると説明している。

 映画『オルフェ』ではユリティスを見ることができないオルフェを、ウルトビーズが助け続ける。戯曲でもその傾向はあったが、映画の方がさらに長時間にわたる。結果、オルフェがウルトビーズを見る回数が多くなるのである。

 映画版のウルトビーズは、ユリティスがゾーンに行ってしまった後に裁判を受けるシーンで、「彼女(ユリティス)を愛しているのか?」と問われ、「はい」と答えている。言葉の通り受け取れば、ウルトビーズはユリティスを愛していると捉えるだろう。
 しかしその前の、ユリティスがゾーンに連れて行かれる直前のシーンでは、女性の姿であるオルフェの “死” がウルトビーズに「お前 地上に残りたいのね? まるで墓穴にいるみたいよ バカな男ね」と笑いかける。
 そしてオルフェとウルトビーズとユリティスが3人で車のところにいるシーンでは、ウルトビーズはユリティスではなく、主にオルフェを観ているのだ。
 ウルトビーズが、ユリティスが去った後の地上に残りたがる理由。苦悩するユリティスに親身になりながらも、オルフェとのシーンでは相棒のように振る舞い、彼に触れ合う描写が異様に多い理由。そして、ユリティスを見ることができないオルフェの家庭に介入する理由。ウルトビーズは、口ではユリティスを愛していると言いながらも、実はオルフェを愛していると読み取れるのだ。

 この、見ることを禁じられてしまうタブーについては、ジークムント・フロイトが『トーテムとタブー』で、複数の民族におけるタブーの例を挙げた上でまとめている。見ることを禁じる=二人の間に親交が結ばれることを排除する、という意図がある。何故ここでフロイトの名を出したのかは、後ほど詳しく説明する。

 ゾーンに初めて行く前のオルフェは、ユリティスという妻がいながらオルフェの “死” である女性に愛を囁いたり、喋る車を気に入り過ぎて四六時中車のところにいるなど、心が揺らいでいた。しかも喋る車の朗読が男性のセジェストによるものであることから、彼の性的志向はバイセクシュアルであると受け取れる。
 しかし、ゾーンからユリティスを連れ帰ってきた後のオルフェは、ユリティスを見ることを禁じられている。オルフェの “死” である女性もゾーンにいて不在のため、現世の身近なところではウルトビーズと親交を結ぶか、もしくは喋る車に気を向けるしかない。女性へ愛を向ける選択肢を絶たれたオルフェは強制的に、元来持っていた同性への愛の面に向かわされているのである。

『TENET』では別段、見ることを禁じられているわけではない。しかし、登場人物たちは皆、気になる人のことを見ている。演出として、敢えて視線を強調しているのである。

「見ていることを悟られてはいけない」という心理が働いているのが主人公だ。それは彼がスパイであることも理由の一つだが、信用できない気持ち、疑いの気持ちもあるだろう。
 だがタリンの回転ドアでの初逆行直後、ニールの強い視線に動揺する主人公の描写がある。その気づきから、主人公はニールに視線を向けるようになる。キャットに対しては、初逆行以降そのような描写はぐんと減る。この視線の方向の変化は『オルフェ』のオルフェと同様で、登場人物が多い映画版により近い。ただし、主人公がホイットマンの化身であることや、キャットとの関係性の描写から、両性愛者であるオルフェと違って、主人公は同性愛者である可能性が非常に高い。

 ニールは説明するまでもなく、『オルフェ』のウルトビーズのように最初から最後まで、主人公をずっと見守っている。これはコクトーがホイットマンに執着していたことを表現していると考えられる。ニールは検証窓越しでも、車のバックミラーなどの鏡越しでも、主人公を見ることを怠らない。スタルスク12でニールは、車のサイドミラー越しに主人公とアイヴスの安全を確認するが、鏡を覗くシーンに死の危険性があることを念頭に置けば、このシーンを観るときの印象も変わってくるだろう。だが、キャットを見ていた理由は?

 キャットは執着心からマックスを見、憧れ(自己実現の欲求)から謎の女(自分)を見ている。そしてセイターのことは極力見ないようにしている。船の部屋の中でセイターに威圧されても、目蓋を閉じて見ようとしないので、セイターは必死になって “Look at me and understand” と叫ぶ。しかしキャットが、赤シャツの女性の顔をチラチラ見ていた理由は?

 そして意外にも、セイターとボルコフが主人公を見ていることにも注意したい。一体これは、なにを表しているのか?

 それを考察する前に、アルゴリズムの謎を解明したい。

アルゴリズム─9つの爆弾からなるGEOMETRICALLY COMPLEX BAR

『TENET』のアルゴリズムは、9つの爆弾からなる、世界全体を逆行させるブラックボックスと説明されている。これを起動することにより、時間の向きが代わって世界が逆行し、アルマゲドンが起こる。
 劇中では、アルゴリズムを未来に送ろうとするセイター陣営と、それを阻もうとする主人公陣営との攻防が描かれている。
『TENET』のスクリプト、スタルスク12地下シーンのト書きで、アルゴリズムがどのように説明されているか見ていただきたい。

INT. TUNNEL, STALSK-12 — CONTINUOUS
The Protagonist watches Volkov pick up a BLACK, METAL, GEOMETRICALLY COMPLEX BAR . . . the algorithm.

Christopher Nolan. TENET THE COMPLETE SCREENPLAY (pp.168). Faber & Faber Ltd. 2020

 アルゴリズムは “GEOMETRICALLY COMPLEX BAR(幾何学的に複雑な棒状のもの)” と表現されている。
 注意すべきは、complex という単語が使われている点だ。
 complex は、別のシーンで主人公が言う台詞としても出現している。以下は、主人公が招待されて出向いた、セイターのディナーのシーン。

SATOR
There’s a walled garden up the road. We‘re going to take you there, cut your throat, not across, in the middle, like a hole. Then we take your balls, stuff them in the cut, block the windpipe.

PROTAGONIST
Complex.

Christopher Nolan. TENET THE COMPLETE SCREENPLAY (pp.72). Faber & Faber Ltd. 2020

 主人公の言う ”Complex.” は、字幕では「複雑だな」となっている。しかしこの単語は心理学用語で、「コンプレックス」とも訳すことができる。

精神分析で使われる概念。無意識のなかに抑圧され,凝固し,そのために意識された精神生活に影響を与え,ときに強い感動を誘発する観念の複合体をいう。さまざまな解釈があり,性的抑圧を重視する古典派のほかに,優越感や劣等感を重視する学派などがある。エディプス・コンプレックスやエレクトラ・コンプレックスは性心理の発達にかかわるひずみであるから,単に両親との関係にとどまらず,多くの場合,対人関係の障害を伴う。コンプレックスは日常生活のなかにも現れるが,また神経症の症状を形成する。

コトバンク「コンプレックス」 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
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 自分自身の父親を失って深刻な神経症に陥ったフロイトFreud,S.は,自分の夢を要素分析していくことで,心の中に父親を殺して母親と近親相姦的な関係を結ぶという願望を中心として,自分の中に抑圧していた複雑に絡み合った感情作用としてのコンプレックスを発見した。これを彼はエディプス・コンプレックスOedipus complexとよんだ。

 ヒステリーの治療から始めたフロイトは当初,患者たちが外傷体験を実際に体験していて,それが原因で神経症になると素朴に考えていた。それが心の中に共通のパターンをもつ内的な組織があると確信するようになったのは,エディプス・コンプレックスを発見して,それが多くの患者たちに共有されてきたものと考えたからである。その意味でエディプス・コンプレックスを神経症の中核と考え,他のコンプレックスをその亜種とした。さらに彼はこれを性心理発達のモデルの中に組み込んで,口唇期,肛門期を経て,男根期とエディプス期が幼児期の発達の統合的な役割をするものだと考えた。神経症は,このエディプス期における葛藤が分離の不安や去勢の不安から強くなり,それを抑圧することがもともとの出発点になっている。またフロイトはこのコンプレックスの起源を文化人類学や歴史に求め,系統発生的な人類の進化の中で親族構造の形成に重要な役割を果たしてきたものとみなした。つまりコンプレックスの着想は,フロイトを単なる外傷説から,より複雑な内的世界の探索への道に導いたのである。

コトバンク「コンプレックス」 最新 心理学事典の解説
https://kotobank.jp/word/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-67579

 ジークムント・フロイトの提唱したエディプス・コンプレックスの過程では、母親の愛情を得ようとして父親に敵意を持つ男児が、敵意の報復として去勢されるのではないかと恐怖を抱く。この恐怖がきっかけとなり、母親に対して抱いた衝動が抑圧され、同一視によって父親のようになろうとする──この流れでエディプス・コンプレックスは克服される。父を殺し母と結婚した、ギリシャ神話のエディプス(オイディプス)王に擬えて命名されている。

