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人生の後半戦で存在感を増してきそうな「まだ名前のない何か」

これは全然高尚な話ではないのですが、人生も折り返しに突入してくると経済的合理性とかロジカルシンキングとはまったく別の「人助け」という事象が人生に浮上してくるんだな…と最近思うようになりました。

今年の稲刈りが正にそうで、隣接している田圃の持ち主から「もう高齢で作業も辛く、継いでくれる家族もいないからやってくれないか」と義父に持ちかけられたわけです。田圃の面積は1.5倍になり作業負担も1.5倍になります。

妻の一家は田圃と林檎畑を持っていますがそれで生計を立てているわけではなく、家族や周辺の人の自給自足になればいいと思っている程度なので新しい田圃は特に求めていないし、収穫が1.5倍になったとてメリットがあるわけではない。そもそも米作り自体の負担が大きく、兼業農家の収益なんてほぼ赤字で経済的合理性がないんだから。論理的に考えて受ける理由がない。

でも、受けるんですね。どこも似たような状況なので。誰かがやらないと彼らの田圃は荒れるだけだし。義父の家でいうとたまたま手伝える労働力が揃っている(我が家で4人、義理の妹家で2人。毎年大人数で収穫している我が家をみて相談を持ちかけたんだろうということも分かるし。

という流れで今年は通常の1.5倍の田圃面積での稲刈り&稲こきだったのですがいやあ辛かったです。体力的にも本当にぎりぎりでした。今日出社して「稲田さん、顔が疲れていますね」と言われましたが疲れています。たぶんあと2日は疲れが取れません。

収穫した米(一袋60キロ)を義弟とボロボロになりながら積み上げて数えてみたら80袋でした。4800キロ。食べるのは義理の両親と義弟家族とぼくの家族で合わせて10人足らずなので、明らかに多すぎます。そもそも田圃を増やす前の収穫量で十分だったし。じゃあ、売ればいいじゃんとも思いますが、売ったとて数十万円です。稲作の経費を抜いて関わった人数に分配したらバイト代レベルです。だったら他のバイトした方がいいし、そもそもバイトをする理由がない。ぼくも義弟も両家それぞれちゃんと働いているし。

高く積まれた米袋を義弟とぼうぜんと眺めつつ、「これはもう人助けだなあ…」「人助けですね…」と呟きあいました。長々と書きましたが、言いたいことはただひとつ。経済的合理性とかロジカルシンキングとかとまったく違う側面で起こりうることはあるし、それはそれで悪いことじゃない。ただ、日常ではあまり慣れていないじゃないですか。そうじゃないことがあるって。今のところぼくは人助けという言葉でしか捉えられていませんが、人生の後半戦で存在感を増してきそうな「まだ名前のない何か」についてちょっと考えていきたいなと思った稲刈りでした。心の準備を整えておかないと戸惑うし。

文化の継承とかコミュニティの存続とか地方創生とか隣接する言葉はあるのでしょうが、その辺は個人的にあまり興味がないのでべつの領域として考えてみたいと思います。

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