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「あの春は二度と来なかった(1)」



大学1年生の春は、一度しか来なかった。

当たり前じゃん、とリョウヘイに一笑されてから、いや、当たり前じゃねえよ、と深刻な顔で返したが、自分でもその理屈はわからなかったし、僕の「シリアス」はリョウヘイにとっての「コミカル」だったようで、隣りでうどんをすすっていた学生が、ちらり、とこちらの様子を窺うくらいには周囲を気にせず、げらげらと笑い声をあげた。


「どの春も一回きりですよ」

もう七十二になるヤスヨさんが目をきゅっと細めながら笑うので、僕はなるほど、と急に納得して少し冷めたポテトを口に運んだ。ヤスヨさんはこの大学で文学部の授業を「聴講」している人で、テスト期間にノートをコピーさせてもらった縁で、たまにこうして一緒に食事をとっている。穏やかさが顔のしわ一つひとつに表れているような、優しいおばあちゃんだ。

「聴講」というのは、単位や成績と全く関係がない。テストを受けたり資格を得る為ではなく、ただ単に興味がある授業に参加したい、という人の為に用意されたカリキュラムで、もともと本が好きなヤスヨさんが純粋な興味から、お金(曰く、学生よりはずっと安い)を払って授業を聞きに来ている、ということらしい。


最初に授業を受けたとき、世の大学生のほとんどが敬遠する、大教室の最前列に座るおばあちゃんは一体何者なのだ、と思っていた。ぴかぴか一年生の、人並み程度にしか文学が好きでない僕は、同じクラスのリョウヘイと一緒に窓際一番後ろがいつもの定位置だった。お互いノートを取ろうという努力はなんとなくしていたはずだったが、担当教授の声に申し分ないほどのα波が含まれていて、授業終了のチャイムが鳴って自分たちのノートを見ると、よだれのあとと、縦横無尽に走る謎の線が散っていて、これはもう無理か、と二人で思っていた。

そんな密談を廊下で聞きつけたのがヤスヨさんだった。とんでもなく達筆なノート(ヤスヨさん独自のアドバイス付)をコピーさせてもらえた僕らは、睡眠時間と4単位を、ヤスヨさんはごはん仲間を、それぞれ獲得して、現在に至る。



「ヤスヨさんのお孫さん、この春から社会人だっけ。忙しいんじゃないっすか?」

牛丼と味噌汁をとっくに完食したリョウヘイが、うまそうにコーラを飲みながら言った。年長者に敬意をはらっているような、はらっていないようなこの口ぶりは、リョウヘイの他者に張る壁が非常に薄くて低いことを表している、と僕は思う。誰かと関わるとき「礼儀」を一番に考えてしまい、それがいつしか「他人行儀」になってしまう僕と他者との壁は、ほとんどの場合分厚い。壁というよりはもはやカーテンをひく程度なリョウヘイの距離感は、人見知りで余計なことを考えてしまう僕にとって、いつも眩しい。

「そうねえ。まあでも、ごはんはちゃんとたべているようだから、大丈夫でしょう。」

ヤスヨさんの健康のパロメーターは「ごはんを食べているか」だ。「寝不足」よりも、「寝不足によって食事が進まない」ことを極度に心配する。今日のリョウヘイの牛丼に付いている味噌汁も、僕のハンバーガーセットの横に当たり前のように置かれた味噌汁も、「若い子は栄養を取らないと」というヤスヨさんが奢ってくれたものだ。食べ盛りの僕らはありがたく頂戴し、代わりになるかどうかは怪しいが、珍しそうな飴を見つけては(ヤスヨさんは飴玉を入れたポーチをいつも持ち歩いている)ヤスヨさんに差入れしている。


ヤスヨさんとリョウヘイが、新社会人になったお孫さんの話で盛り上がっている横で、僕はふと、窓の外に咲く溢れんばかりの桜を見下ろした。正門へつづく桜並木は、風に揺られてゆっさゆっさと木々をふるわせていて、薄ピンクの花びらが嵐のように舞っていた。「どの春も一回きりですよ」というヤスヨさんの言葉が頭の中でもう一度聞こえて、僕は改めて、一回しか来なかったあの春を思い出した。





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自分が新入生ガイダンスに遅刻するなんて夢にも思わなかった。

目覚まし時計の電池切れという漫画のような展開で、息切れしながら文学部棟の階段を駆けあがる。大教室の開け放した扉から、「資料を配布していきます」という、マイクを通した声と、新入生のそわそわした新品の空気がもれていた。なんとか間に合ったみたいだ、と安堵しながらも、汗びっしょりで遅れて入ってきた自分と、それに気づいた新入生たちの視線とで極度に緊張した僕は、席に着く途中で上着を脱ぎながら、ポケットに入っていた小銭を盛大にばらまいた。


ジャラ!