 クリストファー・ノーラン監督が脚本を書いている作品は、傾向としてフロイトへの批判と思われる描写が含まれていることが多い。『フォロウィング』や『インセプション』に見られる、大事なものを金庫などの箱物にしまう傾向がある点も、フロイトへの皮肉と考えられる。フロイトは『精神分析学入門』第二部 夢、第十講 夢の象徴的表現で〈箱〉〈小箱〉〈荷箱〉〈船〉や〈宝石箱〉などが女性の○○(*筆者注:申し訳ありません自主規制しました)の象徴だと書いている。
『TENET』でも全体的にその傾向があり、コンプレックスの件もそれに含まれる。セイターの発言内容は、厳密には去勢ではないし、主人公も彼の息子ではない。しかし、エディプス・コンプレックスの裏返しともとれる。コンプレックスを抱き、問題を抱えているのはセイターなのである。

 上記を認識した上で、アルゴリズムに立ち戻る。アルゴリズムがコンプレックスを具現化したものだとすると、それを構成する9つの爆弾は、フロイトが提案した9つの防衛機制を意味すると推測される。

 人間の精神が,苦痛を伴う考えや感情を隠しておく(意識化しない)ことができるという発見は,Freud の精神病理研究の初期になされた。その後,防衛の機能は再検討されて(Freud,1926),防衛は自我機能であると概念化された。更に,さまざまな防衛機制がこの自我機能を遂行し,その目的は常に,自我を本能的欲求から守ることであるとされた。Freud によって提案された防衛機制は,昇華(逆転,自己への攻撃),抑圧,否認,投影,反動形成,打ち消し,隔離,退行,感情に対する防衛(感情の延期,感情の置き換え等)であった(Kline,1993)。

『心理学評論,Vol.42,No.3』「防衛機制の概念と測定」中西公一郎、p262、1999年
https://www.jstage.jst.go.jp/article/sjpr/42/3/42_261/_article/-char/ja/

 後年、フロイトの娘アンナ・フロイトなどによって、防衛機制は整理され、種類・分類もフロイトが提唱したものから変化している。ただ『TENET』では皮肉の矛先が、主にフロイトに向けられていることから、フロイトの提唱した9つの防衛機制であると考えられる。
 主人公がアルゴリズムのパーツを見て、プルトニウムではないことや形状などに困惑するシーンがあるが、それもそのはずである。コンプレックスという用語が広く知られる以前の、1892年に没していたホイットマンの化身である主人公が、コンプレックスや防衛機制のことを知っているわけはない。
 すなわち『TENET』では、コンプレックスが起こる過程で発生する防衛機制の概念を解体し、コンプレックスの発生を防いでいる。そして解体したそれらを隠す描写があることから、コンプレックスという概念そのものからの脱却を訴えているのである。
 これは何を意味しているのか? ここでニール=マックス説の検討に入りたい。

ニール=マックス説の肯定

 上記ならびに考察前編の「《余談2》crystalline tower の中にいる男」の内容から、ニール=マックス説を考察する。
「ニールと守護天使ウルトビーズの関係性」で、戯曲『オルフェ』のウルトビーズがコクトーであるならば、オルフェはコクトーの父、ユリティスはコクトーの母だと説明した。
 考察前編でも提示したが、『TENET』の相関図をもう一度ご覧いただきたい。

201117_TENET_相関図


 相関図をセイター中心に組み替えると、下記のようになる。アイヴスとプリヤは省略した。

201216_TENET_相関図_part2


 主人公サイドと同じく、セイターにも相棒や、『オルフェ』における馬や車にあたるトラップがいるのだ。
 なぜ主人公がトラップ扱いになっているのか。それはヨットのシーンなどセイターがキャットと主人公の三人でいるとき、キャットの方をほとんど見ずに主人公ばかり見ている事実からである。
 キャットに自分のことを見ろとあれだけ強く言っておきながら、キャットもいる場で主人公に気を取られているセイター。
 これは何を意味しているのか?

 実はジャン・コクトーの父ジョルジュ・コクトーは、1898年4月5日にピストル自殺している。コクトーは8歳9ヶ月(およそ9歳)だった。『ジャン・コクトー/知られざる男の自画像』では、コクトー自身が10歳のときと話しているが、アバウトな歳を言ったと思われる。
 父ジョルジュがなぜ自殺したのかは謎に包まれているが、『ジャン・コクトー全集 第八巻 映画 その他』の「ジャン・コクトー年譜抄」には以下のように記されている。

一八九八年(九歳)
★四月五日、父ジョルジュ・コクトーがピストルで自殺する。五十六歳であった。財政上苦境に在ったからとも、妻の不実を知ったからとも伝えられるが、真相は不明。六十五年後の一九六三年テレビ放送の対談『記念写真』で洩らした詩人の言葉「今でならもうたれひとり自殺しないような事情でしたが父は自殺したのです」。ジャン・コクトーが終生のテーマの一つとする《死》との最初の出会いであった。父の没後は、母、姉、兄とともに祖父母ルコント夫妻と生計を一つにして暮らすことになる。

『ジャン・コクトー全集 第八巻 映画 その他』堀口大學・佐藤朔(監修)、p615、東京創元社、1987年

 さらにはコクトーは半自伝的な小説『白書』(発行当初は著者は匿名だったが、やがてコクトーが書いたものだと知られた)で、主人公である「わたし」の父の同性愛傾向を匂わせている。しかしこの作品自体、脚色が多いこともあって、このことが現実の父の自殺に繋がったと考えていたのかは定かでない。

 ユダヤ人がユダヤ人を見分けるように、男色家は男色家を嗅ぎつける。仮面をつけていても見破れるものだ。わたしならどんなに無垢な本の行間からでも男色家をあばきだせると受けあっていい。この情欲は世の道学者づれが推測するほど単一なものではない。というのは、男色趣味の女性、つまり見たところ女人どうしの同性愛でありながら男のするような特殊な仕方で男を求める女たちさえいるのだし、さらに自分ではそれと悟らぬまま虚弱体質か過敏な性格のせいにして何か落着かぬ気持で一生を終える男色家たちもいるのだ。
 父はわたしとあまりにも似ているのだからこの重大な点でも一致しているはずだと、いつでもわたしは考えた。たぶん父は自己の性向に気づかず、それに落ちこむこともなく、べつな生き方をやっとの思いで生きていたのだ。そのことが人生を重苦しくしていたとは知りもせずに。あの言葉づかい、歩き方、身だしなみの微細な点などからわたしには分っていた父の性癖、それを発揮する機会はついぞ父には見出せなかったのだが、もしその自分の嗜好に気づいたとしたらさぞかし父はたまげたことだろう。父の時代には些細なことで人はよく自殺したものだ。(後略)

『ジャン・コクトー全集 第三巻 小説』堀口大學・佐藤朔(監修)、p372-373、東京創元社、1980年

『白書』では「わたし」の母が「わたし」を生んだ後亡くなったことにされており、代わりに父が生きている設定になっている。だから全てが真実とは言えないものの、父ジョルジュの自殺がコクトーの創作傾向に影響を与えてきたことは事実である。
『ジャン・コクトー全集 第七巻 戯曲』の「解題」、『オルフェ』の項に、以下のように記されている。

 オルペウス伝説は、オイディプース伝説と並んで、コクトー劇の神殿をささえる二本の柱であり、オイディプースがやがて『地獄の機械』となり、さらに『怖るべき親たち』『双頭の鷲』にまで濃い影を落すのに対し、オルペウスは映画『オルフェ』となり更に映画『オルフェの遺言』(共に本全集第八巻所収)におよんでオイディプースを吸収合体してしまうのである。(この最後のフィルムに登場するジャン・マレーのオイディプースを見よ)。

『ジャン・コクトー全集 第七巻 戯曲』堀口大學・佐藤朔(監修)、p592、東京創元社、1983年

 コクトーには『オルフェ』の流れの他に、戯曲『オイディプス王(オイディプース王)』を始めとした親子関係、親の愛を題材にした作品群がある。
「アルゴリズム─9つの爆弾からなるGEOMETRICALLY COMPLEX BAR」でも触れたが、フロイトの提唱したエディプス・コンプレックスは、ギリシャ神話のオイディプス(エディプス)から名をとっている。だがコクトーは、その学説の影響下にあるわけではなかった。
 フロイトは同性愛・両性愛を性対象倒錯(inversion)として扱い、エディプス・コンプレックスを乗り越える過程でそれらが起こると主張していた。inversionは、『TENET』では「逆行」の意味で使われている単語である。
 さらには、パラノイアの疾患発生についても同性愛が関係していると理論づけていた。

