大人になれば 12『五月の空・宇宙の果て・たましいと重さと光』

五月ですね。
今さらだけど。

散歩を始めてから空をよく眺めるようになったのだけど、五月の空はきれいだ。
五月の空は刻一刻と変化する。雲も光も。特に夕方や雨上がりの空はまるで生き物のようで。

四月の空は明るくて優しいけれど、どこか茫洋としている。五月はもっと多層的で動的だ。生まれ立てのいのちのように。

雲ひとつないスカイブルーの空も五月らしいけれど、雲母片のように何層も重なり合った雲が天空からの光に照らされて白から灰色の濃淡をつけている姿が好きだ。

灰色はちょっと調べただけでも銀鼠、藍鼠、湊鼠、桜鼠、灰白と和色もきめ細かくあって、日本人がこの色に敏感だったことがわかる。グレーがこんなに多彩で表情豊かな色だとは知らなかった。

そして、五月はなにより光の射す力が強い。雲の切れ間から地上に向かって幾重にも降り注ぐ光を見ると、確かに光はまっすぐ進むのだなあと思う。そして、やはりここは地上なのだと。
たまに、ぼくがいるこの場所は地上なんかじゃなくて、空の底なんじゃないだろうかと思うときがある。金魚鉢の底から遥か上の水面を仰ぎ見ているように。

先日、ネオンホールの夏海さんと金工作家の角居さんとで飲んだときに「宇宙とは何か」「宇宙の果てはどうなっているのか」という話になった。
なんでそんな話になったんだろう。忘れてしまったけれど、とにかくそれで深夜四時くらいまで話していた。

稲田 「全は個。個は全っていうじゃん」
夏海 「うん」
稲田 「宇宙もそれでいいじゃん」
夏海 「??」
角居 「いや、夏海さんは宇宙の果てがあるというならその向こうはどうなってるのかっていうのが気になるんでしょ」
夏海 「そうそう」
稲田 「ん?」
夏海 「数学での無限はまだ理解できるけど、現実に無限があるって言われてもわけわかんない」
角居 「それはね…」

こんな調子で延々と話していて、気づくと窓の外が白々と明るくなっていた。学生か。

何でも概念的に考えて「それでいいじゃん」と一人で納得してしまうぼくと、「納得いかないことはわかったふりをしない」夏海さんと、「物理が好きで宇宙についてもかなり博識」な角居さんという三人の会話はけっこう面白かった。

概念で納得するのは世界を掌サイズにして自分のポケットにしまうには便利だったりするけれど、そこで思考が止まってしまうことでもあるんだなーと思ったり。

どのみち世界は(宇宙は)自分より遥かに大きいのだから、ポケットなんかに納めないでサイズそのままに考えて、想像して、追いかけたら、無限の欠片だけでも垣間見ることができるのかもしれない。クジラの髭の先っぽを見て、「これってどんな生き物なんだろう?」と思いを馳せるように。
そして誰かはクジラの尻尾を調べている。ぼくたちはそんな風に世界の欠片を集めて、調べて、想像して、理解していくのだろう。大きな大きなクジラを前に。

そんな風に新しい物の見方を知ったり、興味を持ったりするのは幾つになっても楽しい。そんなわけで、飲んだ翌日に近くの図書館にいって宇宙関係の本を何冊か借りた。素直だ。

まだ一冊目だけど『となりのアインシュタイン』という本はよかった。アインシュタインの等価原理や一般相対性理論をわかりやすく説明してるので入門編として読みやすい。何より文章がいい。

特に、光は重さを持たないが重力の影響を受けるというくだりで、たましいについて触れていて印象深かった。
宇宙や光を考えることと、たましいのことを考えるのはとても似ている気がする。ちょっと長いけど引用します。ぼくはこれを読んで、まるで詩のようだなと思った。きっと詩はいろんなところに潜んでいる。宇宙にも。空は今日もきれいでした。

「あらゆるモノには重さがある。軽くて無のように見える空気にさえ重さがある。でも、光には重さがない。(略)
物質が光に還るとき、重さも消滅する。
たましいというものがあるとすれば、もしたましいに重さがあればそれは物質だろうし、重さがなければ光なのだろう。たましいも、この世のものならば、きっと重力に引かれることだろう。この世のものでなくなったときに、重さも消滅するのかもしれない」

執筆:2014年5月22日

『大人になれば』について

このコラムは長野市ライブハウス『ネオンホール』のWebサイトで連載された『大人になれば』を再掲載しています。


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