【ネタバレ注意】beautiful friendshipの秘密《前編》─ウォルト・ホイットマンとジャン・コクトーから読み解く『TENET テネット』
twilightとdusk─合言葉の暗号とは
クリストファー・ノーラン監督作の『TENET テネット』(以降、『TENET』)本編で、ジョン・デヴィッド・ワシントン演じる主人公(名もなき男)が、アメリカ19世紀の詩人ウォルト・ホイットマン(1819-1892)の名を口にするシーンがある。
ケネス・ブラナー演じるセイターが「黄昏に生きる(But we do live in a twilight world.)」と例の合言葉を言った後に、主人公が「ホイットマンの詩?(Is that Whitman?)」 と冗談めかして問うのだ。
だからあの「黄昏に生きる(We live in a twilight world.)」「宵に友なし(And there are no friends at dusk.)」という合言葉自体が、ホイットマンの詩からの引用だと勘違いされやすいが、厳密には引用ではない。
引用ではないのにもかかわらず、主人公が “We live in a twilight world.” というフレーズから、ホイットマンを想起したという点に注目すべきなのである。
また、この合言葉はホイットマンの『草の葉(Leaves of Grass)』に収められている詩 ”A Twilight Song” のイメージから取られている、と解説している方を多く見かける。以下、実際の詩を引用する。
A Twilight Song
As I sit in twilight late alone by the flickering oak-flame,
Musing on long-pass’d war-scenes – of the countless buried unknown soldiers,
Of the vacant names, as unindented air’s and sea’s – the unreturn’d, The brief truce after battle, with grim burial-squads, and the deep-fill’d trenches
Of gather’d dead from all America, North, South, East,
West, whence they came up,
From wooded Maine, New-England’s farms, from fertile
Pennsylvania, Illinois, Ohio,
From the measureless West, Virginia, the South, the
Carolinas, Texas,
(Even here in my room-shadows and half-lights in the noiseless flickering flames,
Again I see the stalwart ranks on-filing, rising -I hear the rhythmic tramp of the armies;)
(10) You million unwrit names all, all – you dark bequest from all the war,
A special verse for you – a flash of duty long neglected – your mystic roll strangely gather’d here,
Each name recall’d by me from out the darkness and death’s ashes,
Henceforth to be, deep, deep within my heart recording, for many a future year,
Your mystic roll entire of unknown names, or North or
South,
Embalm’d with love in this twilight song.
Whitman, Walt. The Complete Poems (Penguin Classics) (pp.560-561). Penguin Books Ltd. Kindle 版. 2004
確かにこの詩の内容も含まれてはいる。
例えば “As I sit in twilight late alone by the flickering oak-flame, (黄昏時に明滅する樫の炎のそばで一人座っていると、)” や、“Henceforth to be, deep, deep within my heart recording,(我が心の記憶の奥深く、深く秘められるだろう)” といった部分に『TENET』の要素を感じ取ることができる。
だが、『TENET』の合言葉が指すのは ”A Twilight Song” だけではない。
何故かといえば、”A Twilight Song” にはtwilight(黄昏)の語は存在しても、合言葉で対となっているdusk(宵)が含まれていないからだ。duskはtwilightの後の時間帯を指す。
上記とは別に “Twilight” という詩もあるが、これにも “dusk” は含まれていない。
Twilight
The soft voluptuous opiate shades,
The sun just gone, the eager light dispell’d – (I too will soon be gone, dispell’d,)
A haze – nirwana – rest and night – oblivion.
Whitman, Walt. The Complete Poems (Penguin Classics) (pp.541-542). Penguin Books Ltd. Kindle 版. 2004
なお、小沢和光氏は下記リンクの論文『詩人の第一声・Leaves of Grass初版』で、「ホイットマンの上昇と下降は太陽の動きと重なっている。それは例えば晩年の詩 “Twilight”(1887)に明らかだ。(中略)沈む太陽がそのまま詩人自身の死となる。」と指摘している。
https://glim-re.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=1606&file_id=22&file_no=1
上記と照らし合わせると、『TENET』の主人公は、沈む太陽を想起させるtwilightやduskといった単語から、自らの死を感じ取っているということになる。
実は、ホイットマンの『草の葉(Leaves of Grass)』には、twilightとduskどちらも含まれる詩が一編だけ存在するのだ。
”Song of Myself(私自身の歌)” という、詩集に収録された作品の中でも非常に長い作品で、52篇に区切られている。
第49篇にtwilightとduskが登場する。
Song of Myself
(中略)
49
And as to you Death, and you bitter hug of mortality, it is idle to try to alarm me.
(1290) To his work without flinching the accoucheur comes,
I see the elder-hand pressing receiving supporting,
I recline by the sills of the exquisite flexible doors,
And mark the outlet, and mark the relief and escape.
And as to you Corpse I think you are good manure, but that does not offend me,
I smell the white roses sweet-scented and growing,
I reach to the leafy lips, I reach to the polish’d breasts of melons.
And as to you Life I reckon you are the leavings of many deaths,
(No doubt I have died myself ten thousand times before.)
I hear you whispering there O stars of heaven,
(1300) O suns – O grass of graves – O perpetual transfers and promotions,
If you do not say any thing how can I say any thing?
Of the turbid pool that lies in the autumn forest,
Of the moon that descends the steeps of the soughing twilight,
Toss, sparkles of day and dusk – toss on the black stems that decay in the muck,
Toss to the moaning gibberish of the dry limbs.
I ascend from the moon, I ascend from the night,
I perceive that the ghastly glimmer is noonday sunbeams reflected,
And debouch to the steady and central from the offspring great or small.
