2019/12/26「大学生の戯言」

 "誰もが泣きながら、同じだけの苦しみを抱えて生きている。"

そんなのは嘘だ。

この世界には確かに階層構造が存在するし、むき出しの不平等で埋め尽くされている。それを簡単に「あなただけじゃない。誰もが苦しんでいる。」と励ましの言葉で使われてしまう。

私はこの言葉を世界から抹消したいくらいに嫌っている。

 

 大学生活を3年も送っていると、だんだんと見えてくることがある。

 高校までと違って、大学という場は自由と自治の世界である。良くも悪くも放任主義だ。そんな世界で、うまくコミュニティを作り、自らの進むべきレールを自分で作り上げることのできる人と、自らの進むべき道を見失う人が存在する。

 私はといえば、その両者をふらりふらりと蛇行運転してきた。

 ある程度学があって、行動力がある、いわゆる「できる人」。私の通う場所は比較的そういう立場にいた人たちが集まっていて、今までのことを語れと言えば、何かしらするすると語ってくれるだろう。しかし、そういう人たちが大学に入って、自分を見失っていく様子を見ていると、高校と社会との大きな矛盾のなかに私たちが生きていることを実感する。そんな中で、大学に通うことができなくなる人たち。大学は基本的に何も強制しない。高校までと比べれば自由だ。

しかし、これは恐ろしい「自由」なのだ。「自由」という仮面を被りながら生死の間へと追い詰める怪物なのだ。


 そもそも、本当の自由というものは存在しない。そんなものが存在するのはおそらく死んだ時だ。時間が止まるその時まで、私たちは何かに縛られ、追われ、抑圧されて生きていく。

「自由」という名で求められるのは、自らの選択という強制だ。

我ながらバイアスのある思考だと思うが、高校まで「できる子」でやってきた人たちの中で、自らの選択の下にそれを行ってきた人は少数で、大半は教育的指導というレールに沿ってきたのではないかと思う。だからこそ、大学に入って「さぁ、これからは自分でやってみなさい。」と放り出されてみると、何もできなくなる人間が生まれるのではないだろうか。


 

 中途半端に教育学をかじってきて思うのは、救うべき「子ども」とされるのは大概高等学校までで、それ以降の「子ども」はあまり気にかけられない。大学生を「子ども」と呼ぶのはおかしいのかもしれないけれど、大学生が「大人」であるとしても教育の対象であることに変わりはなく、彼らも間違いなく教育が救うべき人間であるのだ。

 突き放されるように急に大人として扱われる彼らは、のしかかる「選択」という自由において、潰れるか上手くかわすかだ。選択という自由にさらされること自体はきっと悪くない。人間いつかは必ず選択が迫られる。しかし、選択にも猶予が必要なのではないかと思うのだ。時折存在する、「自分探しの旅」という時間を許容する環境づくりが必要ではないだろうか。

 

 現在の日本は、新卒一括採用が主流。しかし、「新卒」ということに何の価値があるのか。新卒以外を排除することに何の価値があるのか。志を持つに至る時間は人それぞれである。その時間までも一括にしてしまうことは、何とももったいないことだなと感じる今日この頃。みなさんいかがお過ごしでしょうか。

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