大人になれば 38『透明人間・脳内再生・ミトコンドリア』

他人の透明人間は、ぼくの透明人間にならないの?

はい。
唐組の『透明人間』を観ました。
影響うけてます。
すみません。

唐十郎の演劇を観るのも紅テントも唐組も全部初体験だったのだけど、なんとも咀嚼しきれません。

城山公園の芝生に突如登場したテント。
慣れた顔でひかれたゴザ、座る人々、脱がれた靴、置かれた傘。
歌舞伎のように旅芝居のように役者の名前を張り上げる観客。
瘤のある女。三流チンビラ。戦後のドサクサのような男。中国人の女。下っ端役人。分裂した女教師。尻の青い中学生。
モノローグのような台詞。冗長さと切迫感。ギラリとする言葉。
錯綜し、ねじ曲がる時間、執着、場所、衝動、妄想。
放物線を描いては止まり、また描いては止まる何か。
偽物に偽物をかぶせ続ける物語。満たんな空っぽ。
水。歌。水。歌。
役者の汗。役者の目。声。立つ力。テント。テントの骨組み。
観客。照明。効果音。外の音。外の闇。舞台。外。

ぼくはそういうものを観ました。
そうとしか言えないのです。

『透明人間』を観終わって、ぼくは何を観たんだろうと思いながら帰った金曜の夜。

土曜日に戯曲を読む。面白い。パワフルだ。猥雑なセンチメンタルと胎内回帰のような切実さ。でも何を観たんだろうという答えは出ない。言葉に置き換えたくなるのはぼくの性癖だけど、今回は何だかちがう感じ。というよりも、「言葉に置き換えようとしていない」自分を感じる。
それが新鮮で、なるほどそういうものかもしれないと思って週末を過ごす。自分の中の「そういうもの」の箱に入れて。自分としては納得。

そしたら、終わってなかったんですね。

週末が終わり、月曜日から仕事。宇宙の法則だけど、月曜日は仕事のギアを早く上げる必要がある。ちんたら走ってられないのです。ただでさえ排気量小さいのに。
中古エンジンをだましだまし回して、何とか走り出せたなーとちょっとほっとしていつものように仕事をしていたら、気づくと『透明人間』のシーンを思い浮かべていて。
瘤の女の歌声や、辻の誇大なセンチメンタルや、女教師と生徒の掛け合いを。「男は数人おりました」や「ここだけが教室!」という台詞を。モモという名前を。異界に移るように女が水槽に消えるジャボンという存外に軽い音や、安っぽい水中花があたかも脈打つように見える瞬間を。

気づくと脳内再生を繰り返している。仕事をしながら。
舞台のシーンだけでなく、台詞でしか登場しなかった暗い沼をぼんやり思い浮かべていたり。足元がぬかるむ、森の外れの見捨てられたような泥の沼。雨が降っている。いつまでも降っている。
はっと気づくとぼくはパソコンで企画書を作っていて。
今のは何だったんだろうと思いながら仕事を再開する。

観たものも、語られたこともぼくの中で息をしている。
まるで探せば見つけられるかのように。
このブログを書いている今も。
ぼくはしっかり掴まれていました。透明人間に。

「匂いを感じるときはその粒子が身体の中に入る。花なら花の。象なら象の粒子が」

どこで読んだか忘れたけれど、ぼくはこの言葉が好きで。
ああ、唐十郎と唐組が粒子になってぼくの中に入ったんだなと思った。目から耳から皮膚から息から。それは血管を通って、肺を通って、ぼくの身体の隅々にまで届くのだろう。目に吸収されて、腸に吸収されて、鼓膜に吸収されて、細胞に吸収されて。
いつかまざって溶けて。

もしかしたら、それこそが唐十郎の企みなのかもしれない。
死という牢獄から脱出するために。
ぼくらが遺伝子のビークルであるかのように、唐十郎の闇が焦燥が叶わぬ願望が粒子になってぼくらを乗り継いでいく。伝染する恐水症のように。ぼくらを媒介にして拡散し、拡大し、増殖する。時代すら超えて。
狂気と幻影の中で自己をループするしかなかった辻は唐十郎のアンチヒーローなのだとしたら。もしや。

それがぼくの唐組体験でした。

今ごろぼくのミトコンドリアがあの紅テントであの舞台を観ているのかもしれない。あのゴザに座りながら。


執筆:2015年6月25日

『大人になれば』について

このコラムは長野市ライブハウス『ネオンホール』のWebサイトで連載された『大人になれば』を再掲載しています。


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