Whitman, Walt. The Complete Poems (Penguin Classics) (pp.122-123). Penguin Books Ltd. Kindle 版. 2004
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私自身の歌
(中略)
四九
さて、寂滅の冷厳なる抱擁、汝「死」よ、私を愕かそうとしても、それはむだだ。
産家へと、たじろがずに産科医が駆けつける、
私は手練の手が圧したり、受けたり、支えたりするのを眺める、
私は精緻な柔軟な扉の閾の傍に倚(よ)りかかり、
そして出口に目を注ぎ、また安堵と脱出の箇処にも目を注ぐ。
さて、汝「屍体」よ、私はお前は良い肥料だと思う、しかも私に少しも不快の念を与えないのだ。
私は芳しく薫って茂る白薔薇の花の香を嗅ぐ、
私は葉の唇に手を触れる、また、瓜の滑らかな肌に触(さわ)って見る。
次に、おん身「生命」よ、私はおん身を多くの死の遺物だとみなす、
(疑いもなく、私自身これまで百千遍も死んでいるのだ)。
おお、上天の星よ、私は彼処でおん身達が囁いているのを聞く、
おお、多くの太陽よ──おお、墓場の草よ──おお、絶え間なき転移と向上よ、
もし、おん身達が何事も語らなかったら、どうしてこの私が何事かを語り得よう。
秋の森蔭の水澱む小沼、
溜息をつく薄明のなか、高みより降りて来る月、
揺れ動け、昼と黄昏の閃光──腐土のなかに朽ちゆく黒い幹の上に、揺れ動け、
枯れた枝の意味なき悲歎の言葉も揺れ動け。
私は月から昇り出て、夜からも昇り出る、
私は蒼白い微光は、真昼の日光の反映であることを感知し、
そして、優れたる、あるいは劣れる後胤(こういん)から、安定したもの、中心をなすものへと進出する。
『草の葉 ホイットマン詩集』ウォルト・ホイットマン、長沼重隆(訳)、p120-122、角川書店、1999年改訂初版
上記の訳ではtwilightが「薄明」、duskが「黄昏」と訳されている。
この詩の全編にはtwilightとduskの他にも、friend、friendship、ship、opera、sail、waveといった、『TENET』を想起させる言葉が含まれている。
”A Twilight Song” は、『TENET』におけるある種の目くらましで、本命はこの壮大な ”Song of Myself” なのだ。
上記を踏まえて第49篇を見てみると、太陽の動きの他に、「死」と「屍体」と「生命」、扉や出口・脱出、そして「(疑いもなく、私自身これまで百千遍も死んでいるのだ)。」の箇所などで、『TENET』に繋がる部分を感じ取ることができる。
ただし、「死」と「屍体」と「生命」との関係性に引っかかりを感じる人も多いだろう。
特に、「屍体」のくだりにはある種のエロティシズムすら漂う。おまけにこの「屍体」に触るくだりで使われている単語reachは、『TENET』のスクリプト本で主人公がニールの死体に触るシーンのト書きにも使われている。
The Protagonist reaches through the bars and checks the body –
Christopher Nolan. TENET THE COMPLETE SCREENPLAY (pp.163). Faber & Faber Ltd. 2020
reaches (through the bars) で、柵越しに死体に手を伸ばしている。Song of Myselfの第49篇に劇中の状況を可能な限り合わせてきていることが読み取れる。
これは一体何を示しているのか?
ジャン・コクトーの『オルフェ』と『TENET』─登場人物相関図の比較
上記を説明するには、一旦ジャン・コクトー(1889-1963)の『オルフェ』に立ち戻った上で、彼の書いた随筆を説明しなければならない。
『TENET』は多くの映画からシーンを引用してきていることが明白だが、中でもコクトーの映画『オルフェ』(1950)は引用どころの話ではなく、『TENET』のストーリーの下敷きとして用いられている。詳細は下記の記事にまとめている。
【ネタバレ注意】『オルフェ』から『TENET テネット』へ─価値観のアップデート
https://note.com/include_all_8/n/n1a7c56d26899
『オルフェ』は映画になる前に、戯曲版の『オルフェ』が1926年に発表されていた。こちらを確認することによって、コクトーが表現したかったことのコアが見えてくる。
主な登場人物の相関図は下記の通りである(多少フランクだがご了承いただきたい)。
映画『オルフェ』の主な登場人物の相関図は下記のようになる。
そして『TENET』は次の通り。
『TENET』は『オルフェ』をベースに組みかえがなされている。
映画『オルフェ』でとてつもなく駄目な男だったオルフェが、悪役であるセイターに組みかえられているのだ。ただしキャットへの執着心はユリティス由来であり、またオルフェがストーリー上で担っていた役割はほとんど主人公へ引き継がれている。
『オルフェ』で強い存在感を放っていた女性アグラオニスの要素は、『TENET』では最終的にキャットに取り込まれる。憧れていた人物像になる自己形成の過程が描かれている。
特に注意したいのが、ボルコフとアイヴスの立ち位置である。
ボルコフは映画『オルフェ』における、喋る車──ロールスロイスであり、戯曲『オルフェ』における馬の立ち位置なのだ。つまり観客が「主人公はキャットに惹かれているのだろう」と考えている間に、割り入ってくるのがボルコフというトラップなのである。
また、映画『オルフェ』でオルフェ(主人公)と彼の “死” である女性とのラブロマンスが描かれていたが、『TENET』では主人公の “死” にあたる人物が男性のアイヴスになっている。ただし主人公とのロマンスはアイヴスとの間には起こらず、かといってキャットとも恋愛関係になるわけではない。アイヴスの上司であるプリヤは、主人公とは互いを利用し合う関係のままだ。
その代わり、主人公と相棒ニールとの間に、ある種のロマンティックな空気が漂っている。
ニールがウルトビーズの立ち位置で、主人公の命を方々で助けていることを踏まえれば、ニールは主人公の “生” であったと言える。
すなわち “Song of Myself” 第49篇の「死」「屍体」「生命」は、下記のように対応すると考えられる。
■「死」 →主人公の “死” であるアイヴス
■「屍体」→ニールの死体
■「生命」→主人公の “生” であるニール(存命時)
そして「(疑いもなく、私自身これまで百千遍も死んでいるのだ)。」の部分は、コクトーが『オルフェ』で実現しようとしていたことと繋がる。
オルフェ──ジャン・マレー
(中略)
オルフェという人物には、いくつかのテーマが具現化されている。
まず、マラルメの一句「遂に永遠が彼を彼自身に変えるように」(「エドガー・ポオの墓」)に要約されるテーマ。
詩人が生まれるには幾度となく死ななければならないのだ。
『ジャン・コクトー全集 第八巻 映画 その他』堀口大學・佐藤朔(監修)、p294、東京創元社、1987年
「マラルメの一句」とコクトーは書いているが、同様の思想はホイットマンにもあったのだ。
だが、それでも違和感は拭えないだろう。これは一体、何を意味しているのか?
