ポプラのこと
広島に本社があるコンビニチェーン、ポプラが昨年末に創業50周年を迎えたことを知りました。実は、私も正社員として7年半お世話になった会社です。
2014年のローソンとの資本業務提携以降、街にあった店舗の看板が赤から青に変わったことはご存じの通りです。店内で炊いたごはんを使用した「ポプ弁」は、今やローソンの専売特許のようになってしまいました。
半世紀の歴史の中で、私が在籍していたのはごく短い期間ですが、「新卒入社」という一生に一度の経験と、20代のすべてを捧げたわけですから、少しはお話ししてもよいでしょう。退職から12年以上が経ち、今だからこそ言えることもあるのです。
もともとポプラの独自性は、売上の3%という業界では珍しいロイヤリティ設計と、自社工場で製造したおむすびや弁当を店舗に直送するという、コスト面に優れた製販一貫体制にありました。
大手チェーン本部が粗利の4割強を「持っていく」のが業界の標準ですが、売上を上げることでオーナーの手元にしっかりとお金が残るポプラの制度は、酒やタバコを販売する店舗にとって、コンビニ業界への挑戦を促す要因となりました。
島根県に進学して驚いたのは、街のコンビニのほとんどがポプラで、2000年代前半の山陰地方では店舗数がローソンを上回り、シェア1位だったと記憶しています。当時、セブンイレブンやファミリーマートはその地域にはまだ存在していませんでした。
もちろん、店内で炊飯したごはんを詰め込んだ弁当はポプラの看板商品で、ロードサイドの店舗では、現場労働者たちからの根強い支持を得ていました。
私なりにポプラに「頑張ってほしかった」と思うポイントは二つあります。
一つ目は、本部のオペレーションが弱く、オーナーやアルバイト従業員に悪い意味で裁量を与えすぎていたことです。
例えば、本来「売り」として力を入れていた店内炊飯のごはんですが、計量の徹底がされず、盛り付ける人によって量がバラバラになっていました。お客さまが喜ぶからといって、フタが閉まらないほどてんこ盛りにする従業員もいました。(私もその状況に従わざるを得ませんでした…。あの時代にSNSがあったら、大変なことになっていたかもしれません。)
もし吉野家で牛丼の並を注文して、店ごとにご飯の量が異なったら、チェーンとしての信頼が損なわれますよね。てんこ盛り弁当を喜んだのは特定の客層であり、大多数からは敬遠されたのではないでしょうか。特に女性客には敬遠されたと思います。
そして、もう一つは「人」です。「働き方」という言葉が存在しなかった時代、社員は本当に過酷な状況下で頑張っていました。優秀な人材も多くいました。そういった人々をもっと大切にしてほしかったのです。
結局のところ、「店舗数」こそがステータスだと焦り、既存店舗の足元を固めることなく、広域で大手との陣取り合戦に挑み、ナショナルチェーン化を急いでしまったのです。
今でも時々思います。入社した20年前の時点で、コンビニ業界はすでに飽和状態だと言われていました。それでも、赤い看板を残す道があったのではないか、"第二のセイコーマート"のようになれたのではないかと。
昨年9月、中国新聞に掲載された目黒会長のインタビュー記事で、「セブンイレブンにどう対抗するか、そればかり考えてきた──」という言葉を目にしました。
ポプラ1号店とセブンイレブン国内1号店の出店は共に1974年。その後、大手との激しい競争に挑み続けてきましたが、消耗戦ではなく、優れたオリジナリティと地元広島への密着を武器にした戦略があったのではないかと考えます。
大手コンビニチェーンの店舗開発担当者にこんなことを言わせてみたかった──
「広島に出店しても、長続きしないだろうな。最初は売れるけど、広島の人は飽きっぽいから、結局みんなポプラに戻るんだよ。」