大人になれば 35『連休の終わり・角居康宏・世界の秘密』
連休が終わってしまいました。
さみしくなんかない。
ただ、連休最終日にジ・オーパーツが無性に聴きたくなって、手持ちの音源やネットの動画を聴いたりしていた。
あれはなんだったのだろうか。
連休最終日シンドロームか。サザエさんか。
連休といえば、志賀高原ロマン美術館『はじまりのかたち 角居康宏・金属造形作品展』に家族と行ってきました。
金工作家の角居さんとは付き合ってるのかと言われるくらいよくご飯食べたりお喋りしたりお茶を飲んだりしてるのだけど、きちんとした作品展に行くのはこれが初めてで。
かっこよかったです。
特に『呪術』『依代』には痺れました。
何て言えばいいんだろう。
じっと見ていると、からだの奥で音が鳴っているような。
それは遠い古代からの音のような気もするし、森の木々がザワと揺らいだようでもある。
その音は第三十一回で書いた『蓮コラ』を見たときの「目をそらせ!」という信号とはちがって。生命の危険をアラートしているのではない。でも、どこか遠くでつながっているような気がする。もっと混沌としたところで。
作品展には家族と行ったのだけど、子どもたちの反応がとても面白かった。作品展にいるはずなのに、山奥の神社に行ったときのような。こころのどこかで身構えている雰囲気。
十一歳の長女も九歳の長男も。
とくに五歳の末っ子は「こわい」を連発していて。
もちろん展示の仕方や照明の眩きといった雰囲気もあるとは思うけれど、なんというか「ただならぬもの」を感じているようだった。善でも悪なるものでもなく。
ぼくは不思議に思う。
五歳の末っ子が感じているものは何だろう。ただそこに鎮座しているものに何かしらを感じるのはなぜだろう。
そこにあるのは質感であり、色であり、形だ。物だ。
でも、何かがある。
足にまとわりつく末っ子をあやしながら『呪術』を見ていると、先を歩いていた息子の「お父さーん、踊ってるー」と明るい声が響いた。パッと末っ子が駆けていく。
角を曲がると『染色体』がずらり並んでいて。なるほど、確かに踊っている。土偶のように大らかに、ユーモラスに、力強く。
さっきまでへっぴり腰だった子どもたちが明らかにほっとした空気になっていて、息子は「こうかな?こうか!」と手を上げ下げして一緒に踊っている。末っ子はうれしそうにケースの中の『染色体』と踊る兄を見比べている。
いま思い返してもあの場面の空気の変わりようは面白かった。
子どもたちを媒介に形が伝える何かをストレートに感じることができて。もしくは形がもつ伝える力を。
でも何を?
ぼくや子どもたちは何を感じたのだろう?
先日、角居邸のキッチンで夜食のにゅうめんを食べているとき(こんなことしてるから付き合ってるとか言われるのだ)、こんな風に言っていた。
角居 まず、ぼくは神はいないと考えてます。
ぼく そこは前提なんだ。
角居 うん。自分たちの世界があって、それを上の世界から支配している存在としての神はいないと。
ぼく なるほど。
角居 だけど神の存在を感じることはできる。
ぼく うん。
角居 それは信じる。なぜならぼくの主観にあるものだから。
ぼく うん。
角居 だとしたら、神とはここに、自分の中にいるんじゃないだろうか。
見事な回答だと思った。
それに自由だ。
ぼくたちは様々なものから何かを感じ取る。物や形や音や色から。森や空や闇や光から。美しさや混沌や畏怖やただならない感じや蠢いている力を。言葉で言い表せられないものを。何かを媒介にして。物や形や音や色から。
それはただの物かもしれない。
でもぼくたちは感じ取る。末っ子のように。
感じ取るということがあって世界は発動する。
だとしたら。もしかしたら、もしかしてだけど、世界の秘密はすべてぼくの中に埋まっているんだろうか。ぼくの中に。え。
執筆:2015年5月14日
『大人になれば』について
このコラムは長野市ライブハウス『ネオンホール』のWebサイトで連載された『大人になれば』を再掲載しています。