ホイットマンからジャン・コクトーに連なる系譜
ここで、再びホイットマンの話となる。
ジャン・コクトーはホイットマンに、執拗に関心を持っていたのだ。コクトーは随筆『知られざる者の日記』の、「友情について」の項で、ホイットマンについて下記のように書いている。
ウォルト・ホイットマンの場合は恋愛的な友情に属するものではない。それは特別な場所を与えられる価値がある。訳者たちはホイットマンをカムフラージュして罪を着せたのだ。では、何によって? 彼は仲間という言葉にその真の意味を取り戻させるような友情を唄う吟遊詩人である。彼の讃歌は肩叩きの域をはるかに越えている。彼は力と力の結合を歌う。ホイットマンはジッドの告白したような交渉には反対する。ジッドが、よく知られていない地帯を擁護しようとしながら、その素描しか呈示しないのは残念なことである。ワイルドはそれを世俗的な優雅さをもって理想化する。そしてバルザックも、ワイルドに画家の家の庭におけるヘンリー卿とドリアン・グレイの対話の手本(ヴォーケール館におけるヴォートランとラスティニャックの対話)を提供するとき、やはり、ある弱さ、リュバンプレがカミュゾの家で恩人をやっつけるとき露呈する弱さを前にしたある力を、わたしたちに呈示する。
プルーストは判定者のポーズをとる。彼の作品の美しさがその高度な意味をそこなってしまう。偏執的な嫉妬に関する頁がわたしたちに公然と参考資料を提供しないのは残念なことだ。
『ジャン・コクトー全集 第六巻 評論***』堀口大學・佐藤朔(監修)、p388-389、東京創元社、1985年
「ウォルト・ホイットマンの場合は恋愛的な友情に属するものではない。それは特別な場所を与えられる価値がある。」とは、どういうことなのか?
コクトーが他に挙げている人名を見ると──アンドレ・ジッド、オスカー・ワイルド、マルセル・プルーストの3人の共通点は、明確な同性愛者であること。「ジッドの告白」とはすなわち、『一粒の麦もし死なずば』における同性愛のカミングアウトのことだ。
また、バルザックの同性愛傾向の詳細は不明瞭だが、彼の複数の作品に同性愛的描写が含まれている。ラスティニャックは『ゴリオ爺さん』の登場人物であり、ヴォートランは『ゴリオ爺さん』を含むバルザックの複数の作品に登場する。そしてヴォートランは、同性愛者であることが示唆されている。
つまりオープンリー・ゲイであったコクトーは、ホイットマンを同性愛者の系譜として語っているのである。
現代ではゲイ・アイコンとして浸透しているホイットマンだが、「同性愛者」という言葉が作り出されたのは1868年のことであって、彼が老年になるまでその言葉は浸透していなかった。彼は自らのセクシュアリティについて明言してはいなかった。
ただホイットマンの詩には、強い同性愛の要素があると何人もの学者が指摘している(ただし両性愛者だったのではという指摘もある)。
クリストファー・ノーラン監督が『知られざる者の日記』を参照していることは明白である。この点についてのヒントは、もう一つある。
この随想では「目に見えないものについて」の項などで、繰り返し楽観主義(optimism)と悲観主義(pessimism)について語っているのである。この点は主人公とニールの、コンテナ内での対話に繋がっていく。
また、「あるきかせ文句について」の項には、下記のような記述もある。
わたしが文通している女性のひとりは、覆われたままであるべきものをわたしがあまり多くの人間たちに、露(あらわ)にしてしまうと考え、わたしの映画を非難する。だがわたしは、彼女につぎのように説明したい。映画はたちまちその秘密をもつれさせるほうにまわるのであって、映像のせめぎ合いに見とれている群衆たちにまじったごく少数の人間たちにしかその秘密を明かさないものだ、と。繰り返し言うが、あらゆる宗教、および、そのひとつとしての詩は、寓話の下にその秘密をかくまい、寓話が秘密を伝播させないかぎり、けっして秘密を識ることができない人たちにしか、その秘密を認めさせてはくれないのである。
『ジャン・コクトー全集 第六巻 評論***』堀口大學・佐藤朔(監修)、p284-285、東京創元社、1985年
映画の分野においても確固として詩人であったコクトー。ノーラン監督は、この映画における秘密のあり方を見事に証明してみせたのだ。
『TENET』全編に渡って、ヒントは示されてはいるが、観客である私達は「ヒーローはヒロインと愛し合うものだ」という先入観や、逆行やエントロピーなどの量子力学的要素、「理解しようとしないで 感じて」という言葉に甘えてしまって、『TENET』の裏に隠されたテーマにたどり着くのが困難になっている。
もしくはその可能性に行き着いたとしても、選択肢から削除してしまう、という仕組みなのである。
ホイットマンとコクトーの作品に現れるオペラ
特記すべきことは、1953年に出版された『知られざる者の日記』の中扉に、コクトーの詩集『オペラ(Opéra)』の「眠る若い娘さん」から、二行抜き書きされていたことだ。
中扉には《舞踏会と酒飲みどもから遠ざかることが/何を意味するか知っている僕ら/『オペラ』》とコクトー詩の一節二行が掲げてある。『オペラ』集中の『眠る若い娘さん』から抜き書きしたものだが、これは実は、すでに一九二六年刊の『ジャック・マリタンへの手紙』で(その本扉に印刷されて)エピグラフとして一度用いられた詞句であった。(中略)繰返しの多い手法については機会あるたびにコクトーは釈明しているが、(後略)
『ジャン・コクトー全集 第六巻 評論***』堀口大學・佐藤朔(監修)、p576、東京創元社、1985年
繰り返しの技法は、ジャン・コクトーの他の詩などの作品にも表れているのだが、このことはホイットマンがオペラを愛していたことにも繋がっていく。
森山敬子氏は下記リンク先の論文『Walt Whitman’s Operatic Voice 一ホイットマンの詩とオペラの手法一』で、ホイットマンが詩作にオペラの技法を取り入れていたことを考察している。リズミカルに繰り返されるフレーズに、オペラの影響が色濃く伺える。
https://glim-re.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=973&file_id=22&file_no=1
すなわち主人公に “Do you like opera?(オペラは好きか?)”と語らせる『TENET』は、ホイットマンからコクトーに連なる系譜を掘り下げている作品なのである。
『TENET』のoperaもまた、twilightとduskと同じく暗号のようなものになっていて、”Song of Myself(私自身の歌)” の第26篇 に、一箇所だけoperaが登場している。
