「獅子舞メガネ」とは何か?都市の空白を探す方法
あなたはメガネをお持ちだろうか?メガネといえば着脱が簡単にできる上に、視力の補助や目の保護など様々な役割がある。一旦、メガネをかけてしまうと、それを頼らずにはいられなくなる。時には見たくないものだってあるだろうが、人間は目の前の風景を解像度高く眺めたい生き物らしい。
今回、オススメしたいのは「獅子舞メガネ」である。このメガネをかけるには、少々訓練が必要だ。しかし、一度かければ、その面白さにどっぷりハマってしまって抜け出せなくなる。そういう底なし沼の魅力を持っている。さあ、獅子舞メガネとは何か?そして、このメガネをかけるにはどうしたら良いか?を解説していきたい。
獅子舞メガネとは何か?
今住んでいる土地をじっくりと観察してみよう。獅子舞が見せてくれる景色は今まで見てきた風景をガラリと変える力がある。普段気がつかなかった盲点に気づかせてくれることだろう。獅子舞の視点とは、「誰が獅子舞を被るか?」によっても多少変わってくる。だから、その微妙なズレとともに、未知なる視点が秘められていることをまずここで断っておこう。その上で、獅子舞的視点の一例として、以下のような見方があることを紹介しておきたい。
歩道の余白
人間が着ぐるみとしての獅子舞を被るわけだから、人間よりも少し体が大きくなる。つまり、必然的に歩道の占有率は高まり、道幅が狭いと通行人を邪魔してしまう。ちなみに、都市部は交通量が多いため歩道から車道にはみ出すことができないし、地方は車社会だから歩道を確保しようという意図が見られない。結果的に、車は獅子舞の生息を過度に阻害していることに気づくべきだ。車がいないばかりか雨風雪などの悪天候を防ぐことができる地下歩道を作ったのは一見すると人類の英知だと思うが、地下歩道に潜る動作のムダと息苦しさがあることは否めない。「この道は通れそうだが、この道は通れなさそう」などと想像を膨らませ、歩道の余白に想いを馳せるようになれば、獅子舞的視点に一歩近づいたと言えるだろう。
建物の余白
歩道だけ見ていてもしょうがない。土地の多くの面積を占める建物にも想いを馳せる必要がある。日本全国の建物は江戸時代、圧倒的に2階建ての藁葺き屋根、あるいは瓦葺き屋根が多かったはずだ。玄関があり、庭があり、想い想いの植物を育てて暮らしていた。しかし、今では分譲マンションやテナントが入ったビル、団地などが台頭して、高くて庭がない水平垂直の建物ばかりが増えてしまった。それゆえ、獅子舞という野生的で情緒あふれる不器用な生き物が生息できるような建物は少なくなってしまった。重くて大きい獅子舞は上下運動が苦手だ。だから、階段を上ったり降りたり、エレベーターやエスカレーターに乗るのも一苦労である。
見知らぬ他者に対する寛容さ
いつかのテレビ番組で、東京と大阪でティッシュ配りをしたら、大阪の方が圧倒的に減りが早かったという実験結果を放送していた。大阪でティッシュを受け取ってくれた人にインタビューした映像が流されていて「わしがティッシュもらったら、少しでも仕事減るやろ」と言っていたのが印象的だった。人々は獅子舞に対して無病息災などなんらかの願いを託すことで、精神的な安定を得る。そこには人間と獅子舞との間に信頼関係が生まれねばならない。信頼関係を築くのに必要なことは、「見知らぬ他者に関心を向ける」ということだと思う。現代人は匿名でのインターネットやSNSへの書き込み、東京都心部での飲み倒れやポイ捨て、落書きなどで、何かモヤモヤしているものを解消していく。居住しているプライベート空間や知人に迷惑をかけない形でそれがエスカレートしていくものだから怖いもの無しだ。誰が犯人かもわからないし関わりを持ちたくないから、道端には禁止看板が乱立して、監視カメラがどんどん設置されていく。その先にあるのは、見知らぬ他者がどう思うかも想像しない無責任な社会である。町に出たら人間観察をしてみよう。その表情や仕草や行動をじっと観察していると、獅子舞に対する優しさがあるかを見抜くことができるだろう。
