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大人になれば 02『夜が怖いこと・かぐや姫の物語・音楽のような』

最近とんとお酒を飲まなくなった。
もとから強い方ではないけれどお酒は好きで、出版社時代は毎日のように飲んでいたような気がする。
自宅でも飲まないと眠れないような気がして、ベッドに持ち込んで飲んでいた。ビールやウイスキーといろいろ試しているうちにウォッカが寝酒に一番むいているのがわかった。気絶するように眠れていいのだ。まねしないように。

いま思うとぼくは夜が怖かったのだろう。
それは大学時代から続いている記憶なのだけど、夜になると自分と向き合わなくてはいけないような気がして怖かったのだ。

でも、ふと気付いたら飲まなくなった。前年比でいえば今年は一パーセントくらいだ。たまに飲み会にいってもノンアルコールビールばかり飲んでいる。あれはお腹がタポタポになる。

これを成長かと問われればきっと退化なんだろうなと思う。夜を怖く感じる機能が退化したのだ。きっと。
そんなとき、ぼくは高畑勲を想う。

高畑勲の『かぐや姫の物語』を観て「凄まじかった」とツイートしたら、友人から「どう凄まじかったの?内容?」というメールが届いたが、これは説明が難しい。

高畑勲が凄まじかったのです。
あれは高畑勲の凄まじさを観る映画です。

出演した声優のコメントに「高畑監督は穏やかな方でしたよ。いつもニコニコされてて。でも、『納得の演技が出るまで絶対帰さない!』と目がいってるんですよね。迫力ありました…」というようなものがあったが、観客のぼくにもその気分はすごくよくわかる。
二時間の画面すべてに「この絵じゃなければ、この動きじゃなければだめだ!」という信念がこめられている。凄まじいほどに。

この映画を観る人は「絵が動くとはこういうことなのか!」と驚くと思う。その驚きは映画を始めて観た百年前の人と近いものがあるんじゃないだろうか。きっと。
ぼくたちは生まれたときからアニメを観ていて、アニメとはこういうものだと思っている。でも、何にもわかっていなかったのだ。アニメーションという表現手段が何を成し遂げられるのかなんて。

あのですね、翁のくちびるのキュートさはただごとではないですよ。あんなにキュートで愚かで感情豊かな唇を見たことがない。
媼がかぐや姫に乳をあたえるときの乳首の存在感もすごい。ボロン!として。誇らしげで。おっぱい出るんです!って絵が訴えている。
かぐや姫の疾走もその直前に心がどん底に落ちる暗転も凄まじかった。いま思い出しても胸がズキッとする。
映画の物語性や意味などという前に、アニメーションで人間を描くということはここまでできるのかと心底おどろく。

とにかくびっくりしまくりの二時間。
人間は見たことないものに出会うとただ驚くしかない。

あまりにも良かったので再度観に行ったときは、線の豊かさ、タッチの素晴らしさが一度目より鮮明に伝わってきて。かぐや姫たちの跳ねる心や憤りや悲しみを表情ではなくて線やタッチが伝えてるんだと気付いてまたびっくり。

それはまるで音楽のようでした。
同じ音階、同じメロディでも響き方や弾き方で伝わり方がまるでちがうように。
ぼくは絵画にくわしい人間ではないけれど、絵画と音楽は似ているんじゃないだろうかと思った。

二時間すべての線やタッチが一体になって、音楽を奏でるかのように翁や捨丸や公家たちの愚かさや愛おしさを、媼の小女性や大人の女としての眼差しを伝えてくる。
観客を主人公に没入させてドキドキさせるのではなく、一歩ひいたかたちでかぐや姫の憂いや自己嫌悪や感情の爆発を描き続ける。絵画的な表現で。これは太刀打ちできませんよ。できっこない。

高畑勲はこの作品でアニメーションはここまでできることを示した。
映画史に残る傑作なのはもちろん、アニメーションの到達点にして原点だと思う。
すごい。

七十八歳。
すごい。

執筆:2013年12月26日

『大人になれば』について

このコラムは長野市ライブハウス『ネオンホール』のWebサイトで連載された『大人になれば』を再掲載しています。


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