ストーリードリヴンでつくるフェスティバルについて
はじめに
「大衆のニーズ」ではなく「お金儲け」でもなく「社会のため」でもなければ「自分のため」でもない「物語」を中枢におくことで「イマジネーション、或いは世界を拓き、それを祝う」ことを目的とする、ストーリードリヴンなフェスづくりの面白さや有用性を書いていこうと思います。
そうぞう力を耕し変化率を最大化することが、生命のサステナビリティにとって重要なことであり、その運用方法(カルチャー)をフェスティバルという文化の創新から醸成するという、自分の基本コンセプトから派生した手法なので、最終的にはちゃんと社会のためにも、自分のためにもなっていきます。
これは従来一般的なエンターテイメントづくりのように、監督やプロデューサーがいて、その意図を制作チームで形にしていくようなものではありません。DAO型の自律分散的組織形態及び、それに紐づく流動的な組織の新陳代謝を前提とした制作方法です。
ではどういったやり方なのか? 端的に書くと以下の通りです。
今回のコンセプトを決める
コンセプトの世界を表した小説を書く
その世界をフェスとして現す
以上です。
詳しくは具体例を交えながら次の章から解説できればと思いますが、これは虚構を集団で信仰できる人類特有の能力を存分に活かし、仮想の、未知の世界を一時的に具現化してみるという遊び方です。
例えば前作のような「AIが神になった世界」これを現実世界に実装しようと思うと少なくとも10年以上はかかりそうです。しかしフェスティバルであれば1年少しで実現できます。
フェスティバルはエンターテイメントですが、その中には経済や政治があり、エネルギーや衣食住があり、恋愛や娯楽、コミュニケーションや終わりがあって、もう1つの世界と喩えることが可能なほど日常的な人類の営みが詰まった時空間です。
世界を変えることは難しいけど、創ることはできる。
これがストーリードリヴンのフェス作りのベースにある考え方です。
そして、小説という虚構の物語をそれぞれが解釈して、表現に落とし込み、それを現実に実装していくことで虚構が強化されていく様は、人類社会におけるオーソドックスな文明の発展プロセスだといえます。(神話→宗教→哲学→科学→神の存在証明という近代の成長過程)
このフェスづくりの手法は、近代を超えた神なき現代において、神話から実装までをおよそ1年で運用し、虚構世界を高解像度で現実に現すことで、プロトピア的に超高速で未来世界の舵取りを身体的に考えていくという、文化アイディアです。
虚構を虚構と認識しつつも、共犯関係と環境設計によって”セカイ”をここに顕現し、未知を愉しむこの行いは、人であるうちにしかできない極上のエンターテイメントだと思っています。
物語は想像の扉を開く
まず具体例として、いま製作中の『RingNe Festival』を取り上げます。
10/8に開催するこの野外フェスは原作小説『RingNe』を中枢においたストーリードリヴンのフェスティバルです。(ちなみに体験作家たる自分の書いた物語をストーリードリヴンでつくる体験コンテンツを体験小説と呼んでいます)
小説『RingNe』で描いているのは”人が植物に輪廻する世界”です。
2044年、人体を構成している量子の多くが、肉体死のあと植物へ転移していることが科学的に判明した、という舞台設定の未来です。
「RingNe Festival」は”人が植物に輪廻する世界”という仮想の世界をフェスティバルとして現実世界で遍く人々が体験できるようにする試みです。
しかしこれは単に小説に書いてある物語を表現するということではありません。当たり前ですが物語には書いてあることと、書いていないことがあります。
つまり物語は設計図ではなく、想像の扉であって、携わる人々の想像力によって、書かれていない文間に、余白に、その世界の営みや日常を想像し、書いてあること書いてないことひっくるめて、多連拡張した虚構世界を現実に共同創造していくのです。
小説内ではその世界で起こる様々な出来事や事件を描いているのですが、それはあくまでその世界を想像するための参考材料としてです。なので小説としてはやや歪な構成をしているのですが、この物語はフェスとして現実に創造されるまでの実際に起こる僕らの物語も含めて、完成されていきます。(神話とはそういうものですね)
具体的なワークフロー
「RingNe Festival」の具体的な制作の話をしていきます。
