2019/01/19『あん』(映画評?)
『あん』という映画がとても好きだ。人と比べて邦画はよく観る方だと思うが、今まで観た映画の中で他の作品とは別次元にあるくらいに、この映画を好んでいる。
簡単なあらすじは下に示す通りだ。
「私達はこの世を見る為に、聞くために、生まれてきた。この世は、ただそれだけを望んでいた。…だとすれば、何かになれなくても、私たちには生きる意味があるのよ。」縁あってどら焼き屋「どら春」の雇われ店長として単調な日々をこなしていた千太郎(永瀬正敏)。その店の常連である中学生のワカナ(内田伽羅)。ある日、その店の求人募集の貼り紙をみて、そこで働くことを懇願する一人の老女、徳江(樹木希林)が現れ、どらやきの粒あん作りを任せることに。徳江の作った粒あんはあまりに美味しく、みるみるうちに店は繁盛。しかし心ない噂が、彼らの運命を大きく変えていく…(Amazon prime video紹介文より引用)
「何かになれなくても、生きる意味がある。」
単純にこの言葉を言われたとしても、きっと不快にしか思わなかっただろう。この作品を観てから、私は樹木希林という人物がとても好きになった。台詞ではなく、言葉が彼女自身の中から紡がれていくその自然さが、華美に装飾するのでもなく、形づくられるのでもなく、ただその場に存在している、ただ「ある」のだ。
私は生きることは「行為(action)」ではないと考えている。ただ生きていること、「存在(being)」が生きるであっていいと思うのだ。しかし、この社会は存在だけを許してくれることはない。常に行為の下に自らを示す努力を求められる。先日書いたことと重複しているが、私は「人間である」ことが許される社会であってほしいのだ。別に人間に「なる」必要はなく、その存在が、息をしていることだけで、生きることを許されるべきだと思うのだ。
我ながら理想主義的な考え方だと思う。甘ったれているのかもしれない。しかし、どうしようもなく生きることが辛くなってしまうような、そんな感情にナイフを突き刺すような世界は、私は嫌だ。
春秋時代において孔子という人物は、仁と礼によって治められる社会を説いた。それは心から他者を愛し(「仁」)、慣習にまで至るほど日常化された(「礼」)社会だ。彼が生涯をかけてそんな国を作ろうとしたこと。それはただの「理想主義」であるという安易な批判に終わってはならないような気がしている。孔子自身、俗世から離れて暮らすことを良しとする隠者からの批判に対して、こうした言葉を残している。
「鳥獣は与に群を同じくすべからず。吾れ斯の人の徒と与にするに非ずして誰と与にかせん。天下道あらば、丘は与に易えざるなり。
(鳥や獣とは一緒に暮らすわけにはいかない。わたしはこの人間の仲間と一緒に居るのでなくて、誰と一緒に居ろうぞ。世界中に道が行われているなら、丘も何も改めようとはしないのだ。)」(引用元:『論語』金谷治訳注)
理想主義と言われようと、人とともに生きていくことを諦めない限り、私は理想を語り続けたい。
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