 一方で,以上ほど明確ではないにしても,後々の議論に関わる記述として以下の2点があげられる。ひとつには,フロイトがパラノイアの疾患発生について,社会的本能欲求の挫折による前述の昇華過程の再性欲化を指摘し,「昇華された同性愛から自己愛への逆戻り(傍点)」を強調していることである(前掲書,p.339,傍点原訳文通り)。いまひとつは,パラノイアにみられる世界崩壊の妄想を指摘して,そのことを周囲および外界の人々に向けられていたリビドー備給の撤回によるものと説明している箇所である。これら2点の記述は,後々に自己愛の二次性への議論に結びつく着想であるといえる。

『神戸大学大学院人間発達環境学研究科研究紀要 第2巻第1号』「自己愛(narcissism)概念の再検討に向けて ―フロイトにおける視座の展開にてらして②―」相澤直樹、p150、 2008年
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/81000818.pdf

 コクトーは『知られざる者の日記』の「目に見えないものについて」の項で、エディプス・コンプレックスにも触れつつ、フロイトを批判している。

 わたしの言う闇と、フロイトの闇とを混同してはならない。そういう闇のなかに下って行くよう、フロイトは、患者たちにすすめているのだが。フロイトが押し入ったのは貧しいアパルトマンだった。フロイトは、つまらぬ家具をいくつかと、若干のエロ写真を持ち出したにすぎない。フロイトは、異常を超越性として是認したことは決してなかった。また、偉大なる狂乱に、敬意を表したこともなかった。彼は、うるさい連中のために、告解室を作ったのだ。

(中略)

 フロイトの夢解釈は、大変素朴なものだ。フロイトにおいて、単純なものにコンプレックス(複雑)という名が与えられている。性を主要な関心事とする無為な社会は、フロイトの性的妄執にひかれることになった。アメリカの調査を見ればわかる通り、複数というものは、単数化して、でっちあげた悪徳を告白する場合でも、やはり複数のままだ。その悪徳の告白には、美徳の見せびらかしにあるのと同じ、愚かしさが見られる。
 フロイトに近づくのはやさしい。フロイトの地獄(もしくは煉獄(れんごく))は、最大多数者の能力につりあっている。わたしたちの探究とは反対に、フロイトは目に見えるものしか求めない。
 わたしが考えている闇は、それとは違う。その闇は、宝物を秘めた洞窟である。大胆さと「開け、ごま」の呪文によってのみ、それを開けることができる。医師や、神経症患者には、それを開けられない。宝物に心を奪われ、呪文を忘れるならば、それは危険な洞窟となる。
 あらゆる偉大な魂は、この洞窟、この贅沢な漂流物、湖の底のこの部屋(傍点)によって豊かになる。
 お察しの通り、性もそこにおいて一役買っていないわけではない。ダ・ヴィンチと、ミケランジェロの場合がそれを証明している。しかし、彼らの秘密とフロイトの引越し騒ぎとは無関係である(原註)。
 レオナルド作聖母像のスカートのひだに隠された禿鷹(はげたか)も、システィナ礼拝堂の青年が腕にかかえているどんぐり(傍点)採集用の袋も、どちらも天才が好む隠し場所の好例である。ルネサンス期にあっては、それらの隠し場所は、コンプレックスの産物ではなくて、教会の独裁的統治を欺こうという、いたずら好きな気持から生まれたものである。それらは、いわば途方もない冗談である。また、固定観念を表わすというよりは、画家たちが持ち続けている子供っぽさを表わすものだ。それらは、精神分析家のためのものであるというより友人たちのためのもので、そこからフロイト的結論をひき出せないのは、ルーベンスの婦人像の耳や、鼻孔のなかに、顕微鏡で発見された弟子たちの署名から、フロイト的結論を引き出せないのと同様である。
 エディプス・コンプレックスについて言えば、もしもソフォクレスが、外的な運命を信じていたのでなかったら、このコンプレックスは、ほとんどわたしたちの方向(罠を避けるという口実で、べつの罠にわたしたちをおちこませる人間の闇)に一致したことであろう。神々は、残酷ないたずらを仕組むのを好むもので、エディプスは、その犠牲者なのだ。
 わたしは、『地獄の機械』のなかで、エディプスをして、スフィンクスに勝たしめることによって、複雑かつ残酷ないたずらを仕組んだ。この見せかけの勝利は、彼の傲慢さと、スフィンクスという人物の弱さから生まれたものだ。なかばは神であり、なかばは女であるスフィンクスという動物は、エディプスに死をまぬかれさせるため、謎の解答を教えるのである。わたしの映画『オルフェ』のなかで、王女は、自由意志の罪のために罰を受けると思い込むが、スフィンクスの行動もそれと同様なものだ。神と人間の中間的存在であるスフィンクスは、神々にもてあそばれる。神々は、スフィンクスを自由に行動させると見せかけ、エディプスを救うように暗示するが、それはもっぱらスフィンクスを破滅させるためである。
 わたしは、ギリシア的観念においては、悲劇はいかにエディプスの外にあるかということを、まさしくスフィンクスの裏切りによって強調した。そういうギリシア的観念を、わたしは『オルフェ』のなかでもくりひろげてみせた。神々は最後にオルフェウスにささやいて彼の身の破滅をはかる。その結果、オルフェウスは不死となり、盲目となり、そして詩の女神(ミューズ)を奪われる。
 フロイトの誤りは、わたしたちの闇を家具倉庫のようなものとしてしまって、それをいやしめたことである。この闇は底知れぬもので、わずかにそれを開くことさえできないものなのに、それを開けてしまったことである。

原註 ニーチェふうの言い方をもってすれば、この老魔術師に対して裁判が行なわれたのだ。検事総長の役割を演じたのは、エミール・ルートヴィヒである。しかしこの裁判は、ブロイヤー博士の発見や、精神分析学者たちや、精神病医たちが達成した進歩を否定するものではない。彼ら精神病医たちは、もはや自分たち自身の病気を、患者のうちに探し求めたりせず、患者を治療しようとしている。

『ジャン・コクトー全集 第六巻 評論***』堀口大學・佐藤朔(監修)、p234-237、東京創元社、1985年

 特記すべきは、映画『オルフェ』でオルフェを演じ、戯曲『地獄の機械』公演時や『オルフェの遺言』でオイディプスを演じたのが同じ役者──ジャン・マレーだったということだ。
 ジャン・マレーと同じように、ケネス・ブラナー演じるセイターは、オルフェの役割も持ちながら、オイディプス絡みの役割も持たされている。とはいえ神話のオイディプス王ではなく、フロイトが提唱したエディプス・コンプレックスの、裏返しの問題を持つ者として。

 セイターと主人公が電話で話すシーンで、セイターが突然Egyptianやpyramidなどと言い出すことは下記ページにも書いたが、ここでホイットマンの詩にも繋がりつつ、コクトーのオイディプス関連作品にも繋がっていくのである。
《余談1》やたらと詩を繰り出してくる男、セイター
https://note.com/include_all_8/n/n09e92f727a1e#Dw3un


 ニール≒コクトーを前提とし、仮にニール=マックスとした場合、

■オルフェの立ち位置であるセイター≒コクトーの父
■ユリティスの立ち位置であるキャット≒コクトーの母

 という図式が完成する。
 キャットにピストルで撃たれる前、セイターが自殺しようとしていたことから、コクトーの父の化身として設定されている可能性が濃厚となり、前者は正であると推測される。そして前者が正であるならば、後者も正であると推察されるのである。
 よってニール=マックスである可能性は非常に高い。
 上記が正しければ、ニールがキャットに向けていた視線は、母に対するものとして説明がつく。

 ニールを演じるロバート・パティンソンの顔は眉毛が目立っており、若い頃のジャン・コクトーに印象が似ている。
 ニールがコクトーと違って金髪になっているのは、映画『悲恋(原題:L’Éternel retour)』(1943)でのコクトーの演出を参考にした可能性がある。コクトーは不可能の愛の絆を掲示するため、主演のジャン・マレーとマドレーヌ・ソローニュの髪を金髪に染めさせた。ニールとキャット、そしてマックスを同じ金髪にすることで、愛の絆を表現したと考えられる。
 ニール、キャット、セイターが3人ともウォッカを好んで飲んでいることも、血の繋がりを思わせる演出である。

 また「ニールと守護天使ウルトビーズの関係性」で、ニールのバックパックが天使の羽の代わりだと説明していたが、CANNON PLACEのシーンで、学校前に立つマックスの背中をよく見ていただきたい。劇中に3回そのようなシーンがある。
 マックスもバックパックを背負っているのだ。

 マックスの劇中での年齢は、コクトーが父を亡くした時と同じくおよそ9歳(厳密には8歳9ヶ月)であると考えられる。

水晶の文鎮とメリー・ゴー・ラウンド─回転する沈黙たちの声

 前編の余談でも挙げた、セイターの下記の言をもう一度見ていただきたい。

SATOR
I’m not. I’m creating a new one. Somewhere, sometime, a man in a crystalline tower throws a switch and Armageddon is both triggered and avoided. Entropy inverts the same way the magnetic poles have switched 183 times over the millennia. Now time itself switches direction.

