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「毒薬」
その小さなガラス瓶は、陽にかざすとキラキラと光を反射した。
その中を、無色透明の液体がとぷとぷと波を立てて、瓶を満たしている。
『これが一人分だよ』
たしかに、あの人はそう言った。
私の小さな手にも簡単に忍ばせることができる、これが"一人分だ"と。
あの人に出会ったのは本当に偶然だった。
前期レポートを提出するために行った教授の元で、あの人は静かに笑っていたのだ。
「人畜無害」という言葉を具現化したようなその顔は、内側からぼんやりと光るような青白さだった。
彼は、研究室から出た私のすぐあとをついてきた。お互いの研究の話を自己紹介がてら述べてから、学食にでも行かないか、と言う話になった。その後の予定も特になかった上に、彼がどこまでも善良そうであったので、二つ返事でついていった。
「実は僕、精神に効く薬の研究をしているんだよね。」
自販機のコーヒーに半分ほど口をつけてから、彼はそう言った。
「精神に効くーーーー?」
「そう。今も既に、それに近い薬は世に出回っているでしょう?」
抗うつ剤や、精神安定剤をざっくりと説明しながら、白く長い指でゆっくりと、彼は鞄から小さなガラス瓶を取り出した。
「それらとは、厳密に言うとまた少し、違うのだけれどね。今研究中なんだ。」
小さな、小さな瓶だった。3センチほどの高さしかなく、その小さな瓶の半分くらいまで、何やら透明な液体を秘めた、綺麗な小瓶。
「これは、何?」
彼はゆっくりと微笑んで、コーヒーの缶に手を伸ばした。
「毒薬。」
こくり、と、コーヒーが彼の喉を通った。
『あげるよ、お近づきの印に。』
初対面の相手に"毒薬"などと銘打った小瓶を、あげる方もあげる方だが、貰う方も貰う方だ。
『これはね、すごいんだよ。』
善良そうなその彼は、虫も殺せぬような慈愛に満ちた顔で、"毒薬"という名の小瓶を解説した。
『人間の"淋しさ"に反応するんだ。』
ふふ、と笑って、心底嬉しそうに小瓶を眺める彼は、とても危うくて、とても神々しかった。
私はそんな彼をぼんやり見つめながら、宮部みゆきの『名もなき毒』を思い出していた。
『毒、というほどでもないんだよ。ーーー最初はね。』
その薬は、人間の淋しさを膨らませて、寂しくて淋しくて、悲しくてやるせなくて、生きる気力をゆっくりと削いでいくのだという。
『誰かの笑顔が、どうしても許せない時があるだろう?』
私のことを、秘密を共有した友人に向けるような、そんな目で、彼は優しく問いかけた。
『これが一人分だよ。』
ふふ、と、息をもらすように笑って、彼は席を立った。
私の手の中に、その小瓶は残ったままだった。
それから、いつのまにか夏が過ぎて、秋の息遣いもゆるやかに失われた頃、私は"毒薬"のことをすっかりと忘れてしまっていた。
正確には、忘れたわけではなかったのだが、『考えないようにする』という方法で、その毒薬は私の世界とは少しだけ切り離されたところにあった。
私の大きな幸運は、そこまで誰かを憎むほどのエネルギーがなかったことか。
それとも、憎むべき人に未だ出会わずに済んでいたことか。
今となってはわからないけれど、毒薬は使われずに、たぷたぷと、ガラス瓶を満たしていた。
そんな時だった。喪服を着た教授とすれ違ったのは。
「おお、寺井くん。」
教授は、仕立ての良さそうなコートを脇に抱え、私を見つけて近づいてきた。
「園田教授、お疲れさまです。」
見るからにこれからお通夜、という出で立ちから話題を避けるのも不自然な気がして、『どなたか、ご不幸ですか?』と、声をかけた。
「ああ、そうなんだよ。教え子の院生でね。非常に熱心な子だったから、残念だーーーー。」
江戸っ子らしいぱきぱきとした雰囲気はいつもより薄れていて、教授は懐かしむように目を細め、そして淋しそうに笑った。
「こんな老体よりも先に行くなんて、全く、気が早いな。」
人の感情にとても興味を持った子でね、と、途中まで一緒に歩きながら、教授はぽつりぽつりと話した。いつもより少しだけ背中を丸めながら話す様子は、普段の威勢の良い、快活に笑う人柄からは想像できなかった。
「心理学の僕のところに来たのも、そういう理由でね、非常に熱心で、びっくりしたんだ。」
何やら薬を研究してるとかでね、
と、教授が言ったところで、ちょうど別れ道になった。
『あ、』と、思った。
夏に会った、あの白く長い指と、善良そうな顔と、綺麗なガラス瓶の持ち主を思い出した。
「君も一度会ったことがあったかもしれないね、僕の研究室で。」
教授は立ち止まり、肩の力を抜くように笑いかけた。
「"何"で、亡くなられたんですかーーー」
少しだけ声が震えていたけれど、教授は特に気にも留めていないようだった。
「さあ、僕もまだ詳しく聞いていないんだけどねーーー何しろ急だったからーーー。」
自分で命を絶ったらしい、と言う話を何枚もオブラートに包んだような言い方で、教授はお茶を濁した。
「じゃ、また。」
教授は軽く右手をあげると、駅へ向かって歩き出した。
家に帰ると、私は夏以来閉じ込めたままになっていた小瓶を、机の引き出しから取り出した。
月夜の窓辺で、光を淡く集めながら、小瓶はきらきらと輝いて、とぷとぷとした液体は、相変わらず不思議な不気味さと美しさでそこにあった。
ーーーあの人は、これを飲んだんじゃないかな。
善良そうな顔を思い出しながら、私は思った。
『人の感情にとても興味を持った子でねーーーー。』
きっと彼は知りたかったのだ。
極限までの淋しさと、極限までの哀しさを。
私は想像した。
今日と同じような月夜の晩に、あの白く長い指で、この小さなガラス瓶を傾ける、あの人を。
それは驚くほどに、そして夢のように、美しくて不気味で、私はしばらくそのまま、魅入られるように夢想した。
たぶん、彼はこんな美しさに魅入られたのだーーーーと。
〈了〉