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大人になれば 25『氷河期・クシャミ・瞬間と永遠』

十二月です。
冬です。
寒いです。

そういえば氷河期というものがあったのだ。氷河期。寒いのはきらいだけど、言葉としてはちょっと素敵だ。調べてみたらこんなことが書いてあった。

氷河期という言葉は南半球と北半球に氷床がある時期を意味することが多く、この定義によればグリーンランドと南極に氷床が存在する現代、我々は未だ氷河期の中にいることになる。(ウィキペディア)

まじですか。いま氷河期。まじ。
コーフンしながら読み進めると、さらにこう書いている。

科学者の多くは氷河期が終わったのではなく、氷河期の寒い時期「氷期」が終わったとし、現在を氷期と氷期の間の「間氷期」と考えている。(ウィキペディア)

………………………………間氷期。

え、ちょっと待って。
じゃあ、こういうこと。

氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期

間氷期

氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期氷期

まじですか。寒いじゃん。凍っちゃうじゃん。
しかも、こんな記述もあった。

数万年単位などの短期的視野ではなく、さらに大局的・長周期的に見ると過去地球上では、少なくとも四回の大氷河期があった。(ウィキペディア)

数万年が短期的視野。

もしかして、ぼくたちはすごーく絶妙なバランスとタイミングに生きているんじゃないだろうか。
いや、「絶妙な」なんて思うのが人間的視点であって、そんな視点は片腹痛くて、地球時間でいえばちょっとした瞬間のちょっとした変化の過程ってことなんだろう。人の一生でいえばクシャミしたくらいの。

ぼくたちは一回のクシャミの中で海から上がって、木に登って、火をみつけて、指を獲得して、集団を作って、洞窟に絵を描いて、歌を生んで、言葉を得て、物語を作って、宗教を作って、法を作って、国を作って、民族を作って、ゼロを見つけて、芸術を生んで、文学を作って、哲学を作って、音楽を作って、愛を作って、家族を作って、個人を作って、戦争をして、いっぱい戦争をして、海を渡って、空を飛んで、月まで行ったのか。

クシャミか。

ぼくは刹那という言葉が好きで、「一刹那の中にも生滅があり、すべての物はこれを繰り返している」という仏教の考え方がけっこう好きだったのだけど、なんというかこれまで観念的な捉え方をしていた。まあ、そういう見方もできるよねって。

でも、クシャミだとしたら。

もしかしたら四十歳のぼくの中にもラスコー洞窟から月面着陸までが入っているのかもしれない。ひとつのクシャミとして。

そして、さっきしたクシャミの中にもアウストラロピテクスから火星到達までが入っていたのかもしれない。あのクシャミの中で誰かが泣いて、誰かが生まれて、誰かが死んで、誰かが憎んで、誰かが愛して、誰かが決意したのかもしれない。

そしてそして。

そしてそしてが螺旋を描いてどこまでも登っていく。同じようにそしてそしてがどこまでも下っていく。瞬間と永遠が弧を描いて踊るように。

宇宙って、世界ってクシャミだったのか。
わお。


執筆:2014年12月11日

『大人になれば』について
このコラムは長野市ライブハウス『ネオンホール』のWebサイトで連載された『大人になれば』を再掲載しています。


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