Christopher Nolan. TENET THE COMPLETE SCREENPLAY (pp.165). Faber & Faber Ltd. 2020

画像3

Somewhere, sometime, a man in a crystalline tower throws a switch and Armageddon is both triggered and avoided.
 上記を直訳すると「どこかで、いつか、crystalline towerの中の男がスイッチを切り替えると、アルマゲドンが誘発され、そして回避される」となるが、line がニールを意味することから、crystalline towerの中の男=ニールとなり、「どこかで、いつか、ニールが(順行・逆行の)スイッチを切り替えると、アルマゲドンが誘発され、そして回避される」という意味となる。
 上記はすべて劇中で起こっていたことだと推測される。おそらくニールがスタルスク12で順行に切り替えたタイミングで、アルマゲドンのトリガーが起こっていた。
 順行したニールが果たした役割は、主人公とアイヴスの救出、そして彼らに抱かれていたコンプレックスの塊、アルゴリズムを地下から引っ張り出したことである。その流れによって、CANNON PLACEでプリヤは、口封じ目的でキャットを殺そうとする。そしてニールに助けられた主人公により、その危険は回避される。
 コンプレックスは爆発しなかった。ニール=マックスが正しければ、コンプレックスに囚われた父セイターが死に、母キャットが命拾いをしたことにより、ニール=マックスはコンプレックスの概念から開放されるだろう。

 ところでなぜ、ニールがcrystalline towerのなかにいると表現されていたのか。その理由もやはりコクトーにある。
 コクトーは水晶の文鎮が好きだと、繰り返し作品に書いている。
 例えば小説『ポトマック 1913―1914』巻頭の「趣意書(1916)」。

    水晶の文鎮

 あの肘掛椅子というやつは、その様式のモティーフといい、その選り抜きのビロードといい、自由な目を束縛するものだ。僕はこわしてやろうと決心した。
 一個の水晶の文鎮が、僕にとって芸術となり慰めとなった。以前はそんなものよりも、むしろ埃と飽満がそのなかに隠れている、織物だとか家具だとか陶器の花瓶だとかいったもののほうが好きだったことを思うと、我ながら不思議な気がした。
 この文鎮は僕にとって、もはや水晶でも……立方体でも……六つの面でも……文鎮でもなかった。そんなものではなくて、無限の十字路、沈黙のメリーゴーラウンドだったのだ。
 海の響きを聞くために貝殻に耳を押し当てるひとのように、僕は僕の目をその立方体に近づけた。そして、そこに神を発見したと思った。

『ジャン・コクトー全集 第三巻 小説』堀口大學・佐藤朔(監修)、p7、東京創元社、1980年

 また、詩集『喜望峰』の「序詩」には下記の一節がある。

耳が貝殻に
遺伝のどよめきを聴くように



眼は
水晶の文鎮を覗きこんで

そこに見る

沈黙たちが乗る  回転木馬を

『ジャン・コクトー全集 第一巻 詩*』堀口大學・佐藤朔(監修)、p28、東京創元社、1984年

 同じ『喜望峰』の「脱出の試み 地上から逃げ出すことの不器用さ」では、再び水晶が現れ、共に沈黙も出現する。

超低周波(インフラ)のド
超高周波(ウルトラ)のシ
    そこでは
鷲が脱皮して盲になり  そこでは
セイウチの血が灌木を
黒水晶に凍らせる ぼくは飛ぶ
            泳ぐ

沈黙のうしろにぼくを聴いてくれ
沈黙を越えてぼくを聴いてくれ

『ジャン・コクトー全集 第一巻 詩*』堀口大學・佐藤朔(監修)、p71、東京創元社、1984年

 コクトーの中で、水晶は回転木馬(メリーゴーラウンド)とセットであると同時に、沈黙ともセットなのである。
 水晶(crystal)という単語はホイットマンの詩に繋がっていく。そして「メリー・ゴー・ラウンド」は──『TENET』制作中、正式タイトルが決定していない段階でのワーキングタイトルだったことが知られている。

FRONTROW/『TENET テネット』、撮影中のタイトルは『メリー・ゴー・ラウンド』だった!
https://front-row.jp/_ct/17406888

『TENET』という巨大なメリー・ゴー・ラウンドに乗る沈黙たちが、主人公やニール、キャット、セイターなどのキャラクターたちなのである。
 まだまだ解決できていない謎がある。例えば、キャットやボルコフの視線について──。
 果たして、沈黙たちの声を聞くことができるのだろうか?

L’Éternel retour─エントロピーの減少によって完成される永劫回帰

「メリー・ゴー・ラウンド」の持つイメージに凝縮されるように、『TENET』には回転や繰り返しのイメージが根底にある。
 考察前編「ホイットマンとコクトーの作品に現れるオペラ」でも触れたが、オペラのような繰り返しの技法をホイットマンは用いている。そして彼の影響下にあるコクトーもまた同様だった。
 ホイットマンとコクトーに共通する要素がもう一つある。それは作品の永劫回帰(永遠回帰)性である。
 永劫回帰はフリードリヒ・ニーチェ最晩年の根本的な思想として知られる。『ツァラトゥストラ』(思想書というよりも小説のような作品)で、永劫回帰について書いている。

 俺は帰ってくる。この太陽といっしょに。この地球といっしょに。この鷲といっしょに。この蛇といっしょに。──俺が帰ってくるのは、新しい人生でも、よりよい人生でも、似たような人生でもない。
 俺は永遠にくり返して、この、細大漏らさず、まったく同じ人生に帰ってくるのだ。ふたたび、あらゆるものごと(傍点)に永遠回帰を教えるために。──
 ──ふたたび、大きなこの地上や人間の、大いなる正午のことを話すために。ふたたび人間に超人のことを告げるために。

ニーチェ. ツァラトゥストラ(下) (Japanese Edition) (Kindle の位置No.1556-1561). Kindle 版. 2011
   12

 さて、俺の歌を覚えてくれたかな? 俺の歌の心がわかったか? よし! では! 高級な人間たちよ、俺の歌を輪唱してくれ!
 さあ、君たちに歌ってもらおう。「もう一度」という題の歌を。「永遠に!」という意味の歌を。高級な人間たちよ、ツァラトゥストラの歌を輪唱してくれ!

おお、人間よ! 気をつけろ!
深い真夜中が何を語っているか?
「私は眠っていた。眠っていた。──
深い夢から私は目覚めた。──
この世界は深い。
昼が考えたよりも深い。
この世界の嘆きは深い──、
喜びのほうが──深い悩みよりも深い。
嘆きが言う。『消えろ!』と。
だがすべての喜びが永遠をほしがっている。──
──深い、深い永遠をほしがっている!」

ニーチェ. ツァラトゥストラ(下) (Japanese Edition) (Kindle の位置No.3611-3623). Kindle 版. 2011

 無限の時間の中で、有限な〈力への意志〉の戯れが永劫回帰であり、人の生は超人的な意思によって同じ瞬間を永遠に繰り返すと説いた思想である。その奥にあるのは、生の絶対的肯定。
「超人とは、《最高に出来のよい人間のことである。「近代」人や、「善」人や、キリスト教徒や、その他のニヒリストに対立する人間のことだ》。」と『ツァラトゥストラ(下)』の解説では説明されている。
 そして永劫回帰は、エントロピー増大により否定されると言われている。

第二節 熱力学的視点からの永劫回帰―反復のエントロピー

『ニーチェと哲学』の,永劫回帰と差異,宇宙論的で自然学的な理説としての 永劫回帰を論じた部分においては,永劫回帰の含む,科学による機械論的肯定と熱力学的否定に対する批判ということがいわれている.ドゥルーズの科学的世界観とニーチェにまつわる議論では,機械論のほか,熱力学(傍点)がもちだされる. 永劫回帰の世界観に反しうるのは,熱力学第二法則(傍点),エントロピー増大の原理(傍点)である.エントロピーは自然の性向として,一般的に増大する.第一法則であるエネルギー保存則は,ニーチェの議論でも取り扱われ,回帰の根拠とされた.全宇宙的趨勢として,エントロピーが増大し続けるならば,この流れは不可逆で,可能な組み合わせのうち同じ組み合わせの列が繰り返されるということはありえないのではないか,ということである.そして,熱力学的には,エネルギーが平衡状態へと向かう(エントロピー増大)ということが傾向として存在することは支持される.