二六
いま私は、ただ聴いておるだけにしよう、
私の聴いたことはすべてこの歌のなかにと注ぎ込み、一切の物の音を歌のなかに投入しよう。
私は聞く、小鳥の妙音を、生長する小麦のざわめきを、焰の饒舌を、私の食事を煮る薪木(たきぎ)のはぜる音を、
私は聞く、私の愛する音、人間の声の響を、
私は聞く、すべての音がともに走り、結び合い、融け合い、あるいは追いかけるのを、
都会のなかの騒音、都会から起る雑音、昼と夜の物音、
話好きな若者達の彼等を好(す)く人達への話声、食事中の労働者の高笑い、
仲違いした友達の間の荒々しいバスの声、病める人の力なき声、
机の縁にしかと手をかけて、色を失った唇から、死刑の宣告を下す裁判官の声、
埠頭で揚荷をする仲仕達の掛声、錨(いかり)を巻き上げる水夫達の掛声の囃子(はやし)、
警鐘の乱打、火事だの叫び、色燈を掲げて疾駆(しっく)していく蒸汽喞筒(ポンプ)と水管(ホース)車の音の渦巻、
汽笛の響、やがて近づく列車のどっしりした車輪の音、
二列縦隊になって進む団体の先登で奏でられる緩やかな行進曲、
(彼等は或る遺骸の護衛にゆくのだ、旗竿(はたざお)の先は黒布で包まれている。)
私は聞く、ヴィオロンセロの音を(それは若者の胸の不平だ、)
私は聞く、音鍵のついたコルネットを、それは私の耳朶(じだ)へ急しく辷(すべ)りこむ、
それは私の胸から腹へかけて、物狂わしくも快よいうずきをかりたてる。
私は合唱を聞く、それは本格的歌劇(グランドオペラ)だ、
ああ、これこそまことの音楽──私にしっくり合っている。
潑剌たる偉丈夫のテノール歌手は、あたかも天地創造のように私を充ち足らす、
歌声は、円く彎曲(わんきょく)させた彼の口元から注ぎ出され、私を存分に堪能させてくれる。
私は聞く、洗錬されたソプラノを(これはまた何という素晴しい芸術)
オーケストラはウラナス神の跳飛よりも広い面に私を吹きとばす、
自分が持っていたのを意識しなかった程の熱情を、私から捩(も ※手偏に戾)ぎとってしまうのだ、
それは私を海へと誘う、そっと歩く私のはだしの足は、物倦げな浪の舐めるにまかす、
私は突如、痛烈な、怒ったような霰(あられ)の一撃に打ちのめされ、呼吸が苦しくなる、
やがて、甘味な麻薬のなかに浸され、私の気管は死の詐術で気息(いき)をとめられる、
そして、ついに再び謎のなかの謎を感じうるまで気が鎮まって来る、
そして、その謎こそ、私達の所謂「存在」というものなのだ。
『草の葉 ホイットマン詩集』ウォルト・ホイットマン、長沼重隆(訳)、p63-65、角川書店、1999年改訂初版
オペラと海、波の他、「警鐘の乱打、火事だの叫び、色燈を掲げて疾駆(しっく)していく蒸汽喞筒(ポンプ)と水管(ホース)車の音の渦巻、」の部分に、『TENET』の消防車と主人公の消防士姿が重なる。
『オルフェ』を作り上げたジャン・コクトーに、強い影響を与えているホイットマン。
彼の書いた “Song of Myself” を含む『草の葉(Leaves of Grass)』はいわば、『TENET』における暗号の解読書であり、また作品の世界観を作り上げている聖書的なものになっているのである。
ホイットマンと主人公─年齢の符合と主人公の “Song of Myself”
ホイットマンの『草の葉(Leaves of Grass)』は、そもそも1855年7月4日前後に36歳で初版を自費出版し、その後1982年の臨終版に至るまで、彼自ら改訂を繰り返したものである。
しかし “Song of Myself” の第1篇には、「三十七歳を迎えた私」と書かれている。
一
私は自己を礼賛し、そして、私自身を歌う、
そして、私がわがものとするものは、また君のものとするがよい、
けだし、私に属するいっさいの原子は、等しく君にも属するからだ。
そこはかとなくさまよい歩いて、わが魂をさし招き、
気の向くままに、あるいは寝そべり、またぶらつき、夏草の穂に凝(じ)っと眺めいる。
私の舌、私の血潮に流れるいっさいの原子は、この大地、この大気から作られたもの、
ここで私は両親から生れ、両親はまたその両親から、そのまた両親はさらにその両親から、
完全な健康体で、ここに三十七歳を迎えた私は今から始めるのだ、
死の日までやむことなきを希(ねが)いながら。
宗門も、学派もしばらく措く、
そのあるがままに任せて、しばらくそれらから遠のき、しかも決して忘れることなく、
清濁併せ呑む私は、万難を排して、思う存分語ってゆこう、
本然のエネルギイをそなえ、融通無礙(ゆうずうむげ)なる私の天性。
『草の葉 ホイットマン詩集』ウォルト・ホイットマン、長沼重隆(訳)、p15-16、角川書店、1999年改訂初版
そしてホイットマンは1892年に、36歳の2倍である72歳で亡くなっている。奇しくも『草の葉(Leaves of Grass)』の初版発行時期が中間地点になっているのだ。
「三十七歳を迎えた私」は、人生の折り返し地点に立っている私なのである。
『TENET』で主人公を演じたジョン・デヴィッド・ワシントンは、『TENET』全世界初公開の2020年8月26日時点で、36歳。
『TENET』で主人公はニールに、“You have only reached halfway.(君はまだ中間地点にいる)” と言われている。
つまりホイットマンと主人公、役者の年齢のタイミングを、ノーラン監督はかなり計算高く合わせてきている。
『TENET』の冒頭で、盛大に妨害されるオペラ。そして始まるのは、主人公自身の物語。
元々ホイットマンの影響下にあったジャン・コクトーの『オルフェ』を、“Song of Myself” などの要素や、引用元となる複数の作品群、現代の価値観などをからめて大胆に再編成したのが『TENET』。
『TENET』はいわば、主人公の壮大な “Song of Myself” なのである。主人公がThe Protagonistと強調されている理由はそこにある。
そして作品全体に漂うホイットマンとコクトーの存在。彼らのセクシュアリティや、 「逆転」「反転」の他に古語の医学用語で「同性愛者」という意味を持つinvertの多用から、いくつかある『TENET』の裏テーマのメインは、抑圧された同性愛者(広義ではLGBTQ)の心の開放だと導き出されるのである。
主人公にはホイットマンの存在が反映されており、主人公は同性愛者であることを隠して生きている者として描かれている。だから、ターゲットに近づく上であまり気にする必要のなさそうな、部下キャラクターのボルコフに気を取られがちだし、彼に近づく “死” も男性として設定されている。
それが主人公の秘密なのだ。『TENET』には確かにクィア映画の文脈が息づいている。
