短髪と振袖~ハレの日の悶着~
成人のみなさん、成人おめでとうございます。
七年前、振袖を着て会場まで歩いていると「おめでとうございます」って知らないおばあさんから言われたのを思い出した。
街なかでランダムなひとに祝われるはじめての経験に半分驚きつつも、ちゃんとうれしかったのを覚えている。
自分もお祝い者を見かけたら、不審にならない範囲でおめでとうって言いたい(言えたためしはない)。
自分の成人式を思い出すと、すこし苦い思い出。
ハレの日は大抵、ジェンダークィアの自分にとって社会規範と自分らしさのギャップを思い知らされる日なのでひともんちゃくあるのだが、
「大人」になってからの最初の悶着としてこの成人式が挙げられる。
何かというと、
仲良しだと思っていた中学の同級生から一緒に行くのを断られたのは悲しい思い出だが、それ以上に「振袖」が地獄ということである。
当時は性自認がはっきりしていなかったし、周囲の大人の意向に意思を介在させる経験もあまりなかった(おとなしくイエスと言っているだけの若者だった)、のでこの事態を事前に防ぐことができなかった。
振袖を着た当時の気持ちとしては、楽しくない。テンションが下がる。という感じ。
どれだけ化粧をしても髪の毛を整えても何が正解なのか、美しいのかちっともわからなかった。もはや醜いとすら思う。
ただ、当時のつらさよりも、今まで続くモヤモヤの蓄積のほうがつらさの核かもしれない。
性自認が明確化したいまの自分から当時の自分をみると、振袖の似合わなさや性自認の自覚の乏しさ、意思の無さに悲しくなる。
前撮りやアルバム作成もしてしまっていたので、そんなテンションの下がる服を着るために多大な労力・コスト・時間を割かせてしまったことに対して、申し訳なさも感じる。
(服そのものへもごめんだし、メイクしてくれたひと、着付けしてくれたおばあさん、親等々)
性自認や性表現が明確化して「あれは嫌だった」と感じれば感じるほど、申し訳なさが募る。
そして、自分らしいスタイルでハレの日を楽しめなかった悔しさもある。(良い思い出として取り出してあげたかった。)
「振袖を着れる貴重な機会だから着ておいた方がいい。」という親切心は「やらない後悔より、やる後悔」という定理に当てはめれば正しかったのかもしれないけど、本当はやるかやらないかではなく、やらないの裏に第三の道があった。
裏まで見えてなかった。
振袖を着る、着ない。ではなく、着ないということは、何か別のものを着る(自分らしい表現をする)チャンスだった。
当時はその第三の道的なものは見えなかったし、今ほど多様性もバズってなくて、全然その道を見いだせなかった。情弱。。無念。
いまは大学の卒業式や成人式に振袖/袴ではなくスーツだったり好きな服を着てひとも増えているらしい。
とはいえ、晴れ着を着たくない理由で成人式に行けないマイノリティも実際にはたくさんいて、そんな人向けの非公式の成人式イベントをしている団体があったりもする。(自分もリベンジ成人式、いつか行こうかと思ってる。)
自分みたいに後悔地獄に陥らないように、性自認や性表現を早めに確立して、好きな服を着て成人式にいけているひとが増えていてほしい(ただの老婆心)。
そしてそれを周りから受け入れられて「いいね」「おめでとう」と言ってもらえていたらとてもうれしい。
成人式にいっているひと、いけなかったひと
たのしんでるひと、もやもやしているひと
ぜんぶひっくるめて
成人のみなさん、本当におめでとうございます。
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