spica.4 「レプリカたちの放課後」について



年頃の中学生たちと話す機会は、限られた職種にしか与えられていないと思う。

塾講師もその一つで、彼ら、彼女らと相対していると、忘れていたものや、ずっと遠かったものが突然浮上してくることがある。このバイトが出来るのも卒業までの残り短い期間なのだと思ったら、急に、今のうちに、この子たちのことを、この子たちくらいだった時のことを、思い出せるうちに書いておこうと思った。



「レプリカたちの放課後」の主人公は、周囲のことに敏感だけれど、自分のことはそれほど理解に至っていない。自分が学生の時、ふと思った違和感はこれだ、と、この年になって気づいた。

大人たちは、中学生の「行い」にばかり気を取られて、「思考」の成長へはあまり気づけていなかったのかな。と、親にもなっていない自分が言うのはおこがましいかなとも思うが、そう感じた。「この子たちはまだいろいろなことに気づけていないのだ」の、大人の線引きは意外と雑な気がする。


対して子どもたちはというと、周囲がようやく視界に入ってきたために、ひどく敏感になっている。少しの悪意、少しのプレッシャー、そうしたものを嗅ぎ分けることに非常に長けていて、大人たちの嘘や矛盾には特にそうだと思う。

そうして様々なことに気づいてしまって、傷ついたり、自己嫌悪に陥ったりしているところに、「何にも知らない」と上から発言する大人たちの存在は、それはさぞ苛立つであろうと、何だか少し同情もした。こればかりはどちらが悪いということではなくて、お互いの立場があるのだから、もう一生ずっと、この位置関係は変わらないのだと思う。






タイトルを「レプリカたちの放課後」にしたけれど、一番描きたかったのは「レプリカ」という言葉から派生するものだった。「大人のレプリカ」この言葉を見つけてようやく、この話が描けるなとそう思った。


読んだ人に向けての記事になってしまうけれど、主人公はまだ川村への好意を自覚していない。何となく特別で、何となく気になる。ただそれだけなのだ。そして、その興味の根源は、川村が発したその一言が、その時の自分を的確に表していたという、本当に純粋な感動の状態。興味であって、好意を自覚するには至っていない。だからあえて、明言はしなかった。




けれど、一番最後の一文は、あれだけは恋だと思う。それだけは意識して書いた。それ以外は、ただ中学生の「気づき」を詰め込めればよかった。

本人もまだ気づいていないけれど、あの感情が、自分がいっぱいいっぱいの時に誰かのしあわせを祈ってしまうことが、いつかものすごいことだったと気づくかなと、何だか保護者になったような気持ちで物語を締めた。




願わくばいつか、現役の中学生たちにこれを読んでもらって、どんな感想を持ったのかを知りたい。





〈了〉






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