主人公とニール─本編後の二人の関係性 パート1
ホイットマンの “Song of Myself” を読み解くことによって、主人公とニールの本編後の関係性の断片を想像できるような仕組みになっている。
第49篇に続く第50篇から、最終篇にあたる第52篇までを読んでいただきたい。
原文は省略する。
五〇
それがこの私のなかにある──私はそれが何であるかを知らない──しかし、それが私のなかにあることは明らかだ。
切ない苦痛に汗しとど──やがて、私の身体は落着き、爽やかになる、
私は睡りにつく──長い、長い睡りにつく。
私にはそれが分らない──それには名前がない──それは未だ語られない言葉だ、
それはどんな辞書にもない、単なる発声であり、象徴である。
私を揺り動かしているこの地球にもまして、それを揺り動かしている何ものかがある、
それにとって、創造が友達であり、その抱擁が私を眼覚めしめたのだ。
おそらく私はもっと話してもよいだろう。大体の輪郭について! 私は私の兄弟姉妹のために主張する。
諸君にはそれが分ったろうか、おお、私の兄弟姉妹よ。
それは渾沌でもなく、死でもない──それは形態であり、統一であり、企画でもある──それは久遠の生命──それは「幸福」である。
五一
過去も、現在もやがては凋落(ちょうらく)する──私はそれらを充塡(じゅうてん)し、また空虚にした、
そして、私は私の未来の次の襞を充塡するために進発する。
そこにいる聴き手よ! 君は何を私に打ち明けようというのか。
身近かを過ぎゆく黄昏の暮色を感じつつある私の顔をよく見給え、
(率直に話し給え、誰も聞いてはいない、私はもうちょっとしかおられないのだ。)
私が矛盾(むじゅん)しているというのか。
それならばそれでよろしい、私は矛盾している、
(私は宏大だ、私は多量のものを容るるに足るものだ。)
私は身近かな親しい人達に対して専心する、私は閾(しきい)の上で彼等を待つ。
彼の今日一日の仕事を終えたものは誰か。いちばん早く夕食を済ますのは誰か。
私と一緒に散歩したい者は誰か。
君は私の立ち去らないうちに、話してくれないか。それとも君はもう晩(おそ)すぎると言うつもりか。
五二
羽毛(はね)に斑(ふ)のある鷹が、私の身近かを急降下で翔(かけ)りながら、私を責める。私の無駄口とぶらぶらなまけているのが不満なのだ。
私もまた少しも馴らされていない、この私を翻訳することも不可能だ、
私はこの世界の屋上に、野性の咆哮(ほうこう)をぶっ放なす。
過ぎゆく一日の最後の疾(と)き足どりは、私のためにいゆきためらう、
他のものに似て、また何ものよりも真実な私の似顔を、翳(かぎ)ろいの曠野の上に抛(ほう)り投げる。
そして、夕靄と薄暮へと私を誘い出す。
私は大気のごとく離(さか)りゆく。私は遁走する太陽に向って私の白髪(しらが)を打ち靡(なび)かす、
私は自分の肉体を渦まく流れのなかに撒布し、レースの切片(きれ)のように漂わす。
私は私の愛する草から、再び生えて来るように遺言して、私自身を土に遺贈する、
もし、君がいま一度私に会いたいなら、君の靴底の下に私を捜すがよい。
君には私が誰であるか、私が何を意味するか、とても分らないだろう、
しかし、何はともあれ、私は君のために、よき健康をもたらし、
また、君の血液を清浄にし、力を与えよう。
初めに一度私を捉え損ねても、失望してはならない、
一箇所で私を見喪ったら、ほかの場所を捜して見るがよい、
私はどこかに停まって、君を待っているからだ。
『草の葉 ホイットマン詩集』ウォルト・ホイットマン、長沼重隆(訳)、p122-125、角川書店、1999年改訂初版
第52篇の3連目にある「薄暮」が、原文ではduskとなっている。なお、第51篇の2連目に「黄昏」とあるが、これはtwilightではなくsidle of eveningとなっている。
老いて死にゆく「私」が、まだ若いだろう「君」に語りかける姿に、主人公とニールを重ね合わせることができる。
第50篇に書かれている、「私のなかにある」「名前がない」「未だ語られない言葉」で「どんな辞書にもない」ものとはなんであるか。これについてはぜひ想像していただきたい。
実はまだまだ、『TENET』後の彼等を想像できる重要な引用元作品群があるのだが、それは次回の記事で説明することにする。
『TENET』のtenetとは?
実はtenetという単語も、『草の葉(Leaves of Grass)』に一箇所しか出てこない。
“Song of Myself” ではないが、“The Base of All Metaphysics(あらゆる形而上学の基礎)“という詩にある。
The Base of All Metaphysics
And now gentlemen,
A word I give to remain in your memories and minds,
As base and finalè too for all metaphysics.
(So to the students the old professor,
At the close of his crowded course.)
Having studied the new and antique, the Greek and Germanic systems,
Kant having studied and stated, Fichte and Schelling and Hegel,
Stated the lore of Plato, and Socrates greater than Plato,
And greater than Socrates sought and stated, Christ divine having studied long,
(10) I see reminiscent to-day those Greek and Germanic systems,
See the philosophies all, Christian churches and tenets see,
Yet underneath Socrates clearly see, and underneath Christ the divine I see,
The dear love of man for his comrade, the attraction of friend to friend,
Of the well-married husband and wife, of children and parents,
Of city for city and land for land.