『哲学の探求第42号 哲学若手研究者フォーラム 2015年4月』『存在の一義性と永劫回帰 —ジル・ドゥルーズにおけるスコラ学の再定義を伴う哲学史の改編—』上田唯吾、2015年
http://www.wakate-forum.org/data/tankyu/42/42_17_ueda.pdf

 しかし『TENET』の世界では、エントロピーの減少も起こり得る。つまりクリストファー・ノーラン監督は、その前提を設定した上で、永劫回帰が起こりうる世界を作り上げている。

 ホイットマンはニーチェの思想に直接触れていたかどうかは定かではない。しかしホイットマンもニーチェも、共にラルフ・ワルド・エマーソンの影響を強く受けていた。エマーソンを通じて繋がっていたのだ。ホイットマンの詩には、ニーチェの思想と完全に同じではないものの、永劫回帰性が見られると言われている。
 コクトーはニーチェの言葉を借りて、邦題では『悲恋』と呼ばれる映画 “L’Éternel retour(永劫回帰)” の脚本を書いた。1943年に公開されたこの “L’Éternel retour(永劫回帰)” の主人公パトリスも、ジャン・マレーが演じている。下記はそのまえがきである。

  まえがき

 この映画のタイトルはニーチェから借りている。しかし、ここでいう『永劫回帰』とは、当事者たちはいっこう気づいていないときにも、同じ状況が繰返し作り出されていることがある、という事情を指している。

『ジャン・コクトー全集 第八巻 映画 その他』堀口大學・佐藤朔(監修)、p59、東京創元社、1987年

 永劫回帰の思想では、超人は神々の黄昏に現れるとされる。ニーチェは「神は死んだ」と言った──その時に超人が現れるということだ。
 ワーグナーのオペラ『ニーベルングの指環』4部作のうちの4作目も『神々の黄昏』。ニーチェはかつてワーグナーに心酔していたが、やがて決別している。

 ちなみに『ツァラトゥストラ』では、友情についても多く言及されている。

 友だちについて

(中略)

 君は、友だちのためにどんなに着飾っても、着飾りすぎるということはない。友だちにとって君は、超人にむかって放たれた矢であり、超人へのあこがれであるべきなのだから。
 君は、友だちが寝ているのを見たことがあるか?──見たなら、友だちがどんな顔をしているのか、わかるはずだ。寝ていないときの友だちの顔とは、何か?それは、凸凹のゆがんだ鏡に映った君自身の顔なのだ。
 君は、友だちが寝ているのを見たことがあるか? 友だちの寝顔を見て、驚かなかったか? おお、友よ、人間は、克服されるべき存在なのだ。
 友だちというものは、推測や沈黙の名人であるべきだ。君はすべてを見ようとする必要はない。君の友だちが起きているときに何をしているのか、君は、夢のなかで告げてもらえばいいのだ。
 同情するなら、まず推測するべきだ。友だちが同情を求めているのかどうか、それをまず君は知るべきなのだ。もしかしたら友だちが大好きなのは、君の澄んだ不屈の目であり、君の永遠の視線なのかもしれない。

ニーチェ. ツァラトゥストラ(上) (Japanese Edition) (Kindle の位置No.999-1008). Kindle 版.

時間の中で迷った男─『オルフェの遺言』から読み解くニール

 映画『オルフェ』の続編にあたる『オルフェの遺言-私に何故と問い給うな-』(1960)は、ジャン・コクトーの映画監督キャリアにおける遺作にあたる。『詩人の血』(1930)を彷彿とさせる実験映画に近い作品である。
 なお、『詩人の血』『オルフェ』『オルフェの遺言』は “The Orphic Trilogy” と呼ばれ、三部作とされている。

『TENET』の逆行弾は、『オルフェの遺言』に出てくる、未来からもたらされた弾丸から発想を得たと思われる。光よりも速く進む弾丸で逆行はしないものの、撃たれた者が映画の撮影技法上、逆回しになって蘇生するシーンがある。
 監督のジャン・コクトー自らが演じる主人公の詩人は、未来から来た男だ。タイムトラベルの挙げ句に時間の中で迷ってしまっていて、「私を自由にする」弾丸の入った箱を探していた。死んだ男性教授が未来で持っていた、弾丸を当時における現在(1959年)時間軸へ持ってきた詩人は、老年の教授にその弾丸を渡し、自らを撃ち殺してもらう。すると詩人は時間の中での迷いから開放されて蘇生し、現在の時間軸へ戻ってくるのである。

 コクトーの世界──例えば “L’Éternel retour(永劫回帰)” では、主人公のカップルは「死ぬことで心しずかに生きることができる」とされている。死によって生が終わるわけではないのである。
 また『オルフェ』のオルフェは、詩人として生まれるために何度も死ぬ。これはマラルメの詩の話もあったが、サルバトール・ダリが提唱した不死鳥学の流れも組んでいる。

 主人公を演じたジョン・デヴィッド・ワシントンと、ホイットマンの人生の契機が計算深くシンクロされていたことを思い出してほしい。
 コクトーの化身であるニールを演じたロバート・パティンソンは、『TENET』公開時34歳。コクトーの34歳は、レイモン・ラディゲが死んで悲しみのあまり阿片に耽溺してしまっていた時期。

『オルフェの遺言』の未来からやってきた詩人がコクトー自身だったことを考えると、『TENET』のニールも未来からやってきたと考えられるのである。
『オルフェの遺言』で詩人は弾丸に撃たれるが、すぐ立ち上がって、時間のなかでの迷いから脱却する。ニールにおいては、スタルスク12の地下では死んだかもしれない。しかしそこで本来の時間軸であるマックスに戻るのである。
 そしてコクトーが1963年10月11日に74歳で死んでいることから、ニールの寿命もコクトーと同じ74歳となる可能性を大いに秘めている。

 主人公とニールも、最終的には生きる意思によって行動している。
 行動を起こすことによって「死」から「生」になる。ニーチェ的に言えば、『TENET』で描かれていたのは彼らが超人となっていく過程なのだ。
 そうして円環は完成する。ラストのシーンで主人公が、キャットだけではなくマックスを見ていたことを注意喚起しておこう。この件については、後編で再び触れたい。

コクトーの詩「友は眠る」

『ツァラトゥストラ』の、友だちの寝顔についての下りを紹介したが、コクトーも眠りを重要視していた。
 主人公とニールのbeautiful friendshipについて、さらに理解を深められる作品がある。コクトーの詩「友は眠る」だ。

Un ami dort

Tes mains, jonchant les draps étaient mes feuilles mortes
      Mon automne aimait ton été.
Le vent du souvenir faisait claquer les portes
      Des lieux où nous avons été.

Je te laissais mentir ton sommeil égoïste
      Où le rêve efface tes pas.
Tu crois être où tu es. Il est tellement triste
      D’être toujours où l’on n’est pas.

Tu vivais enfoncé dans un autre toi-même
      Et de ton corps si bien abstrait,
Que tu semblais de pierre. Il est dur, quand on aime
      De ne posséder qu’un portrait.

Immobile, éveillé, je visitais les chambres
      Où nous ne retournerons point.
Ma course folle était sans remuer les membres,
      Le menton posé sur mon poing.

Lorsque je revenais de cette course inerte,
      Je retrouvais avec ennui,
Tes yeux fermés, ton souffle et ta main grande ouverte
      Et ta bouche pleine de nuit.

Que ne ressemblons-nous à cet aigle à deux têtes.
      A Janus au double profil,
Aux frères Siamois qu’on montre dans les fêtes.
      Aux livres cousus par un fil ?

L’amour fait des amants un seul monstre de joie,
      Hérissé de cris et de crins,
Et ce monstre, enivré d’être sa propre proie,
      Se dévore avec quatre mains.

Quelle est de l’amitié la longue solitude ?
      Où se dirigent les amis ?
Quel est ce labyrinthe où notre morne étude
      Est de nous rejoindre endormis ?