獅子舞メガネをかける方法
以上のように、獅子舞メガネをかけるということはある意味、獅子舞の気持ちを必死に理解しようとする心の持ち様のことだと言える。理解が進めば進むほど、その引き出しは増えてくる。それはつまり、獅子舞メガネの多様なフレームを手に入れたことに他ならない。そのフレームが増えれば増えるほど、暮らしに対する見方が変わってくる。この場所に住みたいとか、この場所には住みたくないとか、ごく個人的な居心地の良さを考えることに繋がるだろう。
獅子舞メガネが曇る時
このメガネはたまに曇ることがある。なぜなら「数値化することができない世界」を可視化しようと試みるため、たまにその程度がわからなくなるのだ。つまり、町に対する獅子舞生息可能性を10段階で評価するとか、ランキングをつけるなどという行為はナンセンスだ。価値を多く見積もりすぎたり少なく見積もりすぎたりするのが当たり前だ。だから、わかりにくいと敬遠されることもある。それでもこのメガネを頑張って拭いて、はっきりと物事を捉えようとする。この行為はゴッホが死後に最も有名な芸術家の一人として紹介されたことと同じ様に、もしかしたら陽の目を見るかもしれないという微かな希望を繋いで生を全うする行為に近いかもしれない。
獅子舞メガネを外す時
このメガネの魅力にとりつかれた者は、もうそれを手放すことができない。ただし手放したいと思う時は少なからずあるだろう。今まで普通に会話していた人とは話が噛み合わなくなって、泣く泣くLINEを既読無視しがちになる。何かにつけて「獅子舞的には◯◯だよね」と言うのが口癖になってしまい、その枠組みに当てはまらない者、例えば金持ち資本主義者たちを敵に回す様になる。獅子の野生味を隠さねば「この人は変な人だ、気が狂ったのか」などとと思われてしまうからと言って、そのメガネをたまに外してしまうことがあるかもしれない。でも、絶対に諦めないでほしい。獅子舞メガネというニッチな視点を身につけ箱の中でもがき苦しむことで、さなぎから脱皮した蝶々の様に、新しい世界に飛び立つことができる。
獅子舞メガネの度数を強める時
東京郊外に住むサラリーマンが満員電車で都内のオフィスに週5日通っていたとしよう。その人は髪型はかっちり決めて、細長くて威圧感のある靴を履き、仕事場に現れる。仕事が終われば、クラブで大金を使い女遊びをする。仕事の鬱憤を晴らすために飲んだくれて、路上で倒れて朝を迎える。これが心地良い生き方だと感じる人は、獅子舞メガネをかけさせられたら相当苦労するだろう。生き方としての善悪は存在しない。ただし、獅子舞的価値観と程遠い人間は、すでに違う世界のメガネをかけている。新しいメガネをかけようとしても、そこには既にメガネがかかっているから、それを退かす手間が生まれる。もしそれ退かしたとしても、獅子舞メガネの度数を高めないとすぐに元のメガネに戻りたくなってしまう。だから、刑務所の独房でただひたすら賛美歌を聴くように自分を追い込まないといけない。そこにはもはや基本的人権などない。
獅子舞メガネが大量生産される時
思想的な対立は免れない。それでも、獅子舞メガネをかけたいと思う人が増えるのは、資本と人口が集中して窮屈で息苦しくなった都市の異常さを、自らの生活体験の中で自覚した時であろう。それは「なんか空気重たいよね?」という感覚的なものかもしれない。その異常性が高まった時に獅子舞という生き物は少しずつ生息域を広げていくのだ。獅子舞という生き物は庭、空き地、古い民家、個人商店、車が通らなくなった車道など、様々なところを住処にする。見える人には見えるのだが、見えない人に「あ、あそこに獅子舞がいるよ」と言ったところで、馬鹿にされるだけだ。ケモノの心を持つ人間が増えれば、獅子舞メガネも自ずと大量生産されることになるだろう。
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