Whitman, Walt. The Complete Poems (Penguin Classics) (p.154). Penguin Books Ltd. Kindle 版. 2004
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あらゆる形而上学の基礎
さて、諸君よ、
あらゆる形而上学(けいじじょうがく)の基礎として、また、その究極として、
諸君の記憶と心の裡(うち)に、永く残る一言(ひとこと)を私は申し述べよう。
(多くの聴講生たちを集めた彼の講演のおわりに、この老教授は学生たちに向かって言った)。
新旧の、ギリシアおよびドイツの諸学説を渉猟(しょうりょう)し、
カントをはじめ、フィヒテ、シェリングとヘーゲルを研究し、解説し、
プラトンの学を祖述し、また、プラトンよりも偉大なソクラテスを、
また、ソクラテスよりも、さらに偉大なる者を探し求めて詳(つぶ)さに述べ、聖者キリストを永い間考究して来た、
私は今日(こんにち)、それらギリシアおよびドイツの学説を回想的に眺め、
あらゆる哲学を、また、キリスト教のかずかずの教会と、もろもろの教義とを回想的に省察して見て、
しかも、ソクラテスの奥のほうに明らかに見、また、キリストの奥のほうに私は見るのです、
人がその同志に対する新しい愛を、友人に対する友人の引力(いんりょく)を、
幸福に結婚した良人(おっと)と妻の、子供と両親の、
都市に対する都市の、そして、国家に対する国家の愛と引力を。
『草の葉 ホイットマン詩集』ウォルト・ホイットマン、長沼重隆(訳)、p130-131、角川書店、1999年改訂初版
形而上学とは、哲学の一分野のことだ。
1 アリストテレスでは、あらゆる存在者を存在者たらしめている根拠を探究する学問。すなわち第一哲学または神学。
2 現象的世界を超越した本体的なものや絶対的な存在者を、思弁的思惟や知的直観によって考究しようとする学問。主要な対象は魂・世界・神など。
コトバンク「形而上学」 デジタル大辞泉の解説
https://kotobank.jp/word/%E5%BD%A2%E8%80%8C%E4%B8%8A%E5%AD%A6-58856
tenetは「教義」と訳され、キリスト教の教義として語られているが、その前後を見るとキリスト教だけではなく、ギリシアやドイツの哲学と一絡げにされている。
すべてを含めた根底にある基礎として、同志・友人・夫婦・親子・都市間・国家間の愛や引力が重要だと説いているのだ。
『インターステラー』でも、難解なサイエンスフィクションにからめて愛を説いていたクリストファー・ノーラン監督。『TENET』でもそれは同様に行われていた。重要なのは愛や引力なのである。
ただし、ホイットマンがfriendという単語を使うとき、それは意味深なものとなる。
結局のところ、『TENET』のbeautiful friendshipとは一体何なのだろうか?
それについては、中編の記事でじっくりと語る予定だ。
「CANNON PLACE N.W.3.」
『TENET』でマックスが通う学校が建つキャノン・プレイス、綴りはCANNON PLACEなのであるが、前半でここの看板が映るとき、2度ともNが1字街灯で隠されCANON PLACEとなっている。
ラストシークエンスでは隠されずCANNON PLACEと映っている。おそらくこれも意図的だろう。
実はcanonは『草の葉(Leaves of Grass)』 に一箇所だけ出てきている。“AUTUMN RIVULETS” と題された詩のコレクションの中の、“As Consequent, Etc.”にある。
そしてcannonも『草の葉(Leaves of Grass)』の “Song of Myself” にある。劇中の看板が「CANNON PLACE N.W.3.」であり、また3時にキャットが主人公へ電話をかけていることから、3度目に出てくるcannonと見て、第33篇である可能性が高い。
さらにダブルミーニングも考えられる。
canonにはキリスト教用語で教会法や教会法令集、正典という意味の他に、(倫理・芸術上の)規範・規準、スラングの意味で、映画などのフィクション作品における「正史」「公式設定」などの意味もある。
正典に言及するならば、キリスト教は次第に同性愛に寛容にはなってきているが、教派や聖職者によっても対応が異なっている。
https://ejje.weblio.jp/content/canon
対してcannonは、名詞だとキャノン砲、機関砲という意味の他に、主にイギリスで用いられる玉突きの意味のキャノン(手球が続けて2つの目的球に当たること)。
また動詞では大砲を撃つ、砲撃する。イギリスで用いられる玉突きのキャノンを突く、〜に激しくぶち当たる、衝突するの意味がある。
https://ejje.weblio.jp/content/cannon
爆弾は爆発しなかった……などとニールにモノローグで語らせておきながら、canonをcannonした──別のものをしっかり砲撃していたともとれるのである。
実は、上記以外でも「キャノン・プレイス」が『TENET』において重要である可能性が高いのだ。それについても次回ご説明したい。
《余談1》やたらと詩を繰り出してくる男、セイター
セイターはロシア生まれであるにもかかわらず、英語の詩を度々繰り出してくる。
これは『TENET』で下敷きにされている『オルフェ』で、セイターに該当する人物オルフェが詩人であるためと推察される。
船の上で、セイターは毒薬を見つめながら下記のようにつぶやいている。
SATOR
The way the world ends, not with a bang but a whimper.
Christopher Nolan. TENET THE COMPLETE SCREENPLAY (pp.163). Faber & Faber Ltd. 2020
上記はホイットマンではなく、T・S・エリオットの “The Hollow Men” の最終連に近い。
This is the way the world ends
This is the way the world ends
This is the way the world ends
Not with a bang but a whimper.
T.S. Eliot “The Hollow Men”
https://allpoetry.com/the-hollow-men
セイターの台詞では “This is”が省略されている。既存の詩から引用するとしても、多少細部を変えてきているのだ。
また、“The Hollow Men” にはtwilightが2度出てくる。“In the twilight kingdom” と、“Of death’s twilight kingdom” の部分である。この詩は全体的に空虚さやむなしさに満ちていて、力強いホイットマンの詩とは真逆だ。
セイターはボルコフに殴られて傷だらけになった主人公に、「黄昏に生きる(But we do live in a twilight world . . .)」と例の合言葉を言う。
セイターもまた、twilightという単語に自らの死を感じ取っているのだろうが、“The Hollow Men” の件を踏まえると、セイターのtwilightはホイットマンではなく、T・S・エリオットの詩のイメージであった可能性が高い。
そして問題は、船の上、キャットの目の前でセイターが主人公と電話で話すシーンである。このシーンでセイターは、非常に謎めいたことを言っているように見える。
下記引用で、キーとなる単語を太字とする。
INT. TUNNEL, STALSK-12 — DAY
(中略)
PROTAGONIST
Now you’re makimg the same mistake for the entire world.