Mais qu’est-ce que j’ai donc ? Mais qu’est-ce qui m’arrive ?
      Je dors. Ne pas dormir m’est dû.
À moins que, si je dors, je n’aille à la dérive
      Dans le rêve où je t’ai perdu.

Dieu qu’un visage est beau lorsque rien ne l’insulte.
      Le sommeil, copiant la mort,
L’embaume, le polit, le repeint, le resculpte,
      Comme Égypte ses dormeurs d’or.

Or je te contemplais, masqué par ton visage,
      Insensible à notre douleur.
Ta vague se mourait au bord de mon rivage
      Et se retirait de mon cœur.

La divine amitié n’est pas le fait d’un monde
      Qui s’en étonnera toujours.
Et toujours il faudra que ce monde confonde
      Nos amitiés et nos amours.

Le temps ne compte plus en notre monastère.
      Quelle heure est-il ? Quel jour est-on ?
Lorsque l’amour nous vient, au lieu de nous le taire,
      Vite, nous nous le racontons.

Je cours. Tu cours aussi, mais à contre machine.
      Où t’en vas-tu ? Je reviens d’où ?
Hélas, nous n’avons rien d’un monstre de la Chine,
      D’un flûtiste du ciel Hindou.

Enchevêtrés en un au sommet de vos crises,
      Amants, amants, heureux amants...
Vous êtes l’ogre ailé, niché dans les églises,
      Autour des chapiteaux romans.

Nous sommes à deux bras et noués par les âmes
      (C’est à quoi s’efforcent les corps.)
Seulement notre enfer est un enfer sans flammes,
      Un vide où se cherchent les morts.

Accoudé près du lit je voyais sur ta tempe
      Battre la preuve de ton sang.
Ton sang est la mer rouge où s’arrête ma lampe...
      Jamais un regard n’y descend.

L’un de nous visitait les glaces de mémoire,
      L’autre les mélanges que font
Le soleil et la mer en remuant leurs moires
      Par des vitres, sur un plafond.

Voilà ce que ton œil intérieur contemple.
      Je n’avais qu’à prendre ton bras
Pour faire, en t’éveillant, s’évanouir le temple
      Qui s’échafaudait sur tes draps.

Je restais immobile à t’observer. Le coude
      Au genou, le menton en l’air.
Je ne pouvais t’avoir puisque rien ne me soude
      Aux mécanismes de ta chair.

Et je rêvais, et tu rêvais, et tout gravite.
      Le sang, les constellations.
Le temps qui point n’existe et semble aller si vite.
      Et la haine des nations.

Tes vêtements jetés, les plis de leur étoffe,
      Leur paquet d’ombre, leurs détails,
Ressemblaient à ces corps après la catastrophe
      Qui les change en épouvantails.

Loin du lit, sur le sol, une de tes chaussures
      Mourait, vivait encore un peu...
Ce désordre de toi n’était plus que blessures.
      Mais qu’est-ce qu’un dormeur y peut ?

Il te continuait. Il imitait tes gestes.
      On te devinait au travers.
Et ne dirait-on pas que ta manche de veste
      Vient de lâcher un revolver ?

Ainsi, dans la banlieue, un vol, un suicide,
      Font un tombeau d’une villa.
Sur ces deuils étendu, ton visage placide
      Était l’âme de tout cela.

Je reprenais la route, écœuré par le songe,
      Comme à l’époque de Plain-Chant.
Et mon âge s’écourte et le soleil allonge
      L’ombre que je fais en marchant.

Entre toutes cette ombre était reconnaissable.
      Voilà bien l’allure que j’ai.
Voilà bien, devant moi, sur un désert de sable,
      Mon corps par le soir allongé.

Cette ombre, de ma forme accuse l’infortune.
      Mon ombre peut espérer quoi ?
Sinon la fin du jour et que le clair de lune
      La renverse derrière moi.

C’est assez. Je reviens. Ton désordre est le même.
      Tu peux seul en changer l’aspect.
Où l’amour n’a pas peur d’éveiller ce qu’il aime,
      L’amitié veille avec respect.

Le ciel est traversé d’astres faux, d’automates,
      D’aigles aux visages humains.
Te réveiller, mon fils, c’est pour que tu te battes.
      Le sommeil désarme tes mains.

Cocteau, Jean. Le Livre blanc et autres textes. Le Livre de Poche. 1999
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友は眠る   佐藤朔訳

君の手はシーツに散らばり 僕の枯葉のようだ。
   僕の秋は 君の夏を愛した。
思い出の風が 僕たちの訪れた場所の
   ドアをばたばたと鳴らした。

君を勝手に眠らせ 僕はだまされるままだった
   君の足あとを夢が消す。
君はいまの所にいると思っている。人がいない所に
   いつまでもいるのは とても淋しい。

別の君自身の中に 君は潜って生きている
   君の肉体はまるで抽象的で
石でつくられたみたい。愛しているのに
   肖像しかもっていないとは つらいこと。

僕は眠りもせず 身じろぎもせず 僕たちが二度と行かぬ
   あの部屋この部屋を訪れた。
僕は手足を動かさず 拳を顎にあてがったまま
   物狂おしく駈けめぐった。

こうしてじっとしながら駈けめぐったあとで
   僕は悲しくもふたたび見出す
君の閉じた眼を 君の呼吸を 大きくひらいた君の手を
   闇にみちた君の口を。

僕たちは似ていないだろうか 双頭の鷲に
   双面神のヤヌスに
祭日の見世物の シャムの双生児に
   一本の糸で綴じた合冊本に。

恋人たちは恋のために 叫び声をあげ たてがみを振るい
   ただ一匹の歓喜の怪獣となる
この怪獣はわれとわが身を餌食にし 酔い痴れて
   四本の手で みずからを喰らう。

だが友情のながい孤独とはなんだろうか。
   友人たちはいったいどこへ行くのか
眠ってから僕たちが出会えるように 侘しくも工夫する
   迷宮とはどんなものやら。

だがどうしたのか どういうことになったのか
   僕は眠っている。眠ってはならない筈なのに。
眠れば 君を見失った夢の中へ
   僕が漂って行けるものなら 別の話だが。

侮りを受けない顔は なんと美しいことか。
   眠りは 死の真似をして
顔を薫らし 磨き上げ 彩り 彫刻する
   エジプト人が金色のミイラに細工をするように。

ところで僕は 君の顔に覆いかぶさられ
   僕たちの苦悩を忘れて 君をつくづくと眺めた。
君の波は 僕の岸辺まで来て 砕け散り
   僕の心から引いて行った。

神聖な友情は これにいつも驚くような世界では
   理解されることはあるまい。
その世界では 僕たちの友情と愛情とは
   いつも取り違えられてしまう。

僕たちの僧院では 時間は刻まない。
   何時だろう? 何日だろう?
愛情が生れたら 隠し立てせず 僕たちは
   すぐに語り合うことだろう。

僕は走る。君も走るけれど 逆行する。
   君はどこへ行くのか。僕はどこから戻って来るのか?
残念なことに シナの怪物も インドの空を飛ぶ
   笛吹きも 僕たちにはついていない。

興奮の絶頂で からみ合って一体となる
   恋人たちよ 恋人たちよ たのしい恋人たちよ……
君たちは教会の中に据えられた ローマ風の柱頭の周りの
   翼のある食人鬼みたいだ。

僕たちには二本の腕があり 魂で結ばれている。
   (肉体もそうなるようにとつとめている)
ただ僕たちの地獄は 炎のない地獄であり
   死者たちがたがいに求め合う虚空である。

僕はベッドのそばで肱をついて 君のこめかみに
   血液の証拠が鼓動するのを見ていた。
君の血は 僕のランプが向けられている赤い海……
   どんな眼ざしも そこまでは届くまい。

僕たちの一人が 思い出の鏡をしらべているのに
   もう一人は 窓ガラスを通して
天井に動く縞模様で 太陽と海の
   混りものを見つめている。

これこそ君の内的な眼の眺めているもの。
   僕は君の腕をとるより仕方がない
君の眼を醒まさせて シーツの上に打ち建てた
   寺院を搔き消すために。

だが僕は君を眺めながら じっとしていた。
   肱を膝に 顎を宙に浮かせて。
僕は君をとらえることは出来ない。君の肉体の装置に
   僕を熔接させるものは 何ひとつない。

僕は夢想し 君も夢みていた。すべてが一点に集まる。
   血も 星座も。
速やかに流れ去るのか 時は生れ また消えて行く
   民族の憎しみもまた同じこと。

君の脱ぎすてた衣類 その布の皺
   その影の塊 その細部は
破局のあとで 案山子に変る
   肉体に よく似ていた。

ベッドから遠く 床の上で 君の片方の靴が
   死にかけていたが 息がまだ少しはあった……
こうした君の乱雑ぶりは 傷口に他ならない。
   だが眠っている男に 何が出来ようか?

