ヒーリングっどプリキュア考察~ニーチェから見るプリキュアとビョーゲンズ
私は大学でニーチェについて勉強しています。ニーチェの思想を初めて学んだ時、私は彼の語る道徳批判や永遠回帰の想定によって、私自身の持つ負の感情が暴かれてしまうような感覚を覚えました。とはいえ、弱者の一人にすぎない私は、ニーチェの背中を追いかけることはできません。それでも、彼の思想は私をつかんで離さないのです。
そんなニーチェですが、彼の思想はプリキュアとも重なる点があるように思われます。その一つが、ヒーリングっどプリキュアです。ニーチェは真の生の肯定を目指した哲学者ですが、主人公の花寺のどかの「生きてるって感じ!」という言葉は、逆境を乗り越えて生の良さに気付いたという点で、ニーチェの思想とも近しいものがあるように思います。そこで今回は、ヒーリングっどプリキュア(以下ヒープリとします)を、ニーチェ的な視点から解釈していきます。
個人的にヒープリで強く印象に残っている場面は、のどかが敵であるダルイゼンの救済を拒否する場面です。ダルイゼンはキングビョーゲンの下から命からがら逃げ出し、のどかの身体にかくまってほしいと懇願しますが、彼女はそれを拒絶します。プリキュアといえば近年は和解エンドも多く、敵さえも包み込み優しさも含めてプリキュアの強さだと私は考えていたため、この展開は非常に衝撃的でした。のどかに見捨てられたダルイゼンは次のような言葉を残します。
ダルイゼンがのどかを苦しめ、そして自然をむしばんできたことを考えると、たしかに彼を助ける道理はありません。しかし、ここで考慮に入れるべきは、ダルイゼンが人間や自然に迷惑をかけてきたのは、自らの生を守るためである点でしょう。自分たちの生を拡大するために、他に迷惑をかけるというのは、人間もさして変わりません。そのため、この場面でダルイゼンを拒絶したのどかの態度は、道徳的に正しいとまでは言えないのです。実際、彼女は自身の選択の是非について悩み、自分を責めます。そんな彼女に言葉をかけるのが、ヒーリングアニマルのラビリンです。
彼女は他者を救うことよりも、自らの生を守ることを選びました。それは他でもない彼女自身のためなのです。つまりのどかの悩みは「そうした方がよかった」と「私どうしても嫌」という、道徳的規範と自らの感情との葛藤にあったことになります。ところが、後者の感情が自らの生のために必要なものであるとするならば、そもそも前者の道徳的規範は生に有害なものであるという可能性はないでしょうか。これがのどかとニーチェの思想に共通する点であると、私は考えます。
ニーチェは一般的な道徳規範を、生に否定的で危険なものであるとします。たとえば、彼はカントの定言命法、つまり、理性が下す普遍的な命令について「定言命法からは残酷さが臭う……」(中山元訳,2009「道徳の系譜学」Ⅱ六 光文社) や「カントの定言命法を生に危険なものと感じなかったとは!」(西尾幹二訳,1995「アンチクリスト」十一 『ニーチェ全集第四巻(第Ⅱ期)』白水社) といった仕方で批判しています。したがって、道徳は時に生にとっては有害なものになりうるのです。しかしのどかは、自ら病気を克服した経験も活かして、道徳による生の危機も乗り越えました。その意味で彼女は、ニーチェの意味で生の肯定を果たした人間、強者であると考えられるかもしれません。
また、人間という依り代がなければ生きられないという点では、ダルイゼンをニーチェの批判対象である、ルサンチマンを抱いた弱者のように考えることもできます。ニーチェはルサンチマン、つまり強者に対する恨みを抱いた弱者について次のように説明します。
弱者は強者に「悪人」というレッテルを貼ることで、それと対照的な自分たちを「善人」であると考えます。つまり、彼らは強者に想像上の復讐を果たすことでしか、自分自身を肯定できない人間なのです。これは、他者に依存することでしか生きられない、ダルイゼンを含むビョーゲンズとも、重ねることができるでしょう。
このように、ヒープリとビョーゲンズとの関係は、ニーチェにおける強者と弱者の関係としても見ることができます。ただ、ここで問題となるのは自然も含めた三者の関係性です。人間もビョーゲンズも、自然に依存しなければ生きることができないため、その意味ではプリキュアも弱者の一部にすぎません。実際最終回で、テアティーヌ様は
と、いずか人間と戦う可能性さえ示唆しています。私はヒープリにおける自然は絶対者(≒神として)であり、彼らに抗うことは不可能であるため、こうした点も含めて、人間とビョーゲンズ、そして自然との関係は整理し直す必要があると考えます。これについては、また次の機会に考察していきます。