【ADHD】ドジっても傷つかない考え方
昨日、しょうもないドジをした。
大した事ではないんだけど、そういえば自分ドジだったって、思い出した。
こういうことが起きると、
あ~あ~またやっちまったよ、って毎回落ち込む。
そろそろなれたらいいのに。
ただ、昔より成長したなと思うのが、自分のドジによって、自分を責めてしまっていることに気付いている。し、どうしてそれが起きるのかも理解できている。
それでも落ち込むことには変わりないから、
解決策を模索する。
まず、実際に起きたドジを紹介する。
ティーポットにお湯を注ぎ、ポットの取っ手を右手で持ち、左手で注ぎ口に指を添えて、お茶を淹れる。
…
そして、お湯を注ぐと同時に、左手の指をやけどする。
え?
なんで注ぎ口に左手添えてんの? お湯がかかるに決まってんじゃん。
そうなんだよなぁ
弁解タイム。
右手だけではポットを支えられなかったから、左手で支えようと思い、右手の反対側の安定する位置に左手を添えた。
そこがたまたま注ぎ口でもあったので、お湯が指に直撃した。
ADHDは今を生きている と、言われる。
左手でポットを支えるときは、もう支えることしか考えていない。
ちょっと前にポットにお湯を注いだこと(お湯も自分で沸かしている)、これからお湯を注ごうとしていることが頭にない。
お湯を注ぐときも、ついぞ左手をポットの注ぎ口に添えていることなんて、考えていない。
その結果、完全に自分のせいで左手にお湯をかけてしまったのである。
熱いし、自分でも意味わかんないし、悲しい。
ポットを持つときは注ぎ口には手を置いちゃだめだなって、
意識しないといけない。
ミスると意識することはできるから、少しずつこういうドジは減っていく。
小さい頃はもっとひどかった。
お湯を注ぐだけのカップラーメンはまだましだが、お湯を捨てる作業があったり、かやくが1種類以上あるインスタント食品を作るのも一苦労。
気づけば麺が器に入りきらずにテーブルの上がスープ浸しになっていたり、ゆでたパスタがキッチン床にすべて落ちて行ったり。
インスタント麺はつくれるようになったが、パスタのケースはほんの2~3年前の出来事である。
だから料理嫌いだったんだよな~
だけど、一つ一つ心を痛めながら記憶に焼き付けているし、どうしてそうなってしまったかを理解することもできるようになったら、同じドジはあまりしなくなった。
その結果、ドジの総量はだいぶ減った。
でもまだ新たなミスは無限に出てくる。
ドジっこのマインドセット
そのたびに自己肯定感を小さく傷つけていくことになれば、精神を健康に保つことを阻害する。
笑ってごまかすのも、傷ついていることには変わりないから、意味がない。
どうするか。
そういえば、何かで聞いたことがある。
もし同じことを他人がしていたらどうか を考えてみる。
「やけどしてかわいそう」
単に、そう思う。
ドジだなぁとか、なんでそんなことしたんだ、とかじゃなくて、
大丈夫?って心配になったり、
ポットがつるつるしてて持ちにくかったんだね。不運だったね。って、思う。
この姿勢を他人には向けられるけど、自分にはなかなか向けられない。
どうしても自分には厳しくなってしまう。
自分を他人と同じように大切にすればいい。
思い出せてよかった。
自分、かわいそ。よしよし。