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「海に祈る」
誰が作ったのかは知らないけれど、この海沿いにベンチを置いてくれた人に、私は小さく感謝した。
秋口の海は人もまばらで、薄暗い海の前にたった今到着したのは私だけだった。入れ替わりに帰り支度をしている様子をぼんやりと目で追いながら、波の音だけが耳の中でうねった。この海には昔に一度来たことがあるはずなのに、何だか違う海のようで腹が立った。
―――失恋したから海に来たなんて、ベタすぎたかな。
我ながら安直だったけれど、何か儀式みたいなものが、その時、唐突に必要になったのだ。一人で慣れない高速に乗って、都心から二時間強。思ったより海は近かった。持ってきたものはお財布と携帯と煙草だけで、コンビニに行くような身軽さでここまで来れたことが、何とも驚きだった。着替えて家を出るのが心底億劫であると同時に、たかだかコンビニにアイスを買いに行くだけでもそれなりに着替えないと気が済まない性質(たち)なのに。
観光でも何でもない秋の海は、暗くて寒くて、そして少し不気味だった。
人のいない海岸に大きく打ち寄せて、波の音は耐えることなく何度も響いた。以前に来た観光の為の海とは大違いだ。カメラを出すこともなく、ただただ目の前の海を眺めた。前は、海を見るよりも、一緒に来たことを残そうとする方にばかり気が競って、結局何も心に留められなかったのだと今更気づいた。写真の場面は思い出せるのに、綺麗なものや美しいものへの感動がどうにも薄れていた。年齢のせいだけではなかったんだな、と、安堵のような溜息のような深呼吸をして、ベンチに座った。
シアワセだと勝手に思っていた記憶が、私の内側ではじけて、どこかを刺した。風船が割れるみたいにあっという間に、ぱんっ、と破裂音がした。脳みそが拒否しているのか恋人だった人のかおがぼんやりとして、立体的にならない。けれど、そんなことが気にならない位のはやさで、想い出は小気味よく割れていった。二十代も後半に差し掛かった女が突然しがらみから解放されることに、得体のしれない恐怖を感じた。
かおはぼんやりとモヤがかかっているのに、吸っていた煙草だけは容易に思い出せた。あの煙の何がそんなに恋人を夢中にさせていたのか、今になっても本当にわからないけれど、それでも染みついた煙のにおいは簡単に消えなくて、そんなものにすら哀愁を覚えて、同じ煙草を買ってみたりした。ご丁寧におまけでついてきたライターで、人生初めての煙草に火を灯したけれど、口にくわえることは出来なかった。線香のように立てて、ただただ、ライターでチリチリと煙草を燃やした。
”この煙草は、海で吸おう。”
なぜ、海でなら吸えると思ったのか。皆目見当もつかないけれど、その時の私はそう思った。休日も終わりそうな夕方に思い立って、車に乗って、一人でここに来た。
海がある町のにおいは独特で、風が塩を帯びていた。日も沈んだ暗い海で、灯すように煙草に火をつけた。
急に、つ―――、と、頬が湿って驚いた。
何だこれ、と、一人で濡れた頬を手でぬぐっていると、突然モヤが晴れてしまった。恋人の笑ったかおが、奥行きを持って脳内で再生された。
この海に急に既視感を覚えて、どの場所で二人で笑っていたのかも思い出した。ベンチから見下ろした海沿いを、私たちは歩いていた。どこまでもくだらない話を、それはそれは楽しそうに。肩越しのかおを覗き込むようにして歩いた感覚ですら蘇って、もう何だか呪いをかけられているようだった。
煙草は、結局口にくわえて火を灯せただけだった。チリチリと焦げていく煙草の香りと波の音が、思い出せない会話の代わりに流れていった。叶わなかった約束を呪おうとした。けれど、呪うよりも、恨むよりも、過去のシアワセが痛かった。
――――煙草が随分と短くなった。
明日の会社、と心配になったところで、自分が「明日の会社のこと」を考えられていることに思わず笑った。ここに全部置いていこう。そして、明日に行こう。そう考えたら少しだけ、地面を踏む足に力が入った。
二本だけ燃やした煙草とライターを置いて、私は車へ戻った。
エンジンをかけると、海に向かって停車していた車のヘッドライトが、さっきまで座っていたベンチと、煙草とライターを照らした。
「じゃあね」
車の向きをかえると、暗い闇がベンチをとろりと飲み込んでしまった。
東京まで帰り着いた自分が、少しだけ救われているようにと、背後の海に祈った。
<了>