彼は君を引きつぎ 君の身ぶりをまねた。
   彼から君を想像することも出来た。
君の上衣の袖口からピストルがすべり落ちたと
   考えられはしないだろうか。

こうして場末町では 窃盗や自殺が行われ
   ある別荘は 墓場と化する。
柩の上に横たわっても 君の静かな顔は
   すべてのものの中心。

こんな夢想に胸がむかつき 僕はまたも歩きだす
   『平調曲』の頃のように。
そして僕の年齢は短くなり 太陽は
   歩く僕の影を 長くのばす。

数ある影の中でも 見覚えのある影。
   これこそ僕らしい歩きぶり。
僕の前に 砂原の上に 夕日のために長くのびて
   これこそまさしく 僕の肉体。

不運が僕の姿かたちをあらわに見せる この影。
   僕の影に何が期待出来ようか。
さもなければ日暮れ時や 月光が この影を
   僕の背後に投げるに違いない。

もう沢山だ。僕は引き返す。君の乱雑ぶりは前と変らない。
   君だけがその状態を変えることが出来るのに。
恋は愛するものを 平気で眼覚めさせるが
   友情は恭しく見まもるだけ。

空にはにせの星や ロボットや
   人間の顔をした鷲が飛んでいる。
いとし児よ 君を起すのは 君が戦うためなのだ。
   眠っている君は 武器を手から離している。

『ジャン・コクトー全集 第二巻 詩**』堀口大學・佐藤朔(監修)、p99-107、東京創元社、1981年


『TENET』を感じさせる、友情と日暮れと逆行。14連目の「僕は走る。君も走るけれど 逆行する。」の部分は、原文では “Je cours. Tu cours aussi, mais à contre machine.” で、厳密には「僕は走る。君も走るけれど、機械(マシン)とは逆の方へ進む。」となる。「君」は機械に対して背を向けているのである。
「君」を『TENET』の主人公、「僕」をニール、機械を回転ドアに置き換えて想像することも可能だろう。その場合、「君」は回転ドアに入らず順行しており、「僕」は逆行後、最終連の前の連で引き返し順行に戻っている──と読むとスタルスク12の情景と重なる。

神聖な友情は これにいつも驚くような世界では
   理解されることはあるまい。
その世界では 僕たちの友情と愛情とは
   いつも取り違えられてしまう。

 上記の部分がまた意味深である。ホイットマンの影響下にあるコクトーが「友情」と言うときもまた、特別な意味を持つだろう。『TENET』のbeautiful friendship とは一体、何を意味するのか。
 長くなってしまったので、続きは後編にて考察したい。

《余談1》ニールのお守り(タリスマン)のコインは何故1943年製なのか?

 これまでニールがジャン・コクトーの化身であることを説明してきたが、お守り(タリスマン)の本体であるコインも、コクトーに関連する可能性が高い。
 お守りのコインは、『TENET』Blu-rayなどの特典映像から、インドの1943年製の1パイス硬貨だと特定されている。
 1943年は、コクトーが脚本を書いた映画『悲恋』の公開年である。この映画の原題 “L’Éternel Retour” は、ニーチェが提唱した思想「永劫回帰」のフランス語からとられていて、劇中では意図的に同じ状況が繰り返されている。
 それと同様にTENETも同じ状況が繰り返し起こっていて、最終的には円循環となる。
 そのためTENETのお守りに使われている1943年製の1パイス硬貨は、コイン自体の輪状の形からも永劫回帰の円循環、つまりTENETの構造自体を表していると考えられる。

《余談2》マックスの名前の由来を探る

 ニール≒コクトーであり、さらにニール=マックスであるならば、マックスの名前の由来もジャン・コクトー関連である可能性が高い。
 コクトー周辺で「マックス」という名前を持つ人物は、主に3人いる。

 ①本命:マックス・ジャコブ
 ②対抗:マックス・エルンスト
 ③大穴:エドゥアール・ド・マックス

 上記3人の誰かから「マックス」の名を引っ張ってきたか、もしくは複数の人物の要素を複合して「マックス」と名付けた可能性がある。

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 本命の①マックス・ジャコブは、フランスの詩人・画家。ユダヤ人であった彼は、ナチスに逮捕され、収容所で肺炎にかかり命を落とした。
 マックス・ジャコブの死の報を受けたコクトーは、『占領下日記』にこう書いている。

 マックスは天使だった。サン゠ポール・ルー同様、子供みたいだった。

『占領下日記 1942-1945 Ⅲ』ジャン・コクトー、秋山和夫(訳)、p51、筑摩書房、1993年

 これまで書いてきたように、ニール≒マックスが主人公の守護天使のような位置づけとされているならば、マックス・ジャコブが由来である説は有力である。

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 対抗の②マックス・エルンストは、ドイツ生まれの画家・彫刻家で、のちにフランスに帰化した人物。ダダイズムやシュールレアリスムの発展に貢献した。
 マックス・エルンストの父フィリップはアマチュアの画家で、マックス・エルンストをモデルとし絵を描いていた(『幼児キリストとしてのマックス・エルンストの肖像』など)。
https://de.wikipedia.org/wiki/Datei:Philipp_Ernst,_Max_Ernst_als_Jesusknabe.jpg

 成長したマックス・エルンストは、上記のことへの意趣返しなのか、 “The Virgin Spanking the Christ Child before Three Witnesses: Andre Breton, Paul Eluard, and the Painter(3人の証人の前で幼いキリストの尻を叩く聖母:アンドレ・ブルトン、ポール・エリュアール、そして画家)” という長い名前のタイトルの絵を描いている。
https://www.wikiart.org/en/max-ernst/the-virgin-spanking-the-christ-child-before-three-witnesses-andre-breton-paul-eluard-and-the-1926

『TENET』にエディプス・コンプレックスからの脱却の意図があることから、マックス・エルンストが由来である説も十分にあり得る。

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 大穴である③エドゥアール・ド・マックスは、ルーマニアで生まれ、フランスで活躍した俳優である。
https://www.comedie-francaise.fr/en/artist/edouard-de-max

 彼だけはファーストネームではなく、ファミリーネームが「マックス」となっているため、可能性は薄いかもしれない。
 しかし、ド・マックスは若きコクトーの作品に魅了され、劇場で彼の詩を朗読し、才能を世に知らしめることに貢献した人物だ。

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 以上3名を、マックスの名前の由来となった人物たちとして推したい。

《余談3》金塊、アルゴリズム、鉛の手袋─「小箱選びのモティーフ」

『TENET』において謎の存在感を放っているのが金塊である。
 オスロでフリーポートの建物に衝突させられた、ボーイング747。機体の衝突前、滑走路へと金塊が派手に落とされる。
 ニールいわく「誰も建物は見ない 保証する」とのこと。金塊に気を取られるから──。
 果たして上手くいくだろうか?と思いきや、本当にモブたちは金塊ばかり見ているから驚きである。

 ジークムント・フロイトが書いた「小箱選びのモティーフ」という小論がある。
 シェイクスピアの『ヴェニスの商人』などに見られる、金、銀、鉛からどれか一つを選択する物語の、意味合いを考察したものだ。
『ヴェニスの商人』では、それぞれ金、銀、鉛でつくられている三つの小箱が出てくる。鉛の小箱の中にはポーシャという女性の肖像画が入っており、三人の求婚者のうち正しい小箱を選択したバッサニオという者と、ポーシャは結婚する。先に箱選びをした二人の求婚者は、金と銀の箱を選択してしまって脱落せざるを得なかった。
『ヴェニスの商人』の小箱選びはシェイクスピアの独創ではなく、『ゲスタ・ロマノールム』の中の物語から借用したものとフロイトは説明しており、続いて下記のように書いている。

そして、金、銀、鉛を選ぶことにはおそらくなんらかの意味があるのではあるまいかという最初の推測は、ほどなく、同じ問題をもっと広い関連で取り扱ったシュテュッケンの研究によって確認された。彼はこういっている。「あの三人のポーシャ求婚者の何者であるかは、彼らが何を選ぶかということから明らかになる。モロッコの王子は金の小箱を選ぶ。彼はつまり太陽である。銀の小箱を選ぶアラゴンの王子は月である。バッサニオは鉛の小箱を選ぶ。すなわち彼は星の子である」この解釈のよりどころとして彼はエストニアの民族叙事詩『カーレヴィポエーク』から一挿話を引用している。そこでは三人の求婚者は、一切の粉飾を払いのけてそれぞれ太陽、月、星の若者(「北極星の長男」)として登場し、花嫁はそこでもやはり三人目の求婚者に与えられている。

