サクラのうた
さくらの写真展を見に行った。大小あるパネルの薄紅色はどれも見事で、ミナトはすっかり目を奪われた。
とくに目を引いたのは、一番おおきなパネルだった。日が射す谷間で咲き誇る大木が悠然と立っている写真。暗がりのなかで薄紅色はとても映え、谷いっぱいに広がった花に圧巻された。小振りのさくらの樹は見ても、大木はなかなか見ることはできない。
しばらく見入ったあと、感嘆混じりにつぶやく。
「なんていうさくらなんだろ」
「これはオウザクラというさくらです。樹齢百年は経ってると思います」
思わぬ解説者があらわれた。見覚えがあると思ったら、写真家のプロフィール紹介に添えられていた人物だった。
「あなたにもサクラの唄が聞こえましたか」
え、と聞き返すミナトに写真家はすこしさみしそうに笑った。
「あ。違うならいいんです。気になさらないでください。この写真の前で立っていらっしゃったので、もしかしたらと思っただけで。すみませんでした。じゃあ、ごゆっくり」
去りかけの背中に、今度はミナトが呼び止めた。
「サクラの唄ってどういうものですか」
写真家はすこし考えてから答えた。
「ええと、そうですね。サクラ貝をまとめて振ると、しゃらしゃら音がするでしょう。あの音みたいなものだと思えば」
「へえ」
「うまく言えないんですが、サクラからときどき聞こえる音なんです。流れるように聞こえるので、サクラ前線の間ではサクラの唄といわれています。とてもきれいな音なんですよ」
「サクラ前線っていうのは」
「わたしのようなサクラ好きの写真家たちのことです。咲いたサクラを追いかけるので」
あははと写真家と笑いながら、ミナトは思った。
サクラの大木が歌う唄は、いったいどんな唄なんだろう。
ミナトは見納めにとパネルをじっと見つめ、写真家に会釈をして離れた。まだ見ていないパネルがある。
しゃん
音がした。
小鈴かと思ったが、金属音ではない。もっとかるくてもろそうな、しかししっかりとした固さを持つ、涼やかな音だ。ああ、そうだ。サクラ貝を入れた物を振ったような音だ。
しゃらん
こんどはよりおおきく聞こえた。しかし周囲にそういう音を立てる物はない。そもそもほかにも地上種はいるが、誰も聞こえていないようだった。自分だけだとしても、いったいどこから聞こえてくるんだろう。
音は音源をさがすミナトをくすくす笑うように、誘うように流れる。
しゃん、しゃらん、しゃら、しゃらん
写真家がにっこりと笑った。
「聞こえましたか」
「ええ。しゃんしゃんいってますよね」
「でしょう。それがサクラの唄です」
「どこからですか。スピーカーとか見当たらないですよね」
「ええ。じつはサクラの唄は、なぜか録音することはできないんです。映像もダメで、唄の記録は本のなかだけになっています」
「じゃあ、これはどうして」
唄はこうして話している間も流れている。
しゃらん、しゃん
写真家はくすくす笑った。
「ヒントを言いましょうか。このサクラを撮ったとき、サクラが歌っていたんですが」
「まさか」
ミナトはそっとパネルに近づいた。予想通り、サクラの唄はより鮮明に聞こえてきた。
しゃんしゃん、しゃらん
しゃん
しゃらしゃら、しゃん、しゃん
やさしく流れ、波打つように音は重なり、水の輪のように離れ、また音が生まれ。
「じゃあ、この写真は唄も撮ったんですか」
写真家は照れ顔でうなずいた。
「聞こえる方はすくないみたいです。サクラ前線の間でもひとりだけでした。そして、あなた。これで三人目です」
しゃららららん
サクラの唄はグラデーションを奏でた。どこまでも薄紅色のようにきれいだった。
ミナトはその写真のポストカードを三枚買った。友達に送ろう。カードからはなにも聞こえないけれど、自分の近況もいっしょに薄紅色の唄も届くかもしれない。
あの友達なら、もしかしたら。
(2010年5月1日up)