大人になれば 07『恋について・砂漠の水・小沢健二の散らばる熱』
そろそろ恋について書けと言う。
友人が。
またセンチメンタルとか言われるじゃないか。
ということで考えてみる。
正面切って考えると難しい。
恋ってなんだろう。
こういうとき、ぼくはいつも小沢健二のアルバム『犬は吠えるがキャラバンは進む』に付いていたライナーノーツの一節を思い出す。
「芸術について僕が思うのは、それはスーパーマーケットで買い物をするようにアレとコレを買ったからカゴの中はこうなるというものではなくて、アレもコレも買ったけど結局は向こうから走ってきた無限大がフュッと忍びこんで決定的な魔法をかけて住みついてしまったどうしましょう、というようなものではないかということだ」
芸術を恋に置き換えたら、それで十分通じる。普遍性とはこういうことだと思う。よく知らないけど。
そう。芸術や恋は「向こうから走ってきた無限大が」「魔法をかけて」「どうしましょう」なのだ。そうでしょう?ぼくはそうだった。そうだったと思う。たぶん。
だから魔法についてどうこう言っても、その理不尽性を訴えても仕方がない。だって魔法なんだから。せめて時計の針が十二時を回るまでは一生懸命にワルツを踊るのだ。
恋が始まるには魔法が必要で、そして始まった恋はいくつもの季節を持つ。一年が廻るように。
付き合う前の「あの人に会いたいな、会えたらいいな」という気持ちが春で、お互いに「会いたいな」「あいたいね」と共有できるのが夏だ。そして穏やかな秋を迎え、「会いたいよ 」「うーん」となったら恋の終わり。世界は冬眠に入る。次の季節が始まるまで。
ぼくはそんな恋について、とくに夏の季節を考えるとき、奇跡を思わないではいられない瞬間がある。はい、そこ引かない。
でも本当にある。 これって奇跡みたいじゃないかって。
例えばこういうことだ。
砂漠を歩いているとする。
のどがカラカラだ。
砂丘の向こうに誰かが立っている。
近づくと、細かい結露をまとったグラスを持っている。
もちろん中にはよく冷えた清冽な水が入っている。
ほしい。
手を差し出す。
もしかしたら、彼(彼女)は水を差し出してくれるかもしれない。善意や道徳心や、気まぐれで。もしくは何かと交換したり、お金だったり、顔が好みだったりで。
それは悪いことじゃない。ぜんぜん。
世界はだいたいそうしてできている。
でも、ぼくが恋のある時期に感じる奇跡性はちがう。
そこには差し出す側も受け取る側もない。
善意や道徳心や交換や打算もない。
あるのはただ「あいたい」という二つの気持ちだけ。
そこでは誰もが等しい。上下だったり、偏りだったり、不均衡性というものが一切ない。一つの大きな円のように。
その円の中はとても落ち着いて、うれしくて、しあわせで、楽しい。散歩するだけでも、となりで本を読むだけでも、一緒にご飯を食べるだけでも。
会っているだけなのにわくわくして、会ったばかりなのにまたすぐ会いたくなって。会うだけでしあわせで。恋ってそうですよね。たしか。
どうやって水を手に入れようかとばかり考えているこの世界で、ぼくとあなたが全くの等価で向き合えて、それが絶対的にしあわせなんて、奇跡じゃないだろうかと思う。まるでブリザードの北極で奇跡的に身体を温め合えたように。
この世界のたいがいが砂漠であることに反旗を翻す気はないけれど、世界の片隅にこんな奇跡がすこしだけ残っていてもいいじゃないか、とぼくは思う。いつかは季節が終わるとしても。
最後の引用も小沢健二のライナーノーツから。
結局のところ、ぼくたちは体温を保たなければいけないのだ。熱が散らばらないように。奇跡でもなんでも起こして。
「熱はどうしても散らばっていってしまう、ということだ。そのことが冷静に見れば少々効率の悪い熱機関である僕らとかその集まりである世の中とどういう関係があって、その中で僕らはどうやって体温を保っていったらいいのか?(略)どこかへ出かければ楽しいし、夜更けにリズムやメロディーはほんとに心に突き刺さる」
執筆:2014年3月14日
『大人になれば』について
このコラムは長野市ライブハウス『ネオンホール』のWebサイトで連載された『大人になれば』を再掲載しています。