SATOR
(over phone)
It wasn’t a mistake. I made the bargain I could. What was yours? You fight for a cause you barely understand. With people you trust so little you‘ve told them nothing about what you’re doing. When I die the world dies with me. And your knowledge dies with you. Buried in the tomb like an anonymous Egyptian builder sealed in the pyramid to keep his secret . . .
(中略)
EXT. PRIVATE DECK, SATOR’S YACHT — EVENING
Sator speaks into his phone —
SATOR
Your faith is blind. You’re a fanatic.
PROTAGONIST
(over phone)
What’s more fanatical than trying to destroy the world?
(中略)
SATOR
I’m not. I’m creating a new one. Somewhere, sometime, a man in a crystalline tower throws a switch and Armageddon is both triggered and avoided. Entropy inverts the same way the magnetic poles have switched 183 times over the millennia. Now time itself switches direction.
Christopher Nolan. TENET THE COMPLETE SCREENPLAY (pp.165). Faber & Faber Ltd. 2020
セイターが急にエジプト人やらピラミッドやら言い出して、どうしたのかと思うだろう。
上記で太字にした語は、ホイットマンの初期作である “Pictures” という詩に出てくる。『草の葉(Leaves of Grass)』には含まれていない詩だ。
Pictures
In a little house pictures I keep, f many pictures hanging suspended – It is not a fixed house,
It is round – it is but a few inches from one side of it to the other side,
But behold! it has room enough – in it, hundreds and thousands, – all the varieties;
- Here! do you know this? This is cicerone himself;
And here, see you, my own States – and here the world itself, through the air;
And there, on the walls hanging, portraits of women and men, carefully kept,
This is the portrait of my dear mother – and this of my father – and these of my brothers and sisters;
This, (I name every thing as it comes,) This is a beautiful statute, long lost, dark buried, but never destroyed – now found by me, and restored to the light;
(中略)
There is an old Egyptian temple – and again, a Greek temple, of white marble;
(中略)
This, again, is a Spanish bull-fight – see, the animal with bent head, fiercely advancing;
(中略)
But here, now copious – see you, here, the Wonders of eld, the famed Seven,
The Olympian statue this, and this the Artemesian tomb,
Pyramid this, Pharos this, and this the shrine of Diana,
(中略)
And here, behold two war-ships, saluting each other – behold the smoke, bulging, spreading in round clouds from the guns and sometimes hiding the ships;
And there, on the level banks of the James river in Virginia stand the mansions of the planters;
And here an old black man, stone-blind, with a placard on his hat, sits low at the corner of a street, begging, humming hymn-tunes nasally all day to himself and receiving small gifts;
(中略)
In the height of the roar and carnage of the battle, all of a sudden, from some unaccountable cause, the whole fury of the opposing armies subdued – there was a perfect calm,
It lasted almost a minute – not a gun was fired – all was petrified,
It was more solemn and awful than all the roar arid slaughter;
- And here, (for still I name them as they come,) here are my timber-towers, guiding logs down a stream in the North;
(中略)
For wherever I have been, has afforded me superb pictures,
And whatever I have heard has given me perfect pictures,
And every hour of the day and night has given me copious pictures,
And every rod of land or sea affords me, as long as I live, inimitable pictures.
Whitman, Walt. The Complete Poems (Penguin Classics) (pp.665-672). Penguin Books Ltd. Kindle 版.
ホイットマンの詩に出てくる語をランダムに織り交ぜてくるセイター。そして主人公の言にもセイターに呼応するように、詩の断片であるdestroyが降りてきている。
田村晃康氏は論文『ホイットマンの創作過程について』で “Pictures” に触れており、「これは,いわば,文字通りホイットマンのイメージ(pictures)の宝庫なのであり,多くの詩が胚胎する母体となっているばかりか,そのさまざまな部分が他の詩篇中に生かされている点でも,一つの典型なのである。」と述べている。
https://repository.lib.gifu-u.ac.jp/bitstream/20.500.12099/47384/1/reg_040012008.pdf
“Pictures” から派生した詩の一例として、『草の葉(Leaves of Grass)』のCalamusという詩群に含まれる “Salut au Monde!” 第10篇を紹介する。
Salut au Monde!
(中略)
10
I see vapors exhaling from unexplored countries,
I see the savage types, the bow and arrow, the poison’d splint, the fetich, and the obi.
(140) I see African and Asiatic towns,
I see Algiers, Tripoli, Derne, Mogadore, Timbuctoo, Monrovia,
I see the swarms of Pekin, Canton, Benares, Delhi, Calcutta, Tokio,
I see the Kruman in his hut, and the Dahoman and Ashantee-man in their huts,
I see the Turk smoking opium in Aleppo,
I see the picturesque crowds at the fairs of Khiva and those of Herat,
I see Teheran, I see Muscat and Medina and the intervening sands, I see the caravans toiling onward,
I see Egypt and the Egyptians, I see the pyramids and obelisks,
I look on chisell’d histories, records of conquering kings, dynasties, cut in slabs of sand-stone, or on granite-blocks,
I see at Memphis mummy-pits containing mummies embalm’d, swathed in linen cloth, lying there many centuries,
(150) I look on the fall’n Theban, the large-ball’d eyes, the side-drooping neck, the hands folded across the breast.
I see all the menials of the earth, laboring,
I see all the prisoners in the prisons,
I see the defective human bodies of the earth,
The blind, the deaf and dumb, idiots, hunchbacks, lunatics,
The pirates, thieves, betrayers, murderers, slave-makers of the earth,
The helpless infants, and the helpless old men and women.
I see male and female everywhere,
I see the serene brotherhood of philosophs,
I see the constructiveness of my race,
(160) I see the results of the perseverance and industry of my race,
I see ranks, colors, barbarisms, civilizations, I go among them, I mix indiscriminately,
And I salute all the inhabitants of the earth.
Whitman, Walt. The Complete Poems (Penguin Classics) (pp.174-175). Penguin Books Ltd. Kindle 版.
階級や人種、性別など関係なく、「私は地球のすべての住民に敬礼する」。当時としては非常に先進的なホイットマンの人権意識が伺える。
また、レストランのシーンで主人公がキャットに “At betrayal.(裏切りで)” と言うが、 “Salut au Monde!” の第10篇には少し近い語のbetrayersも交じっている。
《余談2》crystalline tower の中にいる男
ただし、上に挙げたセイターの台詞には、crystallineやmagnetic、poleなど、“Pictures” 以外の他の詩に出てくる語も出てきている。
例えばcrystallineは、“Our Old Feuillage” という詩に次のように表れている。
The hawk sailing where men have not yet sail’d, the farthest polar sea, ripply, crystalline, open, beyond the floes,
Whitman, Walt. The Complete Poems (Penguin Classics) (p.202). Penguin Books Ltd. Kindle 版.
