60秒で流れ行く9460万8000秒。阿部詩の五輪二回戦とその表現。
一夜明けても阿部詩選手の慟哭がぼくのなかに深く刻まれているし、TVのワイドショーはあの映像がひっきりなしに流れている。まるで消費材だ。でも、今この瞬間は永田泰大さんのこのコラム『吐き出せ、阿部詩』が一番相応しいように思える。ぼくがこれを書きたかった。
60秒で流れ行く9460万8000秒
ぼくが思うにあれはビッグバンなのだ。ぎゅっと圧縮された時間や感情や努力や思考や後悔や喪失や弱さや強さや勇気や崩壊や混沌のビッグバン。カメラに映されたのは数十秒かもしれないが、あの数十秒の中に東京オリンピック以降の圧縮された3年間がある。高密度に圧縮されたブラックホールのように。それが爆発し、拡散し、膨張した。あの瞬間、ぼくたちは9460万8000秒を共に見たのだと思う。60秒で流れ行く3年分の時間。とても言葉にならない体験だった。
ぼくはスポーツに疎い人間だけども、あれはなんと言うか、本当にすごい表現時間だった。表現?そんなものスポーツに求めるなと言われるかもしれないけれど、あれは間違いなく最高峰の表現のひとつだと思う。スポーツや武道という競技からオーディエンスが勝手に享受できるものとしてぼくは受け取ったし、深く染み渡った。そんなものはスポーツと関係ないという人もいるかもしれませんが、人間と表現は大いに関係がありますよね。人間のもつ表現性をここまで発露できるのかとぼくはスポーツの凄さを改めて体感しました。
それってスポーツの祭典であるオリンピックの価値のひとつだと思うのです。だって、スポーツにまるで縁がないぼくに「スポーツってすげえな…」と思わせたんだから。阿部詩選手の慟哭を見て、ぼくは心からそう思いました。
10年前に見た演劇のアフタートークで天文学者の方が話してくれた言葉を思い出す。正確ではないけれど、ぼくはこんな風に覚えている。
阿部詩選手のあの慟哭はきっとこれからの映画やドラマ、漫画、楽曲や詩など様々な作品で様々に姿を変えて表現されると思う。そのまま引用するということではなく。『万引き家族』の安藤サクラの涙のように。ぼくたちはあれを表現し得るのだと。それくらい「言葉にならないもの」を描く時間と表現だった。
補足
阿部詩選手の慟哭について、「◯◯すべきだった」とか「同じ日本人として」とか色々見かけるけど、あれはそういったものと一番遠く、普遍的な、プリンシプルなものだと思う。音楽や踊りのように。それこそ国や人種や風習といった属性から遠く離れて。ぼくたちが感じうる「言葉にならない何か」として。
昨日から何度も阿部詩選手の慟哭を思い浮かべているのですが、その手触りに一番近しいと思ったのが星野源の『生命体』でした。説明が難しいのですが、そう感じたんですよね。
ぼくたちは「言葉にならない何か」を宇宙のように抱えて生きている。見えないけれど確かそこにあるもの。生命そのもののような何か。幸運にもその片鱗に触れたときには享受した方がいい。そこらに転がっている陳腐な言葉や単眼的な風習やべき論は捨てて。それはまるでスケールの違うことなんだから。
つまり、「日本人として/武道家/スポーツマンとして」とかいった単眼的かつ借り物の言葉を持ち出す前に、自分の感受性を全開にして目の前で起きている「言葉にならない何か」を感じようぜということです。それはとても得難いことなんだから。出来合いのフレームをなぞるのは勿体なさすぎる。
阿部詩選手について「みっともない」だの「日本人として恥ずかしい」だの言いたい人は言えばいいと思いますが、それはまあ何というか爺の戯言だと思います。もう出来合いの(しかも自分で作ったものではない借り物の)フレームでしか物事を見れないような。若い人たちは気にしないように。自分の心で感じよう。