大人になれば 30『もにゃもにゃ・泣き笑い・接続』
気持ちいい天気ですね。
ふと気付くとシャツ一枚で出かけていたり。
もにゃもにゃと春が近づいています。
春のあの感じは何て言えばいいんだろう。
陽光が肌にじんわり暖かくて、地面の雪が溶けて、ちろちろと溶けた雪が透明に流れて、久しぶりに対面した土の色が思いのほか黒くて、思いのほかふかふかしていて、名も知らない細くとがった草の緑がやけに強くて。小さな羽虫が忙しそうに飛んでいて。
いのちっ!て感じでもある。
よろこびーでもある。
むにゃーってもする。
ほにーとも思う。
とへとへーだってなくもない。
ぜんぶ春だ。
むゆゆとむににがねころんで、
とへへとほににがこしかけて、
ささらとわわわがつまびいて、
すりりとするるがねころんで、
たたたとしりりがかけてきて、
もほほとさわわがわらってる。
春だなあ。
ハロー。
ここまで書いて気づいたけれど、どうもぼくは春に好意をもっているみたいだ。だって、これは好きな人を思い浮かべる行為に似ている。そうか。知らなかった。
つい最近、印象的なwebニュースを読んだ。
二十年前に病気で失明した六十代の男性が人口網膜デバイスで初めて妻の顔を見たというアメリカのニュース。
記事は写真といくつかのキャプションで構成されていて。
人口網膜デバイスを付けたややでっぷりした男性。
その前に歩みよる妻。
夫、笑い始めて。
泣いて。
妻、つられるように笑って。
泣いて。
夫、クリニックの医師とがっちり握手。
夫、感極まって妻を抱擁。
ひたすら泣き笑いする夫と妻。
身振り手振りで自分の目にはどんな風に妻が見えているかを一生懸命に伝えようとする夫。
言葉につまる夫。
抱擁。泣き笑い。抱擁。
笑うんだ、と思った。
どんな風に見えているかと伝えようとするんだと思った。
そうか。人は泣き笑いするんだ。
そうか。伝えようとするんだ。
見えているぼくたちは「見えている」ことを伝えようと思ったことがない。だって「見えている」ことを共有知として捉えているから。
見えているぼくたちは「見えるということ」がいったいどういうことかを本当の意味で考えるのがむずかしい。
ぼくは目をつむってみた。
残響のように光の帯がちらちらと動く。しばらくするとそれらが沈み、どんどん暗くなる。どんどん暗くなる。暗い。
暗いというより、何もない。
見えないというよりも、「見えるということ」が分からなくなる。色とはどんなことか、形とはどんなことか。そもそも何かが「ある」とはどういうことか。どんどん分からなくなる。まるで分からなさに飲み込まれていくような。
怖くなって目を開ける。
五分も経っていない。
「見える」ということを見えること以外のやり方で説明する/概念化するのがとてもむずかしいことに気づく。「音」を説明できないように。「やわらかさ」を説明できないように。
それは世界そのものを説明する/概念化するのに似ている。地球をなんていえば説明したことになるんだろう。海や空をなんていったら。
ぼくたちはいろんなやり方で世界に接続しているのだろう。
見ることや、聞こえることや、触れることや、嗅ぐことや。
春の訪れを五感で感じるように。
二十年ぶりに「見える」ことを手にした男性が笑い声をあげたことにぼくは思いを馳せる。
目をつむって、笑いながら泣いた男性の思いにそうっと近づいてみる。なぜだか涙が出た。ほんの少しだけ。
映画や音楽といった外からのものとは別に、内から涙が出たのはたぶん二十年ぶりくらいで。
ぼくはその涙の意味がよく分からなかった。
でも、男性だって自分がなんで笑っているのかなんて分からなかっただろう。きっと。
でも、ぼくも笑うだろう。泣きながら。そして伝えようとするだろう。見えるということを。世界と接続している自分を。言葉につまりながらでも。
執筆:2015年3月2日
『大人になれば』について
このコラムは長野市ライブハウス『ネオンホール』のWebサイトで連載された『大人になれば』を再掲載しています。