ここで、セイターが言ったcrystallineを含む台詞に注目したい。
Somewhere, sometime, a man in a crystalline tower throws a switch and Armageddon is both triggered and avoided.
(どこかで、いつか、crystalline towerの中の男がスイッチを切り替えると、アルマゲドンが誘発され、そして回避される)
crystalline towerの中の男とは、一体誰なのか?
下記の画像をご覧いただきたい。
crystalline towerの中にいる男は、実はニール(Neil)だったのである。
『TENET』において、Neilをアナグラムしたlineの出現は、ここだけではない。Travis Scott “THE PLAN” の歌詞にも4回、lineの語が出てくる。
“THE PLAN” の歌詞については、下記の記事を参照のこと。
【ネタバレ注意】Travis Scott “THE PLAN” 和訳─『TENET テネット』の真意とは
https://note.com/include_all_8/n/n8366391c7bb3
『TENET』で引き合いに出されるのがSATOR式の回文だが、逆読みはアナグラムの一種なのだ。回文がアナグラム使用のヒントになっている。
セイターは劇中で一度もニールと直接会話しておらず、ニールの名前を直接口にすることもなかった。
しかしここでセイターは暗に、ニールのことを知っていると、主人公に伝えているのである。それを暗号めいた言葉にした理由は不明だが、キャットがセイターの目の前にいたためとも考えられる。
そして主人公は、おそらくだが、セイターの言葉の意味を理解したのではないだろうか。
ニールが切り替えたスイッチというのは、アルマゲドンを引き起こすスイッチということではなく、自らの順行・逆行のスイッチだろう。その後に “Now time itself switches direction.(今、時間自体が方向を変える)” と続くため、その前の文章のswitchは、時間全体の切り替えのことを指してはいないと読み取れる。
どこかで、いつか、ニールが(順行・逆行の)スイッチを切り替えると、アルマゲドンが誘発され、そして回避される──
これはどういうことなのか?
この件は、あちこちでささやかれているニール=マックス説にもつながっていく。ニール=マックス説については、考察の中編でさらに詳しく触れる予定。
推測される『草の葉(Leaves of Grass)』の参照箇所
他にも、下記の単語が『草の葉(Leaves of Grass)』の参照箇所として推測される。
■Tomas (Arepo) のアナグラムatomsの単数形atomより→ “Song of Myself” 第1篇
■14th(14日)→ “Song of Myself” 第14篇
■rotas→wheelと置き換えるとみて “Song of Myself” 第15篇もしくは第45篇
■sator→farmerと置き換えるとみて “Song of Myself” 第15篇もしくは第16篇。またはploughmanと置き換えるとみて “As I Watch’d the Ploughman Ploughing”。特に “As I Watch’d the Ploughman Ploughing” には生と死のイメージが漂っており、こちらである可能性が非常に高い。
As I Watch’d the Ploughman Ploughing
As I watch’d the ploughman ploughing,
Or the sower sowing in the fields, or the harvester harvesting,
I saw there too, O life and death, your analogies;
(Life, life is the tillage, and Death is the harvest according.)
Whitman, Walt. The Complete Poems (Penguin Classics) (p.467). Penguin Books Ltd. Kindle 版. 2004
次回予告
■ホイットマンならびに、ジャン・コクトーの『オルフェ』以外にも、『TENET』を形作る要素として重要な作品群がある。これを読み解き、beautiful friendshipの謎に迫る。
■視線の重要性。
■ニールの鍵開け要素がどこからやってきたのか。○○○○への皮肉。
■キャサリン・バートンはなぜ愛称がKatなのか。
■主人公がボルコフに言う“Hey!, easy fella, where I come from, you buy me dinner first.” の台詞はどこからどういう風にやってきたのか。
■主人公からキャットの首キス。
■ガソリンで車炎上の件。
■逆行を多用したルドウィグ・ゴランソンの音楽について。
■ニール=マックス説の肯定、「主人公とニール─本編後の二人の関係性 パート2」。
■余裕があったらゴヤについても触れる予定。
……盛り込みすぎではないか? 文字数は大丈夫なのか?
どうか期待せずお待ちいただきたい。
その他の参考文献
■『ジャン・コクトー全集 第七巻 戯曲』堀口大學・佐藤朔(監修)、東京創元社、1983年
■『ジェンダーと「自由」 理論、リベラリズム、クィア』三浦玲一・早坂静(編著)、彩流社、2013年
■Williams, James S. Jean Cocteau (French Film Directors). Manchester University Press. 2006
■Doty, Mark. What Is the Grass: Walt Whitman in My Life. W. W. Norton & Company. 2020
■Walt Whitman is our national poet, and a gay icon
https://www.northjersey.com/story/entertainment/2019/04/22/walt-whitman-200-one-worlds-great-gay-literary-icons/3429639002/
※無断転載は固く禁じます
追記 2020/11/17
『TENET』スクリプト本の引用で、reachしているのは死体だというご指摘をいただいたので修正しました。
追記 2020/11/23
11/22に記事の微調整をかけた際、ブラウザの自動翻訳で英文部分が一部勝手に和訳されたまま保存されてしまったようです…なんだそれやめてほしいそういうの…。
修正しましたが11/22〜11/23の間に当記事をご覧になった場合は、誠にお目汚し申し訳ございません…。
追記 2020/11/25
余談として、下記2項目を追加しました。
■《余談1》やたらと詩を繰り出してくる男、セイター
https://note.com/include_all_8/n/n09e92f727a1e#Dw3un
■《余談2》crystalline tower の中にいる男
https://note.com/include_all_8/n/n09e92f727a1e#eNtf4
追記 2020/12/16
考察続きの《中編》が出ました。
【ネタバレ注意】beautiful friendshipの秘密《中編》─ジャン・コクトーと “L’Éternel retour” の思想から読み解く『TENET テネット』
https://note.com/include_all_8/n/ndb7103e2ce40
追記 2021/02/09
《余談2》を修正し、「セイターは劇中で一度もニールと直接会話しておらず、ニールの名前を直接口にすることもなかった。」としました。