例えば、”人が植物に輪廻する世界”において植物は今現在とは違う価値観を持った生命になっていることが想像できます。すべての植物は誰かのお墓のような、或いは更に解像度高く生まれ変わりのような認識になっているかもしれません。
その場合、野菜を食べることや、木を材にすることは、今で言えばヴィーガン活動家たちの倫理観が植物にも転移するように、センシティブな観念になっていく可能性があります。
この世界において食は、印刷は、建築は、娯楽は、コミュニケーションは、いかなるものになっているだろうか、ということを皆それぞれで想像しあい創造しあいフェスを作っていきます。
フェスティバルづくりにはコンテンツの企画や装飾、アーティストのブッキングや、運営体制の構築、来場者とのコミュニケーションなど、様々なセクションがありますが、そのすべてにおいて物語の世界観が影響を及ぼします。
例えば、この世界において好まれている音楽のジャンルってどんなものだろう?と想像しながらアーティストをブッキングして、パルプを使う普通紙は嫌厭されてそうだからパンフレットにはユポ紙を使おうとか、マインドセットを日常現実から未来虚構へスイッチして、制作を進めます。
一般的なマーケティングではペルソナという仮想客を設定し「ペルソナは何を考えるか」が主眼になりますが、ストーリードリヴンにおいては「この世界(物語の中の世界)では何が自然か」を主眼に置きます。
それは全員が小説家的視点を持つこととも言えます。どこにも答えがない問いを、物語の中の文脈を頼りに探しに行くのです。 これを自律分散的に、各担当者へ委ねます。
ストーリードリヴンのフェスづくりにおいてはクリエイティブディレクターやプロデューサーの合意で物事が進行しません。物語自体が裁量権を持つので、その世界において自然な営みを提案できれば、自然と全体合意がなされます。
RingNeの演出企画はざっくりと下記のような流れで進んでいきます。
まず小説を読む
読書会をして感想や疑問点をシェアする
文章の余白を想像しながら今回のフェスのアイディアを洗い出す
RingNe全体の五感設計を物語から抽出する
どんなコンテンツをするか取捨選択する
それぞれ担当を決める(やりたいことを選んでいく)
それぞれ担当者が企画を詰め、収支計画を叩き、予算提案する
制作セクションで全体の予算案を取りまとめ振り分ける
制作開始
新しくチームに入ってくる方も、まずは基本的に小説を読んでもらい、会議に参加してもらっています。逆にいうと物語の文脈さえ理解できていれば、いつ入ってもハイコンテクストな議論に参加できるのです。
またRingNeはDAOという組織形態を採用しているので、仕事の都合や体調不良などで一時離脱する方もちょくちょくいるのですが、どれだけ企画が進んでいようと物語からコンテクストがズレることはないので、いつ復帰してもキャッチアップしやすいという利点もあります。
更に詳細となる制作運用方法は下記の記事にまとめているのでご興味ある方はぜひどうぞ。
来場者へのインパクト
このようなワークフローを採用したフェスづくりを進めていくと、当日そこに現れる世界は多様な解釈の集合です。これにより何が得られるのか。1つは自由闊達に多連拡張する強烈な世界観への到達。そして自ら虚構を仮装し創造した現実を体験することでしか得られない未知のインスピレーション。そして誰も創造したことがない、唯一無二のエンターテイメント空間が生まれることが期待できます。
制作サイドはもちろん、来場者も原作小説を読んでからくるので、互いに異なる観察、解釈をもって、仮装し、ある種の共犯関係のなかで、ここではない異世界を身体的なエンターテイメントと化して遊び、こう、問われます。
「もしこんな未来があるのだとして、私はそれを選びたいか」
例えるならゲームプレイ中のメタ的な質問であり、仮想タイムトラベルであり、インタラクティブなソーシャルアート作品とも言えるかもしれません。
これをフェスティバルという手段を用いて最大多数の身体に発信できることに、ストーリードリヴンのフェスティバル独自の強みがあります。
そして本で読むでもなく、偉い人の講演を聞くでもなく、マスメディアでも国の方針でもなく、1人の人間が、自分の身体で感じて自然に発露するインスピレーションこそが、文明全体の養分であり、動力であり、指針であり、民主主義の基礎であり、持続可能な社会変容のために必要な土壌(カルチャー)だと考えます。