硬貨の散らばる音が大教室中に響いて、何事かとみんながこっちを見る。緩やかな傾斜になっている大教室の階段を、十円玉が転がっていく。僕は慌ててそのあとを追って、階段を駆け下りていった。

「ジューエン拾(ひろ)てる場合ちゃうぞ」

と、関西訛りでマイク越しに声をかけてきたのは後の担任教授で、注目を一身に浴びた僕は、生徒の爆笑も一緒に浴びることになった。誰ともなく呼び出した「ジューエン」という渾名に困惑していた頃、「お前、おいしいなー。」と初対面で僕の渾名を心底羨ましがったのが、リョウヘイとの出会いだ。それ以来、僕はこのなんとも安あがりなあだ名を気に入ってしまっている。


翠さんと会ったのも、同じ頃だった。


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「翠さん、元気かな。」

誰に問うでもなく、ひとりごとのようにつぶやいた。

「翠さん?」

リョウヘイが飲み終わったコーラの缶をぐしゃっとつぶしながらこっちを見た。ヤスヨさんは食堂の温かいお茶にゆっくりと口を付けている。

「ほら、去年必修が一緒だった、四年生の女の人。」

「あぁ、あの綺麗な人?」

人の顔をなかなか覚えないリョウヘイがそう形容するほど、翠さんはすごく綺麗な人だった。それは彫刻や絵画に出てくるような、線の細い冷たい美しさで、すれ違う誰もが視線を向けずにはいられない、どこまでも容姿に恵まれた人だ。

「うん、たぶんその人。」

「あの人も今年新卒だろ、たしか」

「いや、結局留学行っちゃったから、就職するのは来年だって」

僕が答えると、リョウヘイが少し驚いたような顔をした。

「なに、お前仲良かったの、あの人と」

「まあ発表グループ一緒だったし、多少な」

翠さんは再履修で僕たちと同じ授業を取っていた。その授業はグループ発表を割り振られるカリキュラムで、くじ引きの結果、5人グループとして一年間、僕と翠さんは一緒に課題を取り組むことになった。

「へえ。あの人と会話弾む姿がイメージ浮かばねえわ」

人見知りとは無縁そうなリョウヘイがこういうのも珍しいが、確かに翠さんと会話をつなぐ行為は、本当に難易度が高かった。発表の為にグループで行動することが多かったが、やるべきことはやってくれるものの、何となく和気藹々という雰囲気にはならず、いつも緊張感をともなったグループの集まりは、その名の通り「授業の延長上」という感じで、可もなく不可もなく、僕たちが課題研究以上の関係になることはなかった。


―――翠さんと僕の間に「ひみつ」が出来るまでは。



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「これ、この前言ってた資料。」

窓から入って来る風みたいな声で、翠さんが僕に声をかけた。

「あぁ、どうも…。」

綺麗な人だけど、話しづらいなぁというのが、率直な僕の翠さんへの印象で、その日はたまたま集まれる人が少なくて、僕と翠さんの二人きりだと知ったときは、何とも居心地の悪い気持ちになっていた。

何しろ年上ということもあって、どの程度の距離感で話していいものかという尺度もわからないまま、発表まであと2週間ない、というところだった。


「とりあえず、18ページのこの台詞については、作者の意図を必ず質問されると思うから、準備が必要だと思うのだけど。」

どう?というように、翠さんが視線をこちらへ送ってきて、うんうんと頷くと、

「じゃあこの台詞については、この資料の185ページを参照する形でいいかな」

と、今度は独り言ちて、僕は本当にその場にいるだけだった。あっという間に必要な話し合いは済んでしまって、次回の集まる日と、その日までに考えてくることを決めるだけになった。


「じゃあ、私は考察①と参考文献をまとめてくるから、笠井君は考察➁をお願いしていい?次はいつが空いてたかな―――」


彼女が手帳を開こうとしたまさにその時、「翠!」と、名前を呼びながらこちらへ近づいて来る人がいた。そしてタイミングを同じくして、翠さんの手帳から、一枚の紙片がするりと床に落ちた。


それは一枚の写真で、今まさに、翠さんに近づいて来る人と同じ人物が、カメラに気づいた風もなく写っている写真だった。


 


今でもどうしてそんなことをしたのかわからないけれど、何となく、その時の翠さんの表情と、笑顔で近づいて来るその人を見て、この写真は人目に触れてはならないものだと瞬時に悟った僕は、気づけばその写真の上から、自分の資料をわざとばらばらと落として、隠していた。


「すみません!」

と、慌てたふりをして、写真と資料を回収し、写真は資料の中にそっと紛れ込ませ、席に着いた。翠さんは泣きそうな顔をしていた。


「翠、何してんの。前言ってた発表準備?」

「そう。そっちこそ、3限はどうしたの。」

「さっき来たら休講になっててさ。暇ならアイス食べよ。」

「まだもう少し時間かかるから、終わったら連絡する。」

「おう」



それだけ会話してしまうと、ぱたぱたと向こうへ行ってしまったその人物は、確かに、さっき見た写真の人だった。

翠さんはうつむいたまま、小さな声で「ありがとう」と呟くように言った。泣きそうな表情はもう既に隠した後だったけれど、悲しいような照れたような顔で、けれど何事もなかったようにスケジュール帳を開き、日程を確認した。





僕の勘違いでなければ、たぶん写真の人物は翠さんの好きな人だ。

そして、これも勘違いでなければ、確かにボーイッシュではあったけれど、さっきの人は女の人だった。






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〈続〉







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