旅立ち

 雲の断崖から下を見おろすと、数時間前まで歩いていた緑のジオラマが広がっていた。
 七夕(しちゆう)は何度目かの確認を、旅の相棒にする。
「いいんだな、織姫?」
 相棒は返事のかわりに虹色のヒレを大きくそよがせた。
 空を泳ぐ魚、リューグーノツカイ。虹色にかがやく全長十メートルの長い身体と長いヒレを持ち、空を泳ぐ姿はオーロラのようだ。滅多に姿を見せない稀少な魚で、今は縁あって七夕のかたわらにいる。
 七夕は織姫の見ている景色を見てみようと、積乱雲の上に来ていた。
 大気は濃く、風はない。空は地上から見るよりさらに濃いオゾンブルーだ。雲のうえは綿に似てやわらかいが、音がなく耳が痛くなりそうだし、ときどき足が雲間から抜ける。地上種が長く居られる場所ではなさそうだ。
 地上をのぞき込んで、はじめて気づいた。いつのまにかアブレグリャノ平原を越えている。広いだけの難所をどう越えていこうか悩んでいたが、雲の上をのんびり散歩しているうちに機会を逃してしまった。楽しみにしていただけに残念。

 自分は天上に居ることは向いていないな。雲に乗って移動することをうらやましいと思ったこともがあっても、想像以上に物足りない。そもそも昼寝しているうちに終わってしまう旅は旅じゃない。
 七夕はナップサックを背負いなおす。
「んじゃ、行くか」
 そう言って、霞に構わず踏み出した。雲ほど質量はないが、自分を支える気流を感じた。追って織姫が肩越しに七夕を追いこしていき、数メートル先で止まってふりかえる。

 そこだな。
 指定場所まで空中を軽く跳び、織姫に追いついた。
 そこで足場が消えた。
 身体が垂直に落ち、全身を風が吹き上げる。高度六千メートルから堕ちるのだから、ひとたまりもないだろう。
 それでも不安はない。織姫は風を読む生き物だ。
 七夕の体が、いきなり横から叩きつけられて空に流された。横風に乗ったのだ。川に水流があるように、空には常に風が流れており、織姫のような生き物はそこを泳いでいく。織姫は嬉しそうに七夕のまわりをぐるりと鮮やかに泳いだ。一緒に泳げるのが楽しいのだろう。七夕は笑う。
「織姫、どこまで行く?」
 魚はなにも言わないが、笑った気がした。
「そうだな。とりあえずこのまま行くか」
 風の向かう先には、地平線がおおきな弧を描いて広がっていた。
 行き先は無限にある。
 あの向こう側をすべて見るんだ。

 七夕の旅は、しばらく終わりそうにない。


(2020年5月5日改稿)