(中略)

 ここでもう一度われわれの問題に注視しよう。エストニアの叙事詩においても『ゲスタ・ロマノールム』の物語においても、一少女の三人の求婚者選びが問題となっている。『ヴェニスの商人』においても外見上は同じことが問題となっているが、それと同時にこの『ヴェニスの商人』の場合には、なにかモティーフの裏返しのようなものが現われている。つまりここではひとりの男が三つの小箱(傍点)を選ぶ。これが夢のことならば、ただちにわれわれは小箱や小容器やボール箱や籠などと同様、その小箱もまた女性であり、女性における本質的なものの象徴、だから女性そのものなのだと考えたことであろう。それで、そのような象徴的代用品を神話にも想定してさしつかえないとすれば、『ヴェニスの商人』における小箱の場面は、さきにわれわれが推測したように実際裏返しになる。まるで噓のようにわれわれはあっという間にわれわれの主題から星の衣を剝ぎとり、いまや一箇の人間的なモティーフ、すなわちひとりの男が三人の女たちのどれかを選ぶということが問題になっているということを知るわけである。

『フロイト著作集 第三巻』高橋義孝 他(訳)、p282-283、人文書院、1996年


『TENET』には金塊と、鉛の手袋が出てくる。あともう一つ、素材は違うが銀色に光るアルゴリズムを銀とみると、金、銀、鉛が揃うわけである。
 金塊は主にセイターが所有していたし(前金としてセイターから主人公に金塊が渡されるシーンはあるが)、アルゴリズムもセイターが手に入れようとしていたものだ。
 対して鉛の手袋は、バーバラから主人公(名もなき男)に継承される。消防車から運搬トラックに侵入するシーンでも、鉛の手袋が用いられている。

 滑走路に金塊を落とした件は、フロイトへの皮肉ともとれる。「みんな真っ先に金を選ぶっていうなら、見とれさせてやるぞ」というような……。
 またキャットが小箱を持っていたこと、そしてその小箱にキャット以外誰も触れなかったことは、非常に意味深な表現となってくる。
 クリストファー・ノーラン監督作品では、箱が重要な要素となっている場合が多い。例えば『フォロウィング』(1998)には、〝Everyone has a box.(誰でも箱を持っている)〟というような台詞も出てくる。夢診断で小箱を女性の象徴と位置づけたフロイトの主張や、女性を男性の目線で選ぼうとする観点に、異を唱えていると考えられる。

 さらにフロイトは「小箱選びのモティーフ」で他の神話や童話の例を挙げ──鉛も、そして三番目の女の特性も「沈黙」であること、そして夢において「沈黙」は、死の象徴を示していることを述べているのである。

 さてこんな工合にして、わが三人目の女の特性は「沈黙」に要約されると決定することにすると、精神分析がわれわれに告げることはこうである、沈黙は夢においては死のもっともありふれた表現である、と。

『フロイト著作集 第三巻』高橋義孝 他(訳)、p285、人文書院、1996年

「水晶の文鎮とメリー・ゴー・ラウンド─回転する沈黙たちの声」の項でも書いたように、『TENET』には沈黙する者たちがいる。
 主人公がフェイに言われていた通り、死後の世界にいるとすれば、主人公は沈黙することによって死んでいるのだ。
 生きるためには、沈黙を解かなければならない。
 これは一体何を意味しているのか? これについては、考察後編後に書くものにまとめたい。


 なお、手袋はジャン・コクトーが好んで用いたもの。『オルフェ』でも異界に通じるキーとなっており、重要な要素となっている。
『フォロウィング』でノーラン監督は、ゴム手袋の印象を強めるような演出をしていたことに注目したい。手袋のクローズアップから始まり、手袋をつける/外すシーン、コッブがビルの口に手袋を入れるシーンなど、しつこいほどに手袋が登場するのである。

 また、『TENET』と同じように、『メメント』(2000)にも『オルフェ』の鏡文字のオマージュシーンがある。レナードがナタリーと鏡の前に立っている場面だ。
 これらのことから、ノーラン監督は、かなり初期の頃からコクトーの影響を受けていた可能性が高いのである。

 そして『TENET』はエストニアのタリンも舞台にしていることから、エストニアの民族叙事詩『カーレヴィポエーク』とも繋がりを持たせようとしていると考えられる。鉛を選んだ『TENET』の主人公は、三番目の男=星の若者だと示唆されているのだ。
 星の記号(もしくはアスタリスク記号の場合もある)はコクトーが好んで用い、サインと共に書いていたものだと認識すると、『TENET』への理解の深みが増してくる。
https://www.pinterest.fr/pin/80220437089450574/

 ニールがコクトーの化身として描かれていることを踏まえると、ホイットマンの化身である主人公は、ニールを照らす星。ノーラン監督がどのように彼らを描きたかったのかが、うっすらと見えてくるだろう。

次回予告(今度こそ)

■ホイットマンならびに、ジャン・コクトーの『オルフェ』以外にも、『TENET』を形作る要素として重要な作品群がある。これを読み解き、beautiful friendshipの謎に迫る。
■ニールの鍵開け要素がどこからやってきたのか。
■キャサリン・バートンの秘密を解き明かす。
■ボルコフの秘密も解き明かす。
■主人公がボルコフに言う“Hey!, easy fella, where I come from, you buy me dinner first.” の台詞はどこからどういう風にやってきたのか。
■主人公からキャットの首キス。
■ガソリンで車炎上の件。
■逆行を多用したルドウィグ・ゴランソンの音楽について。
■「主人公とニール─本編後の二人の関係性 パート2」。
■余裕があったらゴヤについても触れる予定。

その他の参考文献

■『ジェンダーと「自由」 理論、リベラリズム、クィア』三浦玲一・早坂静(編著)、彩流社、2013年
■『世界の名著49 フロイト』懸田克躬(責任編集)、中央公論社、1966年
■『福島大学総合教育研究センター紀要第14号』「S.フロイトの性欲論 ―幼児性欲と転移の発見―」中野明德、2013年
https://www.lib.fukushima-u.ac.jp/repo/repository/fukuro/R000004184/19-159.pdf
■『茨城大学教養部紀要(第26号)』「ジャン・コクトーの映画『オルフェ』」青木研二、p383-401
https://rose-ibadai.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=10845&item_no=1&attribute_id=20&file_no=1
■『茨城大学教養部紀要(第23号)』「ジャン・コクトーの『永劫回帰』」青木研二、p427-442
https://rose-ibadai.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=10833&item_no=1&attribute_id=20&file_no=1
■『Walt Whitman’s Operatic Voice 一ホイットマンの詩とオペラの手法一』森山敬子、2007年
https://glim-re.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=973&file_id=22&file_no=1
■Williams, James S. Jean Cocteau (French Film Directors). Manchester University Press. 2006
■Hatte, Jennifer. La langue secrète de Jean Cocteau: la mythologie personnelle du poète et l'histoire cachée des Enfants terribles. Peter Lang. 2007
■Amy, Mullin. Whitman's Oceans, Nietzsche's Seas. questia
https://www.questia.com/library/journal/1P3-35679219/whitman-s-oceans-nietzsche-s-seas
■biography 1889-1922. OFFICIAL SITE OF THE JEAN COCTEAU COMMITTEE
https://www.jeancocteau.net/bio1_en.php
■コトバンク「コクトー」
https://kotobank.jp/word/%E3%82%B3%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%BC-64136
■コトバンク「エディプス・コンプレックス」
https://kotobank.jp/word/%E3%82%A8%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%97%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-36857
■Cocteau, Jean. «Un ami dort»
http://www.florilege.free.fr/florilege/cocteau/unamidor.htm
■『オルフェ』(1950)キープ株式会社版DVD
■『オルフェの遺言-私に何故と問い給うな-』(1960)ジェネオン・ユニバーサル・エンターテイメント版DVD
■『ジャン・コクトー/知られざる男の自画像』(1983)

※無断転載は固く禁じます

追記 2020/1/20
 余談として、下記項目を追加しました。
■《余談》ニールのお守り(タリスマン)のコインは何故1943年製なのか?

追記 2020/2/25
 余談として、下記項目を追加しました。
■《余談3》金塊、アルゴリズム、鉛の手袋─「小箱選びのモティーフ」

追記 2020/10/30
 下記項目に、ジャン・コクトーの詩「友は眠る( “Un Ami Dort” )」のフランス語原文を追加しました。
■コクトーの詩「友は眠る」

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