強い世界観と自律分散の両立
そしてこの制作方法はフェスティバル制作における課題解決にも繋がります。僕自身過去100本以上イベント企画制作をしてきた中で、フェスティバル、特にオーガナイザーにおいては本当に多くの地獄が発生します。
その中でも特にボトルネックになりがちなのが責任の偏りという課題です。フェスティバルは多くの関係者が集い協力し、長い時間とコストをかけないと作れないものですが、それ故に途中で抜けてしまう人がいたり、ビジネスライクなコミット故に狭い視野しか持てない人がいたり、まぁ会社やプロジェクトと同じですが、必然的に負の多様性が発生します。
そしてその責任、タスクは最終的にはオーガナイザー(責任者)に集中してしまいます。それで身体的にも金銭的にもボロボロの落武者みたいな状態で、かろうじてフェスをやり切る、というようなケースを多々見てきました。(そして自分もそうでした)
それに対する1つのソリューションはプラットフォーム化です。つまりフェス自体を多様性の集合そのものとして、会場を借りたり最低限のことだけ整えて、あとは遍く人々(主に出店者)に、自由にやってもらうという形式。よくある地域の街フェス、マルシェイベントなんかこんな形式が多いですね。
この形式であれば運営側は主に調整と保守管理、広報と運営が仕事になるので、ルーティンが整えば興行としても成立しやすいです。世界観がないので、出演者はとにかく人を集められる街のよさこいチームや合唱団、子どものダンスチームなどをアレンジし、装飾もありあわせでコストカットにもなります。
一方で、あってもなくても良いありきたりなフェスにしかならないという弱点もあります。(ライスワークとしてやっているならそれでもいいかもしれませんが)
何のためにそれを作るのか? 街のため、出店者のため、いろいろ動機づけはできるかと思いますが、調整と管理だけをする興行運営に、僕のような捻くれた人間はあまりモチベーションを見出すことができません。
プラットフォーム化の利点である自律分散的運用形式を活かしつつ、唯一無二のコンセプチュアルなフェスを作る方法の1つとして、ストーリードリヴンなフェスづくりが考えられます。
物語の世界を中枢に置くことで(それをしっかり共有することで)、全関係者にある程度手放しで自動的にアートディレクションがなされ、世界観の統一が期待できます。
また関係者は制作の受注ではなくて、自由な裁量がある自らの作品として能動的にフェスに関わることができるので、離脱を軽減し、ストーリーという共通言語から他セクションとも混ざり合い、コンセプトを深く共有しあえる強靭なチームになっていきます。
これによって、縦割りではない自律分散的な運用方法を維持しながら、コンテクストを共通させ、世界観をむしろ強化発展させながら共創するワークフローをとることができます。
おわりに
印象悪くなるかもしれないですが、ストーリードリヴンのフェスづくりの分かりやすい類似例をだします。「宗教」です。しかし神を信仰するのではなくバイブルを解釈します。それがどれほど多様な樹形図的世界をつくってきたかは、今の世界をご覧の通りです。
この自走する多世界及び拡張し続ける世界観のアルゴリズムをフェスに応用することで、ストーリードリヴンなフェスづくりは文化圏まで持続発展するポテンシャルを秘めていると言えます。どういう文化を作るかというと、そうぞう機会を最大化し続ける文化です。
フェスティバルとはそもそも腐った世界に対するカウンターカルチャーとして「では僕らにとって良い世界とはなにか」を机上の空論ではなく身体的にプロトタイピングし実装する営みとして生まれたものです。
しかしそれは課題解決というよりはもう少し定性的で、自由と混沌のブレストの中のグルーヴそのものを最大多数にぶつけ、問うようなものです。そんな混沌世界だから響く言葉があり、行いがあり、物語りがあるから、フェスは今も多くの人々に影響を与えながら、拡張し続けているのだと思います。
その元々あるレジリエンスな文化とシンクさせ、フェスが飽和する現代に埋もれないため、よりコンセプチュアルな光を放つ制作方法として、ストーリードリヴンなフェスづくりをお勧めします。
企画方法について更に詳細に書いたHow to記事はこちら。
RingNeはクラウドファンディング実施中ですのでぜひご覧ください!数名限定で僕が物語の世界を語りながら会場をツアーするプランもお選びいただけます。