ぼくのおとうさん

 お父さんはハゲだ。 
 自分では薄いだけだって言うけど、てっぺんには産毛しかない。 
 お父さんはビール腹だ。 
 ちょっと太ったかなって笑うけど、服でもごまかしようがないくらい出ている。 
 お父さんは平社員だ。 
 これでいいんだって頭をかくけど、本当はこっそり英会話なんかもやってる。 
 それがぼくのお父さん。そこらへんを歩いている普通のお父さん。 
 だから。 
 こんなこと、あるわけないと思っていた。 
 
 たまたま、お父さんと一緒に帰った。 
 ぼくは学校の帰り、お父さんは営業の帰り。 
 特になにも話さないで、横に並んで歩いていた。 
 ふたりで歩く河原沿いは夕陽に照らされて、河も道も草も犬もジョギングしているオバサンも全部同じ色になっていて。 
――いつもと違う感じが、すこしだけ、した。 
「なんていう名前だったかなあ」 
 思いついたように、お父さんが河を見ながら言った。 
「お母さんにあげた婚約指輪、あんな色の石だったよ。確か、トパーズっていったかな」 
 水面は夕陽の赤と金色が混ざった光を反射して、まぶしいくらいだった。 
 ぼくはふうん、と言って、ランドセルを背負いなおす。別に興味なかった。 
「……トパーズといえば、あの日もこんな空だった」 
 お父さんがいくら懐かしそうな声で話しても、やっぱりぼくの気持ちは動かない。適当に生返事ですませておく。ぼくとの約束すら忘れるお父さんが、記念日の天気なんてよく覚えてるもんだと嫌味に思ったくらい。 
「風を切って飛ぶんだ。気持ちよかったぞ」 
 なにを言ってるんだか。 
 指輪とお母さんと風の共通点が浮かばず、怪訝そうにお父さんを見る。 
 お父さんは力の抜ける笑顔を浮かべていた。 
 
 その時。 
 空から太い剣が落ちてきて、お父さんの手前に刺さった。工事現場でも聞いたことのない大きな音と剣の振動音が周囲の空気を響かせる。剣は空気も斬ってきたようで、河の音すら消えてしまったように辺りは静まった。 
 ぼくはお父さんの隣でへたり込んだ。ランドセルが頼りない音を立てる。 
 アスファルトに柄近くまで突き刺さった西洋の剣は、まるで抜かれるのを待っているアーサー王の剣みたいだった。柄は太くて、ぼくの腕くらいある。刃はぎらぎらして大きく、出刃包丁よりも切れ味が良さそうだ。 
 こんなのに当たっていたら、きっと死んでた。今になって身体が震えてくる。 
 それよりも、どうして剣が降ってきたんだろう。 
 顔を上げると、立ったままのお父さんが怖い顔で剣を見下ろしていた。 
 こんな怖い顔で怒っているところは見たことない。 
 声をかけようとすると、お父さんが低くうなった。 
「また戦えというのか?」 
 そうつぶやくと、通勤鞄をぼくに渡した。 
「契約書が入ってるんだ。すまんが、明日会社に届けておいてくれないか」 
 ぽかんと見上げるぼくをやさしく見たあと、お父さんは柄に手をかけた。 
 
 ハゲで、小でぶで、平社員。 
 運動会の親子リレーではいつもビリっけつ。 
 子供のぼくでもイヤになるほど地味で平凡すぎる親。 
 そのお父さんが、今。 
 太くて重くていかにも斬れそうな剣を、軽々と引き抜く。 
 持ち上げた剣を見つめるお父さんを、太い刃が夕陽を反射して赤く照らす。 
 きりっとした横顔は、まるでアーサー王のようだ。 
 お父さんはなにか確認するように、剣を二度三度ふりおろした。 
 空を斬る音は力強く、ぼくは自分が斬られそうで、手に汗を握る。 
「では、行こう」 
 そして、お父さんは難しい顔で目を閉じて、言った。 
 りりしくて強そうで、かっこいい。 
 ゲームに出てくる勇者ってこんな風じゃないかと思う。装備は疲れた背広だけど。 
 ギュゥォォォ……ン。 
 どこからか象みたいな声が聞こえた。 
 お父さんが夕陽を見たので、ぼくも視線を追った。 
 夕陽に黒い点があらわれた。みるみる大きくなり、しだいに形をはっきりさせる。
――風を切って飛ぶんだ。 
 お父さん……ひょっとして。 
――気持ちよかったぞ。 
「あれに乗ってたの?」 
 ドラゴンが来た。 
 左右に大きく翼を広げて、時々羽ばたかせて、まっすぐこちらに向かってくる。
「この世界では物語でしか出てこないからな。あれは本物だ」 
 お父さんは王様みたいに頼もしい笑顔を見せる。声もいつもより低くて、アーサー王の剣にぴったりだった。 
 本物のドラゴンはワニみたいなウロコをしていて、象よりも大きな身体で悠然と河原に降り立った。 
 お父さんに背中を向けると、促すようにこちらを見る。大きな眼はトカゲみたく縦線が入っていて、トパーズ色をしていた。腰を抜かしたまま見上げるぼくを、ちらりと見て笑う。なにもわかっていないぼくを笑ったような、そんな気がした。 
 いきなり現れたドラゴンに驚いて、河原にいた人たちは誰もいなくなっていた。だけどお父さんは当然というような顔でドラゴンに近づいていく。通勤バスが来たら乗るように、お父さんには普通のことらしい。 
「トパーズ、ひさしぶりだな」 
 剣を持ったまま歩み寄るお父さんに、ドラゴンはギュルギュルと喉を鳴らす。 
 背中を3回叩くと、お父さんは馬に乗るようにしてドラゴンにまたがった。風になびく背広が一瞬マントを着ているように見えて、ぼくは目をしばたかせる。目の前にいるのはグレーの背広を着ているハゲのお父さんだけど、明らかにぼくの知っているお父さんじゃなかった。 
「お母さんに伝言を頼む」 
 お母さん、と聞いて、ぼくは我に返る。やっぱりあれはぼくのお父さんなんだ。 
 お父さんは声を張り上げる。 
「誰よりも一番愛していた、と」 
「お、お父さん!」 
 止めなきゃいけない気がしたけれど、止めてはいけない気もした。 
 そして、剣を持っているお父さん自身も、ぼくの気持ちをわかっていると思った。 
 お父さんの悲しそうな目がそう言ってる。 
「お前のお父さんは、本当はこっちなんだ。騙してすまなかったな。お前は誰よりもしあわせになってくれ。お母さんを頼むぞ」 
「待って!」 
「もう行かねばならない。陽が沈む前に超えないと」 
 ドラゴンが大きく羽ばたき、地面に突風を打ちつけた。ぼくは地面にしがみついて、転がりそうになるのを必死でこらえる。 
「しあわせで楽しい時間だった。ありがとう。さらばだ!」 
「お父さん!?」 
 羽ばたかせる音は突風に乗り、あっという間に遠ざかっていく。 
 やっと目を開けた時には、ドラゴンは夕陽に小さくなっていた。 
 後には、お父さんの通勤鞄と、アスファルトの穴と。 
 抜け殻のようになったぼくが残された。 
 
 ぼくのお父さんは。 
 ハゲで、小でぶで、平社員で。 
 トパーズというドラゴンに乗ったカッコイイ勇者。 
 最後の項目だけは、夕陽とぼくだけの秘密にする。 


    (2002年11月1日up